伝えられない言葉のかわりに、君に贈るスズランの手紙
「フロレンス嬢、婚約解消しよう」
彼、ガブリエル・ローゼンベルクはそう言った。
窓から差し込む光は淡い。
カップを置いた音で、琥珀の液体に小さな波紋が広がった。
彼の銀灰の瞳は、婚約者であるフロレンス・ベルフォードを見なかった。
窓の向こう。霧にかすむ王都の空を見つめている。
「あ……」
フロレンスは俯き、唇を噛んだ。
「……はい」
瞳を伏せる。
喉の奥が締まる。
もう一度顔をあげた。
ガブリエルの端正な横顔。
艷やかな黒髪。
澄んだ銀灰の瞳。
ティーテーブルに置かれた手はきつく握られている。
長くて繊細なその指に、ついぞ触れられることはなかった。
洗練された服装。
無駄のない立ち姿を持つ、彼。
フロレンスは、彼の横顔を目に焼き付けるように見つめた。
――分不相応だったのよ。私に、彼は。
「……ガブリエル様、どうか……お元気で」
かろうじて声に出せた言葉は、自分でも驚くほどそっけなかった。
立ち上がり、逃げるように部屋を出る。
扉が閉まる間際、彼は俯き、その顔を手で覆っていた。
その手は、震えているように見えた。
乾いた音が、執務室に響いた。
頬を打たれたフロレンスは、体を支えきれず床に座り込む。
打たれた頬に、震える手で触れた。
「……ローゼンベルク家の若造さえ繋ぎ止めておけないとは。
――出てけ。呪われた赤髪が」
「……お父様」
父も、彼女を見なかった。
フロレンスを打った手を擦りながら、彼は執務机の椅子に腰を下ろす。机上の書類に再び視線を落とすと、眉をゆがめた。
「腹立たしいな」
歴史の浅い子爵家とは思えぬほどの豪奢な部屋。
マントルピースの上に並ぶ、黄金の装飾品は、いつからあったものだろうか。
しかしそれを、フロレンスが教えてもらえる日は、この先も来ない。
父が、ふと、顔を上げた。
「まだいたのか。早く出てけ。
一刻も早くこのベルフォード家から出てってくれ」
フロレンスは立ち上がると、父を見た。
父は淡い金髪に琥珀の瞳。
フロレンスは、煉瓦色の髪に空色の瞳。
――どこも、似ていなかった。
フロレンスは小さく息を吐くと、深く頭を下げて、
――また、逃げるように部屋を出た。
トランクに少ない荷物を詰めて、邸宅を出た。
他の家族にも、使用人にも、誰にも止められなかった。
黒鉄の門が背後で閉められる。
見上げた空は、霧で霞んで青白かった。
ガス灯の黒いポールが並んだ広い石畳の道。
彼女はトランクを持ち上げた。
そして、一人、歩き出した。
王都の中央駅にたどり着いたフロレンスは、その鉄とガラスの巨大ドーム屋根を見上げた。
陽射しを弾き、鈍く光を返している。
汽笛の音が、構内から聞こえてきた。
人が多く行き交う。
雑踏。
話し声。
フロレンスはトランクを両手で持ち上げて進むが、どの汽車に乗るかは決めかねていた。
そもそも貴族令嬢として育てられた彼女は、一人で汽車に乗ったことはない。
母が遺した個人資産は持ってきた。
だが、それで女一人どれほど生きていけるのか、彼女には分からなかった。
ホームに立つ。
汽車の黒い車体。
光が薄く反射し、車輪の間から吐き出される蒸気が足元を白く覆った。
「お嬢さん」
声をかけられ、振り返る。
人好きのする笑顔を浮かべた、中年の女性。地味な旅装のドレスだったが、姿勢の良さと落ち着いた物腰のせいか、貴族の屋敷にいても違和感のない、ガヴァネスのような雰囲気をしていた。
「お嬢さん……訳あり?」
「え……」
フロレンスは一歩下がる。
「あたしもね、目的地を決めない旅だったんだけど。次は温かい国の港町に行こうかと考えていてね。
どこに行くか悩んでいるなら、一緒に行くかい?」
「そんな……申し訳ない」
女性はバチッとウィンクをした。
「女一人旅は危険だよ。
旅慣れしたあたしを連れていけば百人力。
さ、どうする?」
フロレンスは少しだけ俯く。
やがて、意を決したようにまた顔をあげ、真っ直ぐに彼女を見た。
「……では、途中までご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「あっはっは! いいよ! あたしも話し相手ができて嬉しいよ」
二人は汽車に乗り込んだ。
数日汽車に揺られ、港に着くと、今度は船に乗った。
そうして、さらに旅を続けた。
フロレンスがたどり着いたのは、祖国アルストリア王国よりも温暖な場所。
古い石畳の港町だった。
白い石造りの建物が並んだ、狭い道を歩く。
壁を這う蔦。
曲がりくねった石畳。
どこかからか聞こえてくる子どもの笑い声。
「いい街だね!」
「……はい」
すれ違う人は、フロレンスたちをチラと見ると、みな、にこりと笑った。
「港町だからね。人の行き来が多いんだ。
だから、よそ者にも抵抗がない」
「……そうなんですね。
イングリッドさんは、ここに来たことがお有りなのですか?」
いつの間にかトランクはイングリッドが持ち、フロレンスは彼女の小さな手荷物を持たされていた。
彼女、イングリッドは振り返るとニカッと笑う。
「ちょっとだけね。
あたしの雇い主の坊っちゃんの付き添いで。坊っちゃんもここを気に入ってらした」
フロレンスは、彼女の人懐こい笑みに、つられるように口角を上げた。
船旅で仲良くなったフロレンスとイングリッドは、しばらくこの地に一緒に住むことにした。
坂道を上って振り返れば、オリーブ畑と海が見える。
潮の香りを含んだ風が、フロレンスの煉瓦色の髪を優しく撫でていった。
ここなら、静かに生きていけるかもしれないと、彼女は初めて思った。
フロレンスとイングリッドが借りた部屋の出窓は、よく陽が入った。
そこに二脚の椅子を置き、並んでぼんやりと外を眺める。
向かいの家のバルコニー。
白く塗った鉄柵に肘をつき、老婆が通りを眺めていた。
縄に掛けられた洗濯物は、風にゆったりと揺れている。
祖国の空は、いつも霧で白く霞んでいた。
だが、この国の空は、ずいぶん色が濃い。
「ここは……時間が流れるのが、ゆっくりね」
「こちらの方が人は陽気ですけどね。
うるさいでしょう?」
「いえ……気が紛れるわ」
青空を、細い雲が幾筋も渡っている。
「……穏やかな人だったわ」
手に持ったカップから湯気が立ち上っていた。
イングリッドが淹れたハーブティーは、柔らかな香りがする。
イングリッドは視線だけ、フロレンスに向けた。
「婚約者だった人……」
「好きだった?」
「えぇ……。政略結婚のお相手ではあったのだけど、お慕いしていたわ」
フロレンスは少し、瞳を伏せる。
「私、身体が弱くて、社交パーティーにもほとんど出たことがないの」
「移動中は、何もなくて良かった」
「王都の空気が合わなかったのかもしれないわ。
王都を出てから、ずっと体調がいいの」
「あぁ……それでここなのか」
イングリッドは茶を口に含むと、小さなテーブルにカップを置いた。
「そんな私の体調も、彼はいつも気遣ってくれたわ。
家族にさえ、愛想尽かされていたのに」
「愛ですねぇ」
フロレンスがきょとんとイングリッドを見ると、二人の視線が絡む。
イングリッドが肩をすくませ、フロレンスはまた窓に視線を戻した。
「愛だったら……良かったんだけど。
所詮、片思いだったわ」
「そう?」
ゆっくりと吐くフロレンスのため息が、静かに部屋に落ちる。
「家に居場所のない自分にとって、彼は唯一の居場所だった。
依存しすぎてしまったのかもしれないわね……」
フロレンスはほとんど下ろしたままの自分の髪を、一房手に取った。
「私の髪色は、母とも父とも違ったのよ。
父は、母の浮気を疑った」
手を離すと、肩に落ちる。
「……そんな母は、早くに死んでしまったわ。
父が迎え入れた後妻の産んだ妹は、父そっくりだった。
そりゃ……彼女の方がかわいいわよね……。
妹はね、元婚約者を欲しがってたの。
……もしかしたら、取られちゃったのかもしれないわね」
「……悔しい?」
フロレンスがゆっくりとイングリッドに視線を向けると、イングリッドは口角を上げていたずらっぽく笑っていた。
フロレンスも、ふっと小さく笑う。
「わからないわ」
風がないのか、雲はほとんど動かなかった。
向かいのバルコニーの老婆も、じっと通りを眺めたまま。
この場所は、本当に時が止まってしまったかのように静かだった。
「素敵な人だったもの。
家でも疎まれていた私より、愛されていた妹の方が、政略結婚の相手としては相応しいわ」
瞳を伏せる。
「両家は共に貿易業を営んでいたの。
だから……仲が良いほうがいいわよ」
再び空色の瞳を開けると、フロレンスは自嘲気味に笑った。
「私じゃない方が……彼には相応しいのよ……」
「お嬢さん」
イングリッドが手を伸ばし、カップを持っていたフロレンスの手に重ねた。
イングリッドの強い瞳。
フロレンスはそれを静かに見返した。
「あなたは素敵。
その赤い髪も、空色の瞳もとっても魅力的。
優しくて穏やかで、おしとやかで。
そりゃ、百人の男すべてがお嬢さんを好きになるわけじゃないさ。
でも、このイングリッドはお嬢さんが大好き」
イングリッドがニカッと笑う。
「イングリッドさん……」
フロレンスは瞳を伏せて、小さく笑った。
「私も、イングリッドさんのことが、大好きよ」
「そいつは嬉しい。
きっとその“彼”も、お嬢さんを大好きだったと思うんだけどね」
「ふふ。それは、どうかしら。
私、もう少し、家事できるように頑張るわ。イングリッドさんに頼りきりだもの」
「あっはっは!」
イングリッドが豪快に笑うと、フロレンスも声を上げて笑った。
そんなある日、手紙が届いた。
差出人は不明。
美しい薄青の封筒を開けると、中に入っていたのは紙一枚。
文字は一言も書かれておらず、描かれていたのは――
スズランの絵だけ。
「何かしら……」
フロレンスが紙を窓の明かりに透かしながら眺めているのを、イングリッドは後ろで笑っていた。
「イングリッドさんは……お心あたりはあって?」
「……いや?」
フロレンスはその絵を、そっと指先でなぞってみる。
鉛筆か何かでサッと描かれたような絵。
「でも、お嬢さんが大事にしてあげると、きっと喜ぶ」
イングリッドは洗濯物を抱えて、笑いながら歩き去った。
フロレンスはその背を眉をひそめて見送る。
――誰が?
しばらくフロレンスはその絵を眺めていたが、やがて封筒に戻すとエプロンのポケットに押し込んだ。
ほうきを手に持ち、慣れない手つきで掃除を始める。
午後は、二人で街を歩いた。
濃い青空。
石畳の広場。
すれ違う人が、「やぁ、元気かい?」なんて、気軽に声をかけてくれる。
フロレンスが王都で歩いていたような貴族街とは、街そのものの顔が違った。
いろんな服装や肌の色の人が、自然に混ざり合っていた。
白壁に青い扉のカフェ。そのテラス席。
イングリッドが木製の丸テーブルの席に腰を下ろすと、フロレンスも向かいに腰掛けた。
給仕の青年がメニュー表だけ置いていく。
「カンノーリって?」
フロレンスがメニューを指でなぞると、イングリッドがにこっと笑う。
「揚げ菓子ですよ。甘くてうまいよ。
中に甘いチーズクリームが入ってる。あとナッツやチョコレートとかね」
「じゃ、それとコーヒーにするわ」
「へぇ……お嬢さん、コーヒー飲むんですか?」
「初めて飲むわ」
「それは楽しみだね」
イングリッドが手を挙げて店員を呼ぶと、彼女は手際よく注文した。
他の席ではワインを飲んでいる壮年の男性。
じっと通りを眺めている老婆。
その膝には猫が乗っていた。
子どもが通りを駆け回っている。
海風がゆったりと頬を撫でた。
「静かね」
イングリッドは辺りを見回した。
子どもはずっと声を上げて走り回っているし、カフェで休んでいる人々もぺちゃくちゃと話し込んでいる。
通りを過ぎる夫人たちは、夫への文句を言いながら笑い合っていた。
「……そう?」
フロレンスは、つい、笑った。
「うふふ。静かではなかったわね」
給仕の青年が、彼女たちのテーブルにカンノーリの乗った皿とコーヒーを二杯置く。
「美しいお嬢さんたち、楽しんでね。すっごく美味しいからさ」
フロレンスが顔をあげると、青年はウィンクをして去っていった。
「あっはっは! あっちの王都より馴れ馴れしいね」
「……ここの人は、気軽に話しかけてくれるのね。それとも、私が貴族令嬢じゃないからかしら」
「煩わしい?」
「いえ……嬉しいわ」
「そ。良かった」
フロレンスは皿に視線を落とす。
「これ……どうやって食べるのかしら」
「頑張って食べる」
「上に乗ってる粉砂糖が……」
「落ちる。拭きゃいい」
フロレンスが笑うと、イングリッドも豪快に笑った。
フロレンスはコーヒーを一口飲んだ。
「……苦いわね」
イングリッドは眉と口角をあげて静かに笑っている。
「彼は、コーヒーが好きだったわ。
よく飲めるわね……なんて話したわ……」
フロレンスも彼女を見ると、静かに笑い合う。
「彼といるときだけは、幸せだった」
カップの中のコーヒーに、ゆらゆらと自分の顔が映り込んだ。
「きっともう二度と、お会いできないのね」
カップを揺らすと大きく水面が揺れ、顔は消えてしまう。
「お嬢さん。
スズランの花言葉をご存知?」
フロレンスが顔をあげる。
「……いえ、知らないわ」
「そ」
「ごめんなさいね」
「知らなくていいんですよ。誰も責めたりしないんだから。
むしろ知らないってことは、これから知ることができるってことだろう?
楽しみが増えたね」
「イングリッドさんて……すごいわ」
「やめなよ。照れる」
子どもの笑い声が、潮の香りを含んだ風にのって運ばれていく。
フロレンスは笑いながら、もう一口、コーヒーを飲んだ。
やっぱりそれは、彼女には苦く感じた。
帰宅すると、また一通の手紙が届いていた。
同じ薄青の封筒。
スズランの絵だけの手紙。
フロレンスはそれを、書き物机の引き出しにそっと入れた。
簡素なベッドと、書き物机と小さなクローゼット。
まだほとんど物がない部屋。
だけど、誰にも邪魔されない、静かな部屋。
彼女は椅子に座ると、縦長の窓を見上げた。
銀色の満月。
その色は、彼の瞳の色に少しだけ似ていた。
スズランの手紙は、それからも届いた。
連続して届くこともあれば、一週間以上あくこともあった。
それでも、毎回同じ。
質の良い薄青の封筒に、スズランの絵だけ。
そして、今朝届いたもので――
三十枚目だった。
フロレンスは出窓の椅子に座って、それをぱらぱらとめくりながら眺めていた。
「一体、どなたなのかしら……」
「……重すぎますねぇ」
フロレンスが顔をあげると、イングリッドは苦く笑っている。
「重い? ペラペラよ?」
フロレンスが絵の描かれた一枚を手に持って振ってみせる。
イングリッドはやっぱり笑っていた。
今日も窓から見える空の色は濃い。
向かいの家の老婆は通りを眺め、洗濯物は風に揺れていた。
フロレンスは、そっと、指先でスズランの絵をなぞる。
不思議な手紙。
だけど、どうしてか、捨てられない。
イングリッドはお茶を淹れに席を立ったが、フロレンスはしばらくそうしたまま、手紙を眺めていた。
まるで、そこに言葉があるかのように。
ある朝。
部屋の戸を叩く音が響いた。
フロレンスはイングリッドを見るが、彼女はにっこりとして頷くだけだったので、フロレンスが玄関に向かう。
扉を開けた。
その向こう。
フロレンスは肩を震わせた。
そこにいたのは――
元婚約者ガブリエル・ローゼンベルク。
彼は、フロレンスに向かって跪き、手を差し出した。
旅装の厚いコート。泥のついたままのズボン。
いつも丁寧に撫でつけられていた黒髪は、櫛でとかれただけ。
「お美しい方、すべて片付けてまいりました。
どうか、この愚か者をあなたのそばに置いてくださいませんか」
「……え?」
フロレンスは一歩下がる。
彼らの祖国、アルストリア王国の家督を譲る制度は複雑だ。
嫡男であるガブリエルは、生きている限りローゼンベルク家を背負わねばならない立場の男だった。
「ガブリエル様……家は、どうされたのです」
「あなたの家は、あなたを大切にしなかった。
僕の家も、あなたを守るつもりなんてなかった」
妹ばかりを優先するベルフォード家。
簡単に婚約者を入れ替えようとするローゼンベルク家。
「だから……整理してきました」
「……それは、どういう意味ですか?」
「調査をすると、両家は、僕に隠れて密輸に……悪事に手を染めていた事が分かった。
あなたを、あんな家に迎えるわけにはいかなかった。
あなたを、あのままあそこに置いておくわけにもいかなかった。
だから、全部片づけてきた」
銀灰と空色の瞳が交わる。
「僕は、すべてを告発した。
両家とも、僕が潰した。
……僕は、全部捨ててきた」
彼は片手を胸に当てた。
「今の僕には何もない。
それでも……」
瞳をわずかに細める。
「愛しいあなたを、巻き込みたくなかった。
あなたを深く傷つけたこと、謝っても許されることではないかもしれない」
「ガブリエル様……」
「どうか、“ガブ”と」
彼の銀灰の瞳は、真っ直ぐにフロレンスの空色の瞳を見つめた。
「……僕も、あなたも、もはやただの平民です。
苦労させてしまうかもしれない。
でも……あなたさえいてくれれば、僕はまた頑張れる」
ガブリエルは懐に手をいれると、その手に小さなものをのせて、フロレンスに見せた。
それは、フロレンスの母の形見のイヤリング。
月のようなホワイトオパールがついたものだった。
「あなたの妹が持っていた。
大切なものだと、以前、言っていたよね?」
「ガブリエル様……
本当にすべて捨ててきてしまったの?」
「僕が欲しいのは、あなただけ」
フロレンスは口元を手で覆い、息を呑んだ。
そして、ハッとしてわずかに目を見開く。
胸の奥で、何かが繋がった。
手を、自分の胸に当てた。
「……あの……ガブリエル様は、スズランの花言葉をご存知?」
彼は銀灰の瞳を細めて、柔らかく笑む。
「……もちろんです」
「もしかして、あれは……あなたが?」
ガブリエルは答えず、ただ静かに微笑んだ。
後ろで、壁にもたれて様子を見ていたイングリッドが声を上げて笑う。
「私、実はお嬢さんの護衛だったんですよ。坊っちゃんに雇われてたの」
フロレンスが振り返ると、イングリッドは口角をあげていたずらっぽく笑っていた。
「ね?
重たい男だけど、大切にしてやって」
イングリッドは優しく目を細める。
フロレンスはもう一度、ガブリエルを見た。
「……どうか、僕をあなたのそばに」
フロレンスの空色の瞳から、涙が一筋、落ちた。
「私……あなたのそばにいても、いいの?」
ガブリエルは立ち上がった。
腕を伸ばし、フロレンスを強く抱き寄せる。
「フロー! 僕が君のそばにいたいんだ!」
煉瓦色の髪が揺れた。
彼の胸に抱きすくめられる。
「私だって……そばにいて欲しいわ……ガブ」
震えて、小さな声だった。
彼はそれに応えるように、強く、強く彼女を抱きしめた。
海風の吹く、古い石畳の街。
向かいのバルコニーの老婆は、二人を見て、にっこりと笑っていた。
イングリッドも、笑っていた。
この街の空の青は、
今日もとても濃くて、キラキラとしていた。
スズランの花言葉は――
“再び訪れる幸せ”
文字を書かない男が、花だけで伝え続けた、重たい愛の言葉だった。




