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短編

伝えられない言葉のかわりに、君に贈るスズランの手紙

作者: かも ねぎ
掲載日:2026/05/22


「フロレンス嬢、婚約解消しよう」


 彼、ガブリエル・ローゼンベルクはそう言った。


 窓から差し込む光は淡い。

 カップを置いた音で、琥珀の液体に小さな波紋が広がった。

 

 彼の銀灰の瞳は、婚約者であるフロレンス・ベルフォードを見なかった。

 窓の向こう。霧にかすむ王都の空を見つめている。


「あ……」


 フロレンスは俯き、唇を噛んだ。


「……はい」


 瞳を伏せる。

 喉の奥が締まる。


 もう一度顔をあげた。


 ガブリエルの端正な横顔。

 艷やかな黒髪。

 澄んだ銀灰の瞳。

 

 ティーテーブルに置かれた手はきつく握られている。

 長くて繊細なその指に、ついぞ触れられることはなかった。


 洗練された服装。

 無駄のない立ち姿を持つ、彼。


 フロレンスは、彼の横顔を目に焼き付けるように見つめた。


 ――分不相応だったのよ。私に、彼は。


「……ガブリエル様、どうか……お元気で」


 かろうじて声に出せた言葉は、自分でも驚くほどそっけなかった。

 立ち上がり、逃げるように部屋を出る。


 扉が閉まる間際、彼は俯き、その顔を手で覆っていた。

 その手は、震えているように見えた。




 乾いた音が、執務室に響いた。


 頬を打たれたフロレンスは、体を支えきれず床に座り込む。

 打たれた頬に、震える手で触れた。


「……ローゼンベルク家の若造さえ繋ぎ止めておけないとは。

 ――出てけ。呪われた赤髪が」

「……お父様」


 父も、彼女を見なかった。


 フロレンスを打った手を擦りながら、彼は執務机の椅子に腰を下ろす。机上の書類に再び視線を落とすと、眉をゆがめた。


「腹立たしいな」


 歴史の浅い子爵家とは思えぬほどの豪奢な部屋。

 マントルピースの上に並ぶ、黄金の装飾品は、いつからあったものだろうか。

 しかしそれを、フロレンスが教えてもらえる日は、この先も来ない。


 父が、ふと、顔を上げた。


「まだいたのか。早く出てけ。

 一刻も早くこのベルフォード家から出てってくれ」


 フロレンスは立ち上がると、父を見た。


 父は淡い金髪に琥珀の瞳。

 フロレンスは、煉瓦色の髪に空色の瞳。

 ――どこも、似ていなかった。


 フロレンスは小さく息を吐くと、深く頭を下げて、

 ――また、逃げるように部屋を出た。



 

 トランクに少ない荷物を詰めて、邸宅を出た。

 他の家族にも、使用人にも、誰にも止められなかった。


 黒鉄の門が背後で閉められる。

 見上げた空は、霧で霞んで青白かった。


 ガス灯の黒いポールが並んだ広い石畳の道。

 彼女はトランクを持ち上げた。

 そして、一人、歩き出した。




 王都の中央駅にたどり着いたフロレンスは、その鉄とガラスの巨大ドーム屋根を見上げた。

 陽射しを弾き、鈍く光を返している。

 汽笛の音が、構内から聞こえてきた。


 人が多く行き交う。

 雑踏。

 話し声。


 フロレンスはトランクを両手で持ち上げて進むが、どの汽車に乗るかは決めかねていた。

 そもそも貴族令嬢として育てられた彼女は、一人で汽車に乗ったことはない。

 母が遺した個人資産は持ってきた。

 だが、それで女一人どれほど生きていけるのか、彼女には分からなかった。


 ホームに立つ。

 汽車の黒い車体。

 光が薄く反射し、車輪の間から吐き出される蒸気が足元を白く覆った。


「お嬢さん」


 声をかけられ、振り返る。


 人好きのする笑顔を浮かべた、中年の女性。地味な旅装のドレスだったが、姿勢の良さと落ち着いた物腰のせいか、貴族の屋敷にいても違和感のない、ガヴァネスのような雰囲気をしていた。


「お嬢さん……訳あり?」

「え……」


 フロレンスは一歩下がる。


「あたしもね、目的地を決めない旅だったんだけど。次は温かい国の港町に行こうかと考えていてね。

 どこに行くか悩んでいるなら、一緒に行くかい?」

「そんな……申し訳ない」


 女性はバチッとウィンクをした。


「女一人旅は危険だよ。

 旅慣れしたあたしを連れていけば百人力。

 さ、どうする?」


 フロレンスは少しだけ俯く。

 やがて、意を決したようにまた顔をあげ、真っ直ぐに彼女を見た。


「……では、途中までご一緒させていただいてもよろしいですか?」

「あっはっは! いいよ! あたしも話し相手ができて嬉しいよ」


 二人は汽車に乗り込んだ。

 数日汽車に揺られ、港に着くと、今度は船に乗った。

 そうして、さらに旅を続けた。


 

 

 フロレンスがたどり着いたのは、祖国アルストリア王国よりも温暖な場所。


 古い石畳の港町だった。


 白い石造りの建物が並んだ、狭い道を歩く。

 壁を這う蔦。

 曲がりくねった石畳。

 どこかからか聞こえてくる子どもの笑い声。


「いい街だね!」

「……はい」


 すれ違う人は、フロレンスたちをチラと見ると、みな、にこりと笑った。


「港町だからね。人の行き来が多いんだ。

 だから、よそ者にも抵抗がない」

「……そうなんですね。

 イングリッドさんは、ここに来たことがお有りなのですか?」


 いつの間にかトランクはイングリッドが持ち、フロレンスは彼女の小さな手荷物を持たされていた。

 彼女、イングリッドは振り返るとニカッと笑う。


「ちょっとだけね。

 あたしの雇い主の坊っちゃんの付き添いで。坊っちゃんもここを気に入ってらした」


 フロレンスは、彼女の人懐こい笑みに、つられるように口角を上げた。


 船旅で仲良くなったフロレンスとイングリッドは、しばらくこの地に一緒に住むことにした。

 

 坂道を上って振り返れば、オリーブ畑と海が見える。

 潮の香りを含んだ風が、フロレンスの煉瓦色の髪を優しく撫でていった。


 ここなら、静かに生きていけるかもしれないと、彼女は初めて思った。

 



 フロレンスとイングリッドが借りた部屋の出窓は、よく陽が入った。

 そこに二脚の椅子を置き、並んでぼんやりと外を眺める。


 向かいの家のバルコニー。

 白く塗った鉄柵に肘をつき、老婆が通りを眺めていた。


 縄に掛けられた洗濯物は、風にゆったりと揺れている。


 祖国の空は、いつも霧で白く霞んでいた。

 だが、この国の空は、ずいぶん色が濃い。


「ここは……時間が流れるのが、ゆっくりね」

「こちらの方が人は陽気ですけどね。

 うるさいでしょう?」

「いえ……気が紛れるわ」


 青空を、細い雲が幾筋も渡っている。


「……穏やかな人だったわ」


 手に持ったカップから湯気が立ち上っていた。

 イングリッドが淹れたハーブティーは、柔らかな香りがする。


 イングリッドは視線だけ、フロレンスに向けた。


「婚約者だった人……」

「好きだった?」

「えぇ……。政略結婚のお相手ではあったのだけど、お慕いしていたわ」


 フロレンスは少し、瞳を伏せる。


「私、身体が弱くて、社交パーティーにもほとんど出たことがないの」

「移動中は、何もなくて良かった」

「王都の空気が合わなかったのかもしれないわ。

 王都を出てから、ずっと体調がいいの」

「あぁ……それでここなのか」


 イングリッドは茶を口に含むと、小さなテーブルにカップを置いた。


「そんな私の体調も、彼はいつも気遣ってくれたわ。

 家族にさえ、愛想尽かされていたのに」

「愛ですねぇ」


 フロレンスがきょとんとイングリッドを見ると、二人の視線が絡む。

 イングリッドが肩をすくませ、フロレンスはまた窓に視線を戻した。


「愛だったら……良かったんだけど。

 所詮、片思いだったわ」

「そう?」


 ゆっくりと吐くフロレンスのため息が、静かに部屋に落ちる。


「家に居場所のない自分にとって、彼は唯一の居場所だった。

 依存しすぎてしまったのかもしれないわね……」


 フロレンスはほとんど下ろしたままの自分の髪を、一房手に取った。


「私の髪色は、母とも父とも違ったのよ。

 父は、母の浮気を疑った」


 手を離すと、肩に落ちる。


「……そんな母は、早くに死んでしまったわ。

 父が迎え入れた後妻の産んだ妹は、父そっくりだった。

 そりゃ……彼女の方がかわいいわよね……。


 妹はね、元婚約者を欲しがってたの。

 ……もしかしたら、取られちゃったのかもしれないわね」

「……悔しい?」


 フロレンスがゆっくりとイングリッドに視線を向けると、イングリッドは口角を上げていたずらっぽく笑っていた。

 フロレンスも、ふっと小さく笑う。


「わからないわ」


 風がないのか、雲はほとんど動かなかった。

 向かいのバルコニーの老婆も、じっと通りを眺めたまま。

 この場所は、本当に時が止まってしまったかのように静かだった。


「素敵な人だったもの。

 家でも疎まれていた私より、愛されていた妹の方が、政略結婚の相手としては相応しいわ」


 瞳を伏せる。


「両家は共に貿易業を営んでいたの。

 だから……仲が良いほうがいいわよ」


 再び空色の瞳を開けると、フロレンスは自嘲気味に笑った。


「私じゃない方が……彼には相応しいのよ……」


「お嬢さん」


 イングリッドが手を伸ばし、カップを持っていたフロレンスの手に重ねた。


 イングリッドの強い瞳。

 フロレンスはそれを静かに見返した。


「あなたは素敵。

 その赤い髪も、空色の瞳もとっても魅力的。

 優しくて穏やかで、おしとやかで。

 そりゃ、百人の男すべてがお嬢さんを好きになるわけじゃないさ。

 でも、このイングリッドはお嬢さんが大好き」


 イングリッドがニカッと笑う。


「イングリッドさん……」


 フロレンスは瞳を伏せて、小さく笑った。


「私も、イングリッドさんのことが、大好きよ」

「そいつは嬉しい。

 きっとその“彼”も、お嬢さんを大好きだったと思うんだけどね」

「ふふ。それは、どうかしら。

 私、もう少し、家事できるように頑張るわ。イングリッドさんに頼りきりだもの」

「あっはっは!」


 イングリッドが豪快に笑うと、フロレンスも声を上げて笑った。

  



 そんなある日、手紙が届いた。

 差出人は不明。

 

 美しい薄青の封筒を開けると、中に入っていたのは紙一枚。

 文字は一言も書かれておらず、描かれていたのは――

 スズランの絵だけ。


「何かしら……」


 フロレンスが紙を窓の明かりに透かしながら眺めているのを、イングリッドは後ろで笑っていた。


「イングリッドさんは……お心あたりはあって?」

「……いや?」


 フロレンスはその絵を、そっと指先でなぞってみる。

 鉛筆か何かでサッと描かれたような絵。


「でも、お嬢さんが大事にしてあげると、きっと喜ぶ」


 イングリッドは洗濯物を抱えて、笑いながら歩き去った。

 フロレンスはその背を眉をひそめて見送る。


 ――誰が?


 しばらくフロレンスはその絵を眺めていたが、やがて封筒に戻すとエプロンのポケットに押し込んだ。

 ほうきを手に持ち、慣れない手つきで掃除を始める。


 


 午後は、二人で街を歩いた。

 濃い青空。

 石畳の広場。

 すれ違う人が、「やぁ、元気かい?」なんて、気軽に声をかけてくれる。


 フロレンスが王都で歩いていたような貴族街とは、街そのものの顔が違った。

 いろんな服装や肌の色の人が、自然に混ざり合っていた。


 白壁に青い扉のカフェ。そのテラス席。

 イングリッドが木製の丸テーブルの席に腰を下ろすと、フロレンスも向かいに腰掛けた。

 給仕の青年がメニュー表だけ置いていく。


「カンノーリって?」

 

 フロレンスがメニューを指でなぞると、イングリッドがにこっと笑う。


「揚げ菓子ですよ。甘くてうまいよ。

 中に甘いチーズクリームが入ってる。あとナッツやチョコレートとかね」

「じゃ、それとコーヒーにするわ」

「へぇ……お嬢さん、コーヒー飲むんですか?」

「初めて飲むわ」

「それは楽しみだね」


 イングリッドが手を挙げて店員を呼ぶと、彼女は手際よく注文した。


 他の席ではワインを飲んでいる壮年の男性。

 じっと通りを眺めている老婆。

 その膝には猫が乗っていた。


 子どもが通りを駆け回っている。


 海風がゆったりと頬を撫でた。


「静かね」


 イングリッドは辺りを見回した。

 子どもはずっと声を上げて走り回っているし、カフェで休んでいる人々もぺちゃくちゃと話し込んでいる。

 通りを過ぎる夫人たちは、夫への文句を言いながら笑い合っていた。 


「……そう?」


 フロレンスは、つい、笑った。


「うふふ。静かではなかったわね」


 給仕の青年が、彼女たちのテーブルにカンノーリの乗った皿とコーヒーを二杯置く。


「美しいお嬢さんたち、楽しんでね。すっごく美味しいからさ」


 フロレンスが顔をあげると、青年はウィンクをして去っていった。


「あっはっは! あっちの王都より馴れ馴れしいね」

「……ここの人は、気軽に話しかけてくれるのね。それとも、私が貴族令嬢じゃないからかしら」

「煩わしい?」

「いえ……嬉しいわ」

「そ。良かった」


 フロレンスは皿に視線を落とす。


「これ……どうやって食べるのかしら」

「頑張って食べる」

「上に乗ってる粉砂糖が……」

「落ちる。拭きゃいい」


 フロレンスが笑うと、イングリッドも豪快に笑った。




 フロレンスはコーヒーを一口飲んだ。


「……苦いわね」


 イングリッドは眉と口角をあげて静かに笑っている。


「彼は、コーヒーが好きだったわ。

 よく飲めるわね……なんて話したわ……」


 フロレンスも彼女を見ると、静かに笑い合う。


「彼といるときだけは、幸せだった」


 カップの中のコーヒーに、ゆらゆらと自分の顔が映り込んだ。


「きっともう二度と、お会いできないのね」


 カップを揺らすと大きく水面が揺れ、顔は消えてしまう。


「お嬢さん。

 スズランの花言葉をご存知?」


 フロレンスが顔をあげる。


「……いえ、知らないわ」

「そ」

「ごめんなさいね」

「知らなくていいんですよ。誰も責めたりしないんだから。

 むしろ知らないってことは、これから知ることができるってことだろう?

 楽しみが増えたね」

「イングリッドさんて……すごいわ」

「やめなよ。照れる」


 子どもの笑い声が、潮の香りを含んだ風にのって運ばれていく。

 フロレンスは笑いながら、もう一口、コーヒーを飲んだ。


 やっぱりそれは、彼女には苦く感じた。




 帰宅すると、また一通の手紙が届いていた。

 同じ薄青の封筒。

 スズランの絵だけの手紙。


 フロレンスはそれを、書き物机の引き出しにそっと入れた。

 簡素なベッドと、書き物机と小さなクローゼット。

 まだほとんど物がない部屋。

 

 だけど、誰にも邪魔されない、静かな部屋。

 

 彼女は椅子に座ると、縦長の窓を見上げた。

 銀色の満月。

 その色は、彼の瞳の色に少しだけ似ていた。




 スズランの手紙は、それからも届いた。


 連続して届くこともあれば、一週間以上あくこともあった。


 それでも、毎回同じ。

 質の良い薄青の封筒に、スズランの絵だけ。


 そして、今朝届いたもので――

 三十枚目だった。


 フロレンスは出窓の椅子に座って、それをぱらぱらとめくりながら眺めていた。


「一体、どなたなのかしら……」

「……重すぎますねぇ」


 フロレンスが顔をあげると、イングリッドは苦く笑っている。


「重い? ペラペラよ?」


 フロレンスが絵の描かれた一枚を手に持って振ってみせる。

 イングリッドはやっぱり笑っていた。


 今日も窓から見える空の色は濃い。

 向かいの家の老婆は通りを眺め、洗濯物は風に揺れていた。


 フロレンスは、そっと、指先でスズランの絵をなぞる。


 不思議な手紙。

 だけど、どうしてか、捨てられない。


 イングリッドはお茶を淹れに席を立ったが、フロレンスはしばらくそうしたまま、手紙を眺めていた。

 まるで、そこに言葉があるかのように。




 ある朝。

 部屋の戸を叩く音が響いた。


 フロレンスはイングリッドを見るが、彼女はにっこりとして頷くだけだったので、フロレンスが玄関に向かう。


 扉を開けた。


 その向こう。

 フロレンスは肩を震わせた。


 そこにいたのは――

 元婚約者ガブリエル・ローゼンベルク。

 

 彼は、フロレンスに向かって跪き、手を差し出した。


 旅装の厚いコート。泥のついたままのズボン。

 いつも丁寧に撫でつけられていた黒髪は、櫛でとかれただけ。


「お美しい方、すべて片付けてまいりました。

 どうか、この愚か者をあなたのそばに置いてくださいませんか」

「……え?」


 フロレンスは一歩下がる。


 彼らの祖国、アルストリア王国の家督を譲る制度は複雑だ。

 嫡男であるガブリエルは、生きている限りローゼンベルク家を背負わねばならない立場の男だった。


「ガブリエル様……家は、どうされたのです」


「あなたの家は、あなたを大切にしなかった。

 僕の家も、あなたを守るつもりなんてなかった」


 妹ばかりを優先するベルフォード家。

 簡単に婚約者を入れ替えようとするローゼンベルク家。


「だから……整理してきました」

「……それは、どういう意味ですか?」


「調査をすると、両家は、僕に隠れて密輸に……悪事に手を染めていた事が分かった。

 あなたを、あんな家に迎えるわけにはいかなかった。

 あなたを、あのままあそこに置いておくわけにもいかなかった。

 だから、全部片づけてきた」


 銀灰と空色の瞳が交わる。


「僕は、すべてを告発した。

 両家とも、僕が潰した。

 ……僕は、全部捨ててきた」


 彼は片手を胸に当てた。


「今の僕には何もない。

 それでも……」


 瞳をわずかに細める。


「愛しいあなたを、巻き込みたくなかった。

 あなたを深く傷つけたこと、謝っても許されることではないかもしれない」


「ガブリエル様……」


「どうか、“ガブ”と」


 彼の銀灰の瞳は、真っ直ぐにフロレンスの空色の瞳を見つめた。

 

「……僕も、あなたも、もはやただの平民です。

 苦労させてしまうかもしれない。

 でも……あなたさえいてくれれば、僕はまた頑張れる」


 ガブリエルは懐に手をいれると、その手に小さなものをのせて、フロレンスに見せた。


 それは、フロレンスの母の形見のイヤリング。

 月のようなホワイトオパールがついたものだった。


「あなたの妹が持っていた。

 大切なものだと、以前、言っていたよね?」


「ガブリエル様……

 本当にすべて捨ててきてしまったの?」


「僕が欲しいのは、あなただけ」


 フロレンスは口元を手で覆い、息を呑んだ。


 そして、ハッとしてわずかに目を見開く。

 胸の奥で、何かが繋がった。


 手を、自分の胸に当てた。


「……あの……ガブリエル様は、スズランの花言葉をご存知?」


 彼は銀灰の瞳を細めて、柔らかく笑む。


「……もちろんです」

「もしかして、あれは……あなたが?」


 ガブリエルは答えず、ただ静かに微笑んだ。


 後ろで、壁にもたれて様子を見ていたイングリッドが声を上げて笑う。


「私、実はお嬢さんの護衛だったんですよ。坊っちゃんに雇われてたの」


 フロレンスが振り返ると、イングリッドは口角をあげていたずらっぽく笑っていた。


「ね?

 重たい男だけど、大切にしてやって」


 イングリッドは優しく目を細める。

 

 フロレンスはもう一度、ガブリエルを見た。


「……どうか、僕をあなたのそばに」


 フロレンスの空色の瞳から、涙が一筋、落ちた。


「私……あなたのそばにいても、いいの?」


 ガブリエルは立ち上がった。

 腕を伸ばし、フロレンスを強く抱き寄せる。


「フロー! 僕が君のそばにいたいんだ!」


 煉瓦色の髪が揺れた。

 彼の胸に抱きすくめられる。


「私だって……そばにいて欲しいわ……ガブ」


 震えて、小さな声だった。

 彼はそれに応えるように、強く、強く彼女を抱きしめた。



 海風の吹く、古い石畳の街。

 向かいのバルコニーの老婆は、二人を見て、にっこりと笑っていた。

 イングリッドも、笑っていた。


 この街の空の青は、

 今日もとても濃くて、キラキラとしていた。


 スズランの花言葉は――

 “再び訪れる幸せ”


 文字を書かない男が、花だけで伝え続けた、重たい愛の言葉だった。



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― 新着の感想 ―
この話は護衛がいい仕事してますね。 護衛がいなかったら、『その間に何かあったらどうするつもりだった?』という疑問が残り、いい話が台無しとなってしまいます。
再び幸せが訪れた♡
感想一覧
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