第1話 1539年 北の大地
北海道白老町 2025年(令和7年)12月 武田広信(33歳)
私の名前は武田広信。北海道最南端の松前町で生まれ育った。私の誇りは実家からよく見える松前城で、日本最北の藩がこの北の大地で幕末までしぶとく生き延びた証でもある。私が産まれた時、両親は周りから広く信頼される人になるよう私を「広信」と名付けたそうだ。随分後になって日本史の授業で松前藩について習うと、藩が出来る100年以上前に本州から渡って来た武士と私の名前が似ている事にとても驚いた。彼の名前は武田信広。1431年(永享3年)に生まれ、1494年(明応3年)に亡くなった。出身地については、福井県小浜市や千葉県、青森県むつ市等色々な説が有り正直良く分からない。ただ確実に言える事は、1457年(長禄元年)のコシャマインの戦いで大活躍し、そのお陰で日本人(当時は和人か?)が北海道から追い出されずに済んだという事だ。信広は現地の城主の蠣崎季繁の娘婿になり、そして1462年(寛政3年)に季繁が亡くなると家督を継いだ。1548年(天文17年)には信広の玄孫(孫の孫)の慶広が誕生し、この慶広が豊臣秀吉や徳川家康といった中央政権に蝦夷の支配者と認められ、松前藩が始まった。支配者と言っても実際に支配する領地は北海道の一部に過ぎず、更に江戸幕府の都合で広がったり狭まったりした。幕末には戊辰戦争の最終局面に巻き込まれ、あの有名な鬼の副長とも戦った。
名前も幾分理由になったのだろうが、私はいつの間にか日本史にどっぷりはまっていた。特に日本の中央(江戸や京都、大阪)から語られる事の少ない、北海道やアイヌの歴史に興味を持った。松前藩が成立して蝦夷支配を認められたと言っても、実態はアイヌとの独占貿易で荒稼ぎした商人のような藩だ。荒稼ぎし過ぎて、何度か反乱を起こされて痛い目に遭ったりもしている。ロシアの南下政策で国防意識が高まるまでは、珍しい産品を供給する最果ての島という認識しか無かったのだろう。中央から語られないのも理解出来る。理解出来る、がやはり悔しい。私の故郷を、最果てで日本の最前線を担った松前藩が軽んじられているようで何だか悔しい。そんな取り留めのない事を考えながら、私は夜の高速道路を飛ばしていた。
仕事が一段落し、長らく訪れたかった白老町のウポポイ(民族共生象徴空間)を満喫する事が出来た。同じ道内と言っても、松前町からでは高速道路でも5時間かかる。普段はここまでの遠出はしないので、改めて北海道の広大さを実感した。興味深い展示品や解説、アイヌの楽器の生演奏等、とても充実した休日になった。折角なので家族や職場に土産を大量に買い込み、夜の道央自動車道を西に疾走していたその時だった。出発直前に見た天気予報では、今日は運転し易い日だった筈だ。駐車場で見上げた夜空にも、北斗七星が美しく輝いていた。しかし眼前は牛乳よりも濃い白に埋められ、視界はほぼ完全に失われた。永い一瞬が過ぎ、そして…。
土産のフクロウの置物の両眼が眩しく光ったのを覚えている。それが最後に見た景色だった。
蝦夷島松前郡大館 1539年(天文8年)春 蠣崎季広(32歳)
蝦夷島の春は寒い。言うまでもなく、冬は命を刈り取る寒さに耐えるしかない大地だが、春になってもまだまだ寒い。しかし今日の大館には暖かい空気が流れていた。
「若殿、元気な男子に御座います!奥方様も無事で御座います!」
正室である蔦姫の出産に立ち会った侍女が、私に嫡男が産まれた事を大声で知らせに来てくれた。普段なら廊下を走る侍女を窘めるが、今日はそれどころではない。次期当主である私は何とか威厳を保てる程度の早歩きで、産まれたばかりの嫡男の居る部屋を目指した。
「お蔦!嫡男を産んだと聞いたぞ!でかした!」
興奮を抑えきれずに襖を開け放つと同時に叫んだ私を、妻は驚いたような笑顔で出迎えてくれた。
「あらあら、侍女が飛び出していったと思ったら、すぐに季広様がやって来ました。今日の大館は、私が来てから一番賑やかな日ですね。」
私は大仕事を終えたばかりの妻を思わず抱き締め、感謝の言葉を何度も繰り返すのだった。そんな私を妻や侍女達が優しく見守る、そんな春の日だった。少し落ち着いた私は生まれたばかりの嫡男の小さな手を握り、自分の跡を立派に継いでくれる事を心から祈った。武士としてはかなり遅めの32歳になって初めて得た嫡男だった。数年前に妻が松姫を産んでくれていたが、蠣崎家を継ぐ跡取りが産まれた事は格別で、涙が出る程嬉しかった。私は懐から一枚の半紙を取り出し、大きく嫡男の名前を書いた。
「息子よ、お前の名前は彦太郎だ。いずれ蠣崎家を継ぎ、我らの領土を蝦夷島の隅々まで広げるのだ。」
私は初孫を抱いてもおかしくない年齢で漸く得た嫡男に、自身や祖先達がなし得なかった偉業、いや、野望や無謀の類かも知れない。そんな現状からかけ離れた大きな夢を託していた。曾祖父の武田信広が蝦夷島に渡って85年。私達の領土は蝦夷島の南西部、渡島半島の更に南西部の松前半島の一部に限られていた。27年前に蔦姫の実家である宇須岸河野館がアイヌに攻め落とされて以降、我らの領土はかつてなく狭まっていた。当時3歳だった蔦姫が乳母に背負われてここまで逃げて来たあの日を、私は決して忘れない。まだ5歳だった私は事の重大さを殆ど理解していなかったが、父で現当主の蠣崎義広(当時33歳)がとても深刻な顔をしていた事が強く印象に残っている。そんな父ももう60歳。いつの間にか私の隣に座り、嫡孫におかしな顔を見せて笑わせようとしている。彦太郎はそんな祖父を不思議そうに見つめているが、恐らくまだよく見えていないのだろう。むしろ普段は厳格な当主が多種多様な奇抜な表情を見せているのを間近に見て、侍女達が我慢出来ずに噴き出していた。
「ん?彦太郎は何を握っているんだ?」
私は彦太郎が右手に何かを握り締めているのに気付いた。小さな手の隙間から丸みの有る木材が覗いている。そっとそれを取り出すと、小さな木製のふくろうの置物だった。作りはとても精巧で、目は玻璃のようにきらきらと輝いていた。裏返すと足の裏に北斗七星の意匠が刻まれていた。
「この館にこんな置物が有ったのか?父上、これに見覚えは有りますか?」
父の義広も不思議そうに首を振った。蔦姫も見た事が無いとの事だった。確かアイヌの神話で、ふくろうは村を守る神だったか?商売相手のアイヌが話していたな…。北斗七星は常に北の空で輝き、旅人を導く。最北の小国を守り導くのにぴったりの置物だな。神棚の目立つ場所に鎮座して頂くから、是非とも彦太郎と蠣崎家の守り神になってくれよ。
松前に喜びが満ち溢れているのと同じ頃。出羽国山本郡の檜山城も同様だった。檜山安東家第7代当主である安東舜季(25歳)に念願の嫡男が産まれたのだ。彼は蠣崎季広の主君であり、アイヌとの交易で大きな富を得ていた。舜季の嫡男の安東太郎、即ち後の安東愛季は、鎌倉時代以来200年以上分裂していた安東家を再統合し、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と称えられる事になる。
蠣崎彦太郎(舜広)と安東太郎(愛季)。同じ年にこの世に生を受けた2人の嫡男は、北斗七星に導かれるように、歴史の荒波に飲み込まれていく事になる。




