第9章
エアロックの黄色い光が消え、船内の空気が正常に戻ったことを示す計器の表示を確認したヤクブは、慎重にエアロックの扉を開けた。宇宙服を身につけたまま、彼はゆっくりと船内へ足を踏み出す。辺りを見回すが、先ほどの異形の蜘蛛の姿は見当たらない。
「異常はない?」管制室からの声が、彼のヘルメットのスピーカーから聞こえてくる。
「今のところは」ヤクブは、まだ警戒を解かずに答えた。彼の視線は、周囲の暗闇を執拗に探している。
すると、彼の目の前に、あの蜘蛛のような怪物が再び姿を現した。それは、彼のすぐ目の前、無重力の中をゆっくりと漂っている。ヤクブは息を呑んだ。
「恐れているな」
怪物の声が、直接彼の頭の中に響く。その声は、相変わらず穏やかで、しかし底知れぬ深さを感じさせた。
ヤクブは、一歩後ずさりした。しかし、宇宙服の重みと無重力のバランスが崩れ、彼の体はゆっくりと後方へ流される。
「心配は無用だ」怪物は続けた。「地球の消毒剤は、私に何の害も与えていない」
その言葉に、ヤクブは愕然とした。消毒が効かなかった? では、彼の努力は無駄だったのか。そして、この存在は、彼の想像をはるかに超えるものだというのか。
「失礼」怪物はそう言うと、ヤクブの目の前を、スルスルと横切っていく。その動きは、まるで熟練した舞踏家のようだった。
「私はお前を捕食も汚染もしない」
怪物は、ヤクブの思考を読み取っているかのように、明確に告げた。その言葉は、彼の心に安堵をもたらす一方で、さらなる疑問を投げかけた。では、一体何のために、この船に現れたのか?
ヤクブは、宇宙服のヘルメット越しに、その異形の存在をじっと見つめる。恐怖は依然としてそこにあったが、それに加えて、一種の困惑と、そして奇妙な好奇心が芽生え始めていた。この未知の生命体は、彼にとっての脅威なのか、それとも、この孤独な宇宙で、彼に何かをもたらす存在なのか。彼の現実は、今、根底から揺らいでいた。
「私が現実を疑っているな」
ヤクブは、ヘルメットの中で、苦笑にも似た表情を浮かべた。目の前の怪物の存在、そして妻との突然の別れ。あまりにも非現実的な出来事が、次々と彼の身に降りかかっていた。彼の心の均衡は、今、まさに崩れ去ろうとしていた。