点滅
彼は慎重派だ。常日頃から、自分のポジションを把握して動くようにしている。
だから彼は、例えば仕事帰りの酒のつき合いもほどほどにこなす。但し車で通勤した日にはアルコールを控え、それでも上司の誘いとあらばビールを一杯やって、帰りのタクシーの用意も欠かさない。そのお陰かどうか、彼の職場における対人関係は穏やかで、自分の仕事を日々すいすいと片付けている。
家庭では、共働きの妻が不満をぶつけない程度に良き夫を演じている。幼稚園に通う一人娘の、年中行事の全てには顔を出せないものの、可愛い盛りの子供の世話を怠けもしない。
さらには仕事と家族サービスの合間を縫い、彼は趣味の時間を持つようにもしている。娘が寝て、妻がテレビのドラマに夢中になる頃、自室でゆっくりインターネットを楽しむのが彼の日課だ。妻は夫の趣味に対し、パソコンに慣れてくれると年賀状を作成するにも楽だと言って喜び、干渉をするようすはない。元来体を動かすことを好む性質で、インドア志向の夫の遊びごとに関心がないらしかった。
彼はチャットで知り合った女と浮気を始めている。
二人が出会って早五ヶ月。その女とは最初から、何故だか妙に馬が合い、暇さえあれば四方山話から互いの人生論まで重ねあった。口火を切ったのは、おいしいランチの店を尋ねた女のほうであったかも知れない。もっとも彼自身、そろそろ俺も浮気のひとつくらい経験していい年頃だと意識していなくもなかった。
彼は自負している。
「遊びは遊び。相手も同意の上であり、自分は感傷に浸るほど下手な男ではない」
先月の初め、彼は自室のパソコンから情事を締め出し、代わりに携帯電話のアドレスと番号を交換した。初めておち合う約束の前に、彼は人違いをしないよう念のためと言って写メールを要求した。女いわく三十手前の、分別ざかりの年頃で、適度に絵文字をあしらいつつ「バツイチなの」と打ち明ける文章が、妻と違ってソフトな印象で、実際聞きわけも良い。ディスプレイごしに本人の姿を眺めてみると、想像したより地味ではあったにせよ、チャットでの明るい印象や高い地声とマッチしていると思った。だから早速会ってみると、男から見て可愛く感じる肉付きの小柄な体に、ぽってりとした唇や、目じりの下がった奥二重が安心感を与えてくれる。
以来携帯には時おり、取引先を装った女から連絡が入るようになった。しかし彼は、遊び相手の元へ浮き足立って向かうまねをしない。彼は大人なので安全運転を好む。交差点の信号が青から黄に変わった時にも、後続車両の流れを止めない程度に直進しないことにしている。反面、簡単なジンクスは気にするから、逐一信号に引っかからずデートの場所に着いた夜には、自分の運の良さを自信とともに噛みしめるのだ。
彼女は、今度ばかりは最後まで事を進める決心をした。
情が濃いのかだらしがないのか、彼女の恋愛感情の、終始開いたひだに心地いい異性にだけ尽くし、散々な目にあっても涙を流したぶんだけ燃え上がる。障害があればある程、独占欲にかられる癖があった。毎日腹が減るように寂しさが募ってならず、喉が渇くように、好きになった男を抱きしめてしまいたい衝動にかられる。しかし失敗を重ね、急かせば相手が逃げてしまうのだとはわかった。何度目かの恋に破れた後、チャットに新たな出会いを求め、実年齢よりも少しさばをよんで登録した。そして自分好みのパートナーに出会ったのだ。彼女の新しい相手は、引け腰のわりに無難な口説き文句が上手いサラリーマンである。既婚者だ。帰りの時間を気にするくせ体を欲しがる男の素振りが、彼女には不器用な愛らしさに映ってならない。だから車中でのキスと、服を着たままペッティングをするだけに押し留めた。彼女は念じている。こんな男の妻には私がふさわしいと。これまでの経験を反芻し、彼女は出会いをゆっくりと育みながら成就させる覚悟を誓った。人に悪く言われようがどうでもいい。自分と自分の愛する男のためを思えばこそと考えて、既に腹を括っている。こめかみを震わせる程の激情を前歯で噛み殺している。
今夜も彼は、不倫相手のもとへとハンドルを切った。車の込み合う時間の割には交差点の繋がりがスムーズだ。カーラジオから流れる英語のロックが何と言っているかはわからないが、アップテンポが気分を盛り上げ、「Are you gonna go my way」というフレーズがとてもいい。はてさてこれからどんな寝物語をはじめようか。学生時代の彼は女にもてたものであったが、今は余計なやっかみを避け、知識ぶった人間に見えない程度の話題を仕入れておく主義だ。流行のビジネス本や文芸の書評から得た話題、画像サイトやニュースが箸休めに流す面白情報などなど、とっておきのトークを頭で練りつつ、いつものスクランブル交差点に差し掛かる。明かりを消した部屋の中、くねる白い腹や、きっと黒々と密集しているであろう陰毛、そして苦しげに喘ぐ女の薄く開けた目元が浮かぶ。
かのシェイクスピアはこう書き残した。
――嫉妬とは、眦を緑の炎に燃え上がらせた怪獣である。
車が走り出す。無論彼はそんな話を知らない。