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第1章 月と狂犬の契約

世界恐慌ブラック・サーズデーと狂犬の目覚め

 血の味がした。

 薄暗い地下駐車場の冷たいコンクリートの上で、肺がひゅーひゅーと情けない音を立てている。

「……すまんな、力武。これも会社システムの合理的な判断なんだ。お前の先輩が被った五十億の負債、誰かが腹を切らなきゃ収まりがつかない」

 見下ろしてくるのは、五大商社の役員である直属の上司だった。

 その後ろには、鉄パイプを持った作業着姿の男たちが数人、無機質な目を向けている。

 会社のトカゲの尻尾切り。

 何よりも会社に尽くし、誰よりも善人だったあの先輩は、汚汚を着せられてビルの屋上から飛んだ。

 それに噛み付いた俺も、こうして「損切り」されるというわけだ。

(……等価交換、ねえ)

 脳内で算盤を弾く。

 先輩の命と、俺の命。そして、役員たちが手にする保身。

 どう計算しても、割に合わない。

 薄れゆく意識の中、ポケットの中で潰れた赤マルの箱に指を這わせる。

 ひどく、苦い最後だった。

     *

 ――鼓膜を、甲高い金属音が叩いた。

 チリン、チリンと鳴るそれは、路面電車の鐘の音だ。

 息を吸い込む。

 排気ガスとアスファルトの匂いではない。むせ返るような土の匂いと、粗悪な石炭が燃える匂いが鼻腔を突いた。

「……おい、邪魔だぞ小僧。道のど真ん中で突っ立ってんじゃねえ」

 肩を乱暴にぶつかられ、足が数歩後ずさる。

 視線を上げると、着物姿の男が舌打ちをして通り過ぎていった。

 瞬きを繰り返す。

 周囲には、レンガ造りの洋館と、木造の長屋が入り混じる奇妙な街並みが広がっていた。

 道を行き交うのは、着物にカンカン帽を被った男たちや、膝下丈の洋装に身を包んだ女たち。

 手のひらを見る。血の気はないが、傷もない。

 駐車場の冷たいコンクリートで死にかけていたはずの体は、スーツにわずかな土埃をつけただけで、完全な状態だった。

「……冗談だろ」

 声が、乾燥した空気に溶けた。

 近くの電柱に貼られた、色褪せたポスターが目に入る。

『大日本帝国海軍、観艦式挙行』

 その隣の新聞売りが掲げる見出しには、はっきりとこう印字されていた。

『昭和四年 十月十日』

 西暦で言えば、1929年。

 スマートフォンを探そうとポケットに手を入れたが、当然、あるはずもない。

 代わりに指先が触れたのは、見慣れた赤い箱と、セロハンに包まれた丸い塊だった。

「……赤マルに、黄金糖あめだまか」

 自分がどうしてこんな時代に立っているのか。

 神の気まぐれか、それとも未練が見せる幻覚か。

 理由は、どうでもよかった。

 心臓が、ドクン、ドクンと嫌なリズムで跳ね始めた。

 胃の奥底から、鉛のように重く、黒い塊がせり上がってくる。

 この時代が、1929年の10月だとするならば。

「……あと二週間後だ」

 歴史が正しければ。

 二週間後の10月24日木曜日。

 海の向こう、アメリカ合衆国のウォール街で株価が大暴落する。

 後に「ブラック・サーズデー」と呼ばれる、世界恐慌の始まりだ。

 口の中に、飴玉を一つ放り込む。

 舌の上で転がす甘みは、あの地下駐車場で味わった苦味を少しだけ中和してくれた。

 資本主義のルールが崩壊し、世界中がパニックに陥る。

 それはつまり、事前に「空売り」を仕掛けておけば、天文学的な利益カネを合法的にむしり取れるということだ。

 現代では、俺の算盤けいさんは強者の理不尽な力によって叩き潰された。

 ならば、この何もない過去で、誰よりも巨大な暴力カネを手に入れてやる。

 世界を狂わせるアメリカの経済ごと、底値で買い叩いて。

 ――ガリッ。

 奥歯で、飴玉を噛み砕いた。

 甘い破片が口内に散り、脳のスイッチが冷たく切り替わる。

「……タネ銭が要るな。手っ取り早くて、後腐れのない連中の」

 ネクタイを少しだけ緩め、帝都の空を見上げる。

 どんよりとした曇り空の下で、俺は柳生心眼流の半身の構えを、足元で小さく試した。

 まずは、この時代で最も景気良く阿漕あこぎな真似をしている『ヤクザ』の金庫から、強引に算盤を合わせてもらうとしよう。

 商社エースにして狂犬、力武義正の反逆は、昭和四年の帝都・東京から始まった。

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