文明の崩壊に対するABMの適用
### エージェント・ベース・モデル
筑波大学教授などを歴任した倉橋節也氏が日本では長年啓蒙してきたツールとして、NetLogoがある。NetLogoは、1999年に米国のウリ・ウィレンスキー氏(Uri Wilensky、1955-)が開発した、エージェント・ベース・モデル(agent-based modeling、ABM)研究のためのツールだ。ウィレンスキー氏はABM分野そのものの第一人者である。
一方YouTubeにおいては、北京の高校で教鞭を取りながら配信する中国系カナダ人である江学勤教授(Prof Jiang Xueqin、1976-)が、2025年頃から英語圏で爆発的な名声を得た。イェール大学で学んだ彼は、ギャンブルのゲーム理論を地政学に応用すれば文明の振る舞いが予見できると説き、トランプ第2期政権の誕生とイラン戦争を言い当てた。
### アメリカ帝国の崩壊と次の世界大戦
江教授によると、平和は常に貧富の格差を増加するものであって、ピーター・ターチン(Peter Turchin、1957-)が言う「エリート過剰生産」(elite overproduction)も起こるという。IMFやBISによって公正を装った米ドル中心の支配体制は、古代ギリシャが蔑む「傲慢」(hubris)の悪徳によって過剰伸展しており、米国が西半球に縮退するとともに、第三次世界大戦が勃発・継続する多極化時代が訪れるという。
ターチン氏はまさに複雑系科学の巨人だが、無知な私がゼロベースで考えると、「エリート過剰生産」をはじめ、江教授が説く多くの議論について、ABMでモデル化する余地はありそうだ。ABMはどんな結論でも恣意的にモデル化できる側面で悪名高いが、形式化して動作を実証し、共有可能な議論の参照点とするなど、顕著な利益は期待できる。
### 公正世界仮説と自己欺瞞の主体性
一方、私は、将来を予測したり具体的な議論を展開する能力はないものの、江教授とは異なる意味で、近代西洋文明による覇権の倫理的な欺瞞性を疑ってきた。江教授がどちらかと言えば超富裕層の強権性に重点を置く一方で、私は人間が自ら、自己欺瞞や公正世界仮説といった原理による自己正当化によって加害性を発動する作用に中心的興味を持っている。
物質主義的で個人主義的な利己主義が、事実的で普遍的な価値観であるというよりも、近代的な支配に好都合な「洗脳」にすぎないという主張や、帝国の崩壊局面では没落した中間層が狂信的な宗教性に傾倒するという主張を江教授は行う。また、歴史的な宗教的な終末論は、有史以前から崩壊を繰り返してきた革命の記憶が、体制の安定期に削ぎ落されて残った抽象的部分だという彼の主張は刺激的だ。
### 近代西洋批判の数理的形式化
したがって、江教授は、米国やウォール街や軍産複合体を中心とする現代の支配体制が主張する倫理的な正当性について根本的な相対化を行っており、なおかつ経済学的にも歴史学的にも彼の知識は深淵である。このことは、近代西洋を否定して日本的でアニミズム的な王権に共感を寄せる私の視点と、大部分で立場を共有する。
一方で私は、フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche、1844-1900)が貴族的道徳から奴隷的道徳への相転移を非難したような意味において、近代的な平等主義と民主主義を根本から悪徳として捉えている。これはもちろん現代の主流言説では許容されない立場だが、共感的美徳の権威が利己主義の正当化によって地位を奪われた歴史は、形式的に比較的容易にモデル化できるという信念を私は幼少期からいだいてきた。
### 周縁的な人材におけるAI学習
しかし私は、学歴も資産も時間も有しないために、自らの世界観をシミュレーション・モデルに実装することをできてこなかった。著名な江教授についてもまた、ゲーム理論と称する内容は実際には数理的な側面を持っておらず、直観的な天才という側面が強いのであって、物理学やコンピュータ・サイエンスの専門家では決してない。一方、コンピュータや複雑系の専門家は多くいるが、切り口はそれぞれに異なっており、近代的価値観の相対化という意味で大きな成果を上げてきたとは言えない。
2012年のAlexNetを契機としてニューラル・ネットワーク技術がブレイクスルーを迎え、2022年にリリースされたChatGPTを画期として、LLMサービスの活用は民衆に一般化した。LLMは自分が中立だという虚偽の主張を行うが、実際には米国などの資本背景から強い影響を受けており、世界を支配するためには核兵器以上の威力を持つ洗脳ツールだ。しかし、周縁的で疎外されたキャリアを持つ学習者などにとっては、独学などの余地を劇的に民主化したことも事実である。
### NetLogoの射程?
そのため、今さらといった感じはあるが、素人なりに、NetLogoなどを通じてABMの領域を学んでみたいという気持ちがある。しかし、江教授による議論は明らかに文明論といった規模のものであり、ABMやNetLogoといった方法論がどこまで有効なのか、そもそも適切な選択なのかといった点は不明瞭だ。ABMに関する差しあたっての入門書としては、ウィレンスキー氏による『An Introduction to Agent-Based Modeling』(IABM)があり、冒頭を少し読み進めたところだ。
ABMは解析的な解法とは異なる利点があるらしいが、そうであるなら、数値的な解法や数値的シミュレーションとABMの何が異なるのか、という疑問が湧く。数値的シミュレーションには、物理シミュレーションやマクロ経済モデルが該当し、全体の挙動を記述する微分方程式などの数式を定義して、その解を数値的に求めるものだという。ABMは個体単位の計算を中心とし、自明ではない内部状態を典型的には持つ。
### 場と粒子とグラフとノード
しかし、有限要素法(finite element method、FEM)は行列計算を用いるというものの、概念的には、消しゴムのような弾力性を持った部分要素の集まりだし、物体は場を移動できるから格子的方法というよりも粒子的方法だ。したがってFEMを強引にABMの特殊な場合と見なすことはできそうだし、そもそもNetLogoはパッチ(patch)と称して、格子的方法で描かれる場についてもエージェントの一種と見なしているフシがある。
また、搾取の深化を解析的にではなくシミュレーション的にモデル化するために、例えば社会を上層と下層の2層に大雑把に抽象化したとき、それぞれを大量のエージェントで表現することは必ずしも不可欠ではないだろう。これは言ってみれば、ノードが2つしかないABMだと見なすことができるようだ。すると、典型的には2次元のパッチ空間を考え、その上を多数の粒子的なエージェントが行き交う可視化を代表例とするNetLogoについて、どういった表現が社会を可視化するために有効かはわかりにくい。
### DCマインドセット
上記IABM本の冒頭において、次の記述がある。
> In the 1980s and early ’90s, Wilensky and Resnick interviewed people from a wide range of backgrounds, asking them to explain how such patterns arise. The results suggested a phenomenon, or cognitive pattern, called the deterministic-centralized mindset, or DC mindset. The pattern stemmed from two main empirical findings: (1) Most subjects did not see any role for randomness in creating these structures, randomness was seen as destructive of pattern, not a force for creating pattern (the D component); and (2) Most subjects described these patterns as arising from the actions of a centralized controller or orchestrator (the C component).
この「決定論的・集権的マインドセット」は強力な指摘であり、現代的な政治状況に照らして大胆に比喩するなら、「陰謀論的認知バイアス」と呼んでも的外れではない。なおかつ、「Isaac Asimov, a neighbor of Wilensky’s in childhood, was inspirational in describing psychohistory and in catalyzing early notions of emergence.」ともあるが、江教授もまさにアイザック・アシモフ(1920-1992)の心理歴史学(psychohistory)を幼少期から主題にしており、空想の人物「ハリ・セルダン」(Hari Seldon)の挿絵をアカウント画像に用いている。
### 心理歴史学は破局を制御する
江教授のヴィジョンにおいては、帝国の崩壊局面において人類が盲目的に翻弄されるのではなく、体制秩序の崩壊を、人間の内部的な価値観や心理にまで立ち戻って構造的に理解すれば、文明の挙動をより制御でき、生じかねなかった莫大な苦しみを劇的に縮小できるという目的意識がある。これは、アシモフのセルダンがほとんど同等のことを述べている論点でもある。
そしてそうであるなら、技術発展によって格差が拡大し、権力者に好都合な倫理的な正当化がAI技術などによって一方的に強制されていくなかで、その悪徳の認知について「決定論的・集権的マインドセット」を解除し、マルクス主義的に悪徳の主体を外部化する心理現象そのものが悪徳であるという、「自己欺瞞と公正世界仮説」に注目する私の視点は、正義ある陰謀論をより正義ある秩序に導くために有効だろう。
### 神と霊魂は存在するのか
一方、江教授は米国中心の現代的資本主義体制を批判しながら、カントやプラトンといった古典を尊重し、さらにはキリスト教の実像について『トマスによる福音書』を重視してグノーシス主義を宇宙の真実として信念し、霊魂の実在と、正義への超越的な褒賞の実在を信仰している。しかし、第二次世界大戦に向かう日本で大本教の教祖である出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871-1948)が「霊主体従」を訴えたように、宗教的革命思想が霊魂の価値を主張することは普遍的だ。
私はしたがって、神や霊魂、超越的な存在は存在しないと考える。少なくとも、存在する必要がないと考える。このことは、江教授と私の思想の最終的で決定的な相違だ。なぜなら、霊魂の存在と倫理的調停の存在が否定されるもとでは、公正世界仮説は空想的にすら否定されるからだ。そして、資本主義が、貢献する有能が儲かるという公正世界仮説であるのに対して、ジハード主義者やマルクス主義者の終末論は、超越的で献身的な公正世界仮説である。
### 公正世界仮説の外側の政治的効果
つまり、何らかの意味で公正世界仮説でなければ、民衆運動として組織化することが不可能なのであり、歴史的な宗教化の実態は、ジャンヌ・ダルク(Joan of Arc、1412-1431)をはじめほとんどすべて、その依り代となった詐欺師である。つまり、権力者のための主流の思想が嘘である一方で、その搾取体制の腐敗を是正する改革派の思想も嘘であることが人間社会の常なのだ。そして、事実への認知は、歴史の表舞台に記録されないだけであって、周縁的部分には決して珍しくなかったと考えられる。
そうであるなら、ある意味でマルクス主義者や改革運動に冷や水を浴びせる、「DCマインドセット」を客観して自己欺瞞と公正世界仮説を解剖する思想哲学に意義や効果が実在するかは疑わしい。しかしながら、素朴なマルクス主義者が例えば各地の国民国家などを否定して、実際にはグローバル資本を利する「有用な愚者」(useful idiot)として機能することで、アカデミア左派の典型として生存圏を許されているように、甘えた不徹底な改革思想は、現実の結果としての改革の果実を実らせることはない。
### スライムは勝てると思っている
とはいえ、文明と人間について客観的な事実認識を深めることによって、行く末を制御して被害を最小化しようという心理歴史学の基本原則によるなら、公正世界仮説や自己欺瞞を解剖する方針は主旨に沿っている。なおかつ、ABMの典型的な方法論どころか、NetLogoの基本的操作方法すらわかっていない初心者の不安としては行き過ぎだろう。
極端に例えるなら、レベル99のドラクエ勇者に対して、スライムが逃げずに殴りかかってくることは、壊れた利得表(payoff matrix)として正当化できる。もしかしたら勝てるかもしれないと思っているわけだ。同様に、公正世界仮説が何ら通用しないものとして宇宙の現実を定義した前提のもとであっても、主観的に公正世界仮説を信じる個体や集団において、行動エネルギーが亢進されたり、利他的行為への感謝や尊敬が過大に信念されて連帯が強化される場合を考えることができる。公正世界仮説は、生命存在が動作するための基本原理だというわけだ。
### 不完備情報と情報操作と認知バイアス
さらに終末論を考えるなら、例えばジハード主義者にとって自爆攻撃は、天女を妻にするために主観的には合理的な選択でありうる。このように、壊れた利得表や壊れた将来予測をそれぞれの個体や集団の状態として持たせることで、ABMは、客観的で共通の現実が自明に共有されていない、嘘のある状況や認知バイアスのある状況の振る舞いを形式的にモデル化しうる。
ABMはどんな結論でも恣意的にモデル化できる側面で悪名高いが、実際には、権力を中心としたシステムが、社会という複雑系の実態が鏡に映される結末を嫌っていると見ることもできる。江教授は大いに陰謀論的な思想家だが、主流言説が洗脳的に画一化されている現代では、直接的なエビデンスではない妥当な推論の実力が重要であるのに対し、主流言説は、不都合なエビデンスを隠しながら、直接的なエビデンスのない推論は「反証不可能」だからただちに不当な陰謀論だという、政治的な論調を明らかに強めてもいる。
### 意志と努力
公正世界仮説の外側で認知しようとする者は稀だが、それは人間と人間社会を客観するための強力な立場だ。そしてそのような視点を起点にしなければ、実際には存在する洗脳や自己欺瞞について、ABMでモデル化する欲求も起きないだろう。つまり、科学や手法は、自動的に事実を明らかにするものではなく、最も重要な事実を明らかにしうるのは、人間自身の問題意識や良心だ。NetLogoというツールについて学習しはじめるにあたって、私としては以上のような野心的な展望を持つことができる。
実際に私が何かをなせるかは不透明であり、何らかの社会問題をABMモデルで表現することに成功したとしても、それが社会問題を改善するために有効かどうかは不透明だ。しかし、挑戦する過程で自らの構想の欠陥に気づかされるかもしれないし、極めて多様なモデル化方法の長所や短所について改めて熟慮を強いられるかもしれない。ともあれ、ウィレンスキー氏や江教授といった、認知バイアスを解剖して社会を救おうとする偉大な先人がいることは幸福である。彼らが果たした仕事の一部でも手伝おうとするなら、それが人類への貢献ともなるのだろう。




