第18話 1554年 上洛(1)
越後国頸城郡春日山城 1554年(天文23年)6月 蠣崎舜広(15歳)
秋姫との祝言で、義兄の安東愛季様は私と上洛したいと仰った。室町将軍(現在は足利義輝)に安東家の代替わりを報告したいそうだ。安東家の家格なら妥当な話だろう。分からないのが、そこに私を連れて行く事だ。将軍から見れば私は陪臣の嫡男に過ぎないのだが…。
「舜広だって来るのは当だり前だべさ。おめぇはわいの妹ば嫁に貰って義理の弟になって、いずれは蠣崎家ば継いで、わいの右腕になってぐれる男だっけな。京ばりじゃなく、いろんな所見て、見聞広めでいがねべな。」
この押しの強さ、亡き舜季様そっくりだなぁ。まあ、私は檜山より南に行った事が無いし、将軍や他の大名と交流出来るのはとても魅力的だ。蠣崎家の販路拡大や営業も出来るし、義兄には絶対に秘密だが将来独立する際には役立つ人脈となるだろう。父上の快諾も得た私達は、護衛を引き連れて日本海を南下していった。
最初に訪問した大名は越後国の長尾景虎殿(後の上杉謙信)(24歳)だ。3年前に越後国を統一し、去年武田晴信相手に第一次川中島の戦いを経験している。なお、来年は第二次川中島の戦い、再来年は疲れ果てて隠居未遂を起こす苦労人でもある。野戦では無類の強さを誇る軍神だが、関東管領の肩書に引きづられて無軌道な対外戦争を続けたり、相次ぐ越後国内の反乱に悩まされたり、宗教上の理由で妻を持たず子を作らなかったり、複数の養子の中から明確に跡継ぎを決めなかったせいで御家騒動になり家が滅びかけたり、良い意味でも悪い意味でも個性が際立つ御仁である。特に度重なる関東侵略は、上杉家と北条家だけでなく、関東の大名や国人の国力と人口を無意味に減らした。関東人からすれば災厄でしか無いだろう。上杉家が関東侵略をしなければ、関東は北条家の下で比較的平和な時代を過ごせた筈なのだ。
現在の貿易に目を向ければ、上杉家は三津七湊の1つ、直江津港に程近い春日山城を拠点にしている。日本海貿易のお得意様であり、この度の訪問でも快く会ってくれた。
「待たせてしもうて、すまんかったの。わしが越後の国主、長尾景虎ら。安東殿に蠣崎殿、はるばる遠いとこから来てもろて、ありがてぇこった。」
眼の前に居るのは鋭い目をした痩せ気味の若者だ。目力が凄まじい。目の隈が酷いが、よく眠れていないのだろうか?
「いやいや、こっちこそ訪ねさせでもらって、ほんとありがてぇごどです。わいは安東愛季、そっちは義弟の蠣崎舜広だす。貿易では、まんずお世話になっております。」
義兄と私は深々と頭を下げた。景虎殿もつられて頭を下げる。
「こん度は、京の将軍様さ安東家の代替わりば報告しに行ぐ途中で寄らせてもらったんす。あの有名な直江津の賑わいば、こうして自分の目で見られだだけでも、来た甲斐が有ったなや〜。」
会談は和やかに進んだ。宴では景虎殿の酒豪っぷりを見せ付けられ、越後特産の青苧の衣服を送られ、こちらからは松前漬けと砂糖を送った。酒好きの景虎殿は檜山や松前でどのような酒を作っているか知りたがったが、寒冷な気候で米が貴重なために酒造りは発達していないと答えるととても残念そうにしていた。きっと他国の珍しい酒を送ってもらえる良い機会と考えていたのだろう。
酒好きの大名や武士は景虎殿だけでなく、日本中に数多居るだろう。朝廷や豪商にも需要は有る筈なので、蠣崎家での酒造りは内需を満たすだけではなく、外貨獲得にも有効そうだな。米は気候的に戦力外だ。芋焼酎は材料のさつま芋が寒すぎて育たないのでこれも駄目だ。冷涼な気候でも育つ小麦や大麦で、ビールやウイスキーを作れれば良いのだが…。ビールにはホップが必要だったか?あれはどこで手に入るだろうか…。この時代には酒税法は勿論無いので、果汁入りのクラフトビールのような酒も面白そうだ。ウイスキーもだが、どちらも発祥は欧州だ。何とか職人を手に入れたい。明治初期のお雇い外国人のように高給を出す用意は有るのだが…。
能登国鹿島郡七尾城 1554年(天文23年)7月 蠣崎舜広(15歳)
直江津で長尾景虎殿の見送りを受けた私達は、次に能登国の七尾城を訪れた。ここは能登畠山家の本拠地で、史実では上杉謙信が攻めあぐねた巨大な山城だ。
能登畠山家の現在の状態と言えば、お世辞にも安定しているとは言い難い。9年前に亡くなった7代目の義総殿は名君で、能登畠山家の最盛期を築いたそうだ。七尾湾と富山湾の制海権を握り、宝達金山を開発し、七尾に小京都を築くまでに繁栄した。
しかし8代目の義続殿に家督が移ると状況が変わった。家臣による権力争いが頻発し、加賀国に亡命した叔父が攻め寄せる。挙げ句の果てには畠山七人衆という年寄衆組織が作られ、大名権力は奪われ傀儡と化した。3年前には責任を取って隠居し、当時若干15歳だった嫡男の義綱殿に家督を譲り、自身は後見人となった。来年には七人衆筆頭の温井総貞を誅殺して実権を取り戻そうとするが、更なる反発を受けて12年後には能登国から追放という憂き目に遭う予定だ。その際に擁立された孫の畠山義慶は当時若干12歳(今年誕生か?)というのだから、分かり易い傀儡政権だな。
そんな事を思い出しながら主君と共に待たされていると、漸く義続殿と義綱殿が現れた。春日山の時と同様に主君と義綱殿が形式に沿った挨拶をしているのを横目に、私はこの御家とどう付き合うべきか考えていた。能登畠山家は海上交通の要衝の輪島港を有する。また、海岸線が長いために日本海貿易船の多くが補給や風待ちのために入港せざるを得ず、そこから得られる外貨が山がちで米作りに向かない能登畠山家の経済を大きく支えていた。しかし経済的優位性とは対称的に、政治は不安定だ。内紛相次ぐ重臣会議と、その傀儡の当主。他国から見ればさぞ侵略したくなる状況だろう。輪島港という良港までついてくるなら旨味も十分だ。史実ではこの状態から約20年存続したが、よく保った方だと思う。
差し当たって私がこの地に手出し出来るわけではないので、当主と後見人、可能ならば新生児の次期当主にも誼を通じておこう。親蠣崎家の感情を抱かせておけば、貿易と併合のどちらにも役立つだろう。傀儡当主殿には悪いが、この御家は長尾家よりも余程崩し易そうだ。
越前国足羽郡一乗谷 1554年(天文23年)8月 蠣崎舜広(15歳)
次は朝倉家だ。現在の当主は21歳の朝倉義景殿だ。この方は足利義昭を匿うも上洛戦に消極的だったために逃げられたり、金ヶ崎の戦いで織田信長をぎりぎりで討ち取れなかったり、志賀の陣では信長に土下座をさせて「天下は朝倉殿が持ち給え」と言わせるもすぐに滅ぼされたりと、勿体無い出来事に事欠かない人物だ。ついでに一門衆を大将に任じて遠征させるも、自身は一向一揆に備える名目で一乗谷に引き籠もっている出不精でもある。
自信無さげに貧乏揺すりをしている義景を横から嗜めるのは、伝説の老将、朝倉宗滴殿(御年77歳)だ。この時代を代表する老将で、朝倉家の平和を最前線で守ったとも、後継者育てに失敗した結果、死後20年弱で朝倉家が滅んだとも言われている。来年加賀一向一揆との戦の最中に陣中で亡くなるらしいが、全くそう見えないのが恐ろしい。半分妖怪なんじゃないかとすら思えてきた。幾ら優秀とは言え78歳のご老人を総大将にする朝倉家は、深刻な人材不足なのだろうか。
宗滴殿の代表的な名言に、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」というのが有る。私はこの言葉が大好きだ。アイヌを何度も騙し討ちにしながら泥臭く生き延びた我ら蠣崎家にぴったりの名言だ。正々堂々で勝てるのは強者のみで、我ら弱者は「何をしてでも勝つのが重要」の精神が無ければさっさと滅びるしか無い。「卑怯」というのは強者が弱者の工夫や努力を非難するための言葉であると私は理解している。勿論周囲からの信頼を無くすのも滅びに繋がるので、常にどんな手段でも取れるというわけでは無いが…。
「朝倉殿、こないだは貴重な鉄砲ば送ってけで、本当かだじけねっす。」
「いえいえ、こちらこそいつも安東殿との貿易でお世話になっとるわけさ。北から京や大阪への荷物が多く敦賀を通るもんで、ほんまに儲けさせてもろうとるんよ。」
ほう、朝倉殿は既に鉄砲を入手しているのか。蠣崎家にも売って欲しいが、安東家の家臣である現状ではまだ無理だな。
私は将来本州にも領土を広げたいが、その時に強大な織田家に接するのは避けたい。国力差で磨り潰されるだろう。かと言って蝦夷島に引きこもって津軽海峡の守りを固めるだけでは、いずれ押し込まれて潰されるので同じだ。本州と四国と九州の支配者を相手にするなら、蝦夷島の全力と津軽海峡だけでは心もとない。和人とアイヌが共に生きる国を貫くには、蠣崎家が大きな力を持つ独立国で存続する必要が有る。
そのためには是非共朝倉家に強固な防壁となってもらい、織田家の北陸進出を阻んでもらう必要が有る。よし、朝倉家には貿易で利益を上げてもらい、足利義昭の上洛戦で中心になってもらおう。それで少なくとも織田一強体制の完成は遅らせられるだろう。織田家と朝倉家と三好家が中央で睨み合っている間に、蠣崎家が北日本で力を蓄えるのが理想の形だ。
・足利義輝:1536~1565年。足利幕府第13代将軍。父は第12代将軍の足利義晴。母は近衛家出身の慶寿院。11歳で父から将軍職を譲られる。三好長慶との敵対と和睦を繰り返した事で、京で政務を行えた期間は長くない。京を追われて近江国朽木谷に亡命する流れがお約束になっている。塚原卜伝の直弟子で剣豪将軍とも呼ばれる。1565年の永禄の変で、三好義継+三好三人衆に討ち取られる。
・上杉謙信:1530~1578年。越後国の大名。府中長尾家第9代当主兼山内上杉家第16代当主。父は長尾為景で、母は青岩院。上杉憲政の養子となり関東管領を引き継いだ事で、関東戦線という名の泥沼にはまり国力を消耗する。北信濃では武田信玄との度重なる戦いで苦労し、越中戦線でも中途半端な処置をする事で散発的に戦が起こる。戦術面では優れており、特に野戦では驚異的な爆発力を持つ。逆に戦略面では多方面に手を出す事で領土拡張に繋がらない戦ばかり行う。「義」を愛し、「義」に振り回された。宗教上の理由で子がいなかったため、後継者争いの御館の乱で上杉家は弱体化する。
・畠山義総:1491~1545年。能登畠山氏第7代当主。父は畠山慶致、母は金吾御上。能登畠山氏の全盛期を創った名君。日本五大山城の七尾城を建設する。七尾湾と富山湾の流通を支配し、宝達金山の開発にも取り組む。
・畠山義続:?~1590年。能登畠山氏第8代当主。父は畠山義総。家臣団による勢力争いや、加賀に追放した叔父の襲来等に苦しむ。重臣会議である畠山七人衆に実権を奪われ隠居し、後に追放されて近江に亡命する。
・畠山義綱:1536~1594年。能登畠山氏第9代当主。父は畠山義続。畠山七人衆から一時的に実権を取り戻すが、後に追放されて近江に亡命する。
・畠山義慶:1554~1574年。能登畠山氏第10代当主。父は畠山義綱。祖父と父が畠山七人衆に追放された後、傀儡君主として擁立される。急死又は暗殺で若くして倒れる。
・朝倉義景:1533~1573年。越前朝倉氏第11代当主。父は朝倉孝景(第10代)で、母は高徳院。京にそれなりに近い上に、約50万石の大国である越前国を後継者争いも無く引き継いだ恵まれた前半生を歩む。しかし加賀一向一揆との長引く戦や、当主が外征しない引き籠りの伝統、次期将軍候補の足利義昭に頼られるもいつまでも上洛戦を始めない優柔不断さ等により、最終的には信長被害者の会に名を連ねる。頭蓋骨を宴会の出し物にされるのは流石に気の毒である。継室のひ文字姫の姉の太陽院が足利義輝の正室であるため、実は剣豪将軍と義兄弟だったりする。
・朝倉宗滴:1477~1555年。朝倉家の宿老。父は朝倉孝景(第7代)、母は桂室永昌大姉。敦賀郡司。義景の祖父の代から朝倉軍の総大将として連戦連勝する。没する2か月前に総大将として加賀に侵攻し、1日で城を3つ陥落させた生涯現役爺様である。80歳近い爺様に何をさせているんだ…。




