末期の水
空から炎が落ちてきて、全部が全部焼け落ちた。
半年ぶりに休暇を取って、数馬が帰省をした日の夜のことだった。
記憶よりもやせ細った母と、半年前より額の後退が大幅に進んだ父は、成人して間もないひとり息子の帰還を、ことのほか喜んでくれた。いつになく和やかな食卓には、数馬の好物であるかぼちゃの煮付けとすいとん汁が並んでいた。
「整備兵の仕事はどうなんだ、数馬」
「可もなく、不可もなく。心配しなくてもうまくやってますよ、お父さん」
「数馬は昔から機械いじりが好きだったものねえ」
母の手料理に舌鼓を打ちながら、取り留めもない話をした。目が悪いせいで花形のパイロットにはなれなかったというだけなのに、両親はまるで数馬の天職かのように、整備兵の仕事を褒め称える。面倒な自尊心がじくじくと痛む反面、息子が後方勤務であることに喜ぶ両親の顔を見ると、この道も悪くはなかったのかもしれないと素直に思えた。
けれどもそれが、両親の笑顔を見た最後になった。
サイレンの音を聞いて飛び起きたときには時遅く、生家はすでに燃えていた。
真っ暗闇に投下された焼夷弾は、両親の寝室に直撃したらしい。いくら呼びかけても、返事は返ってこなかった。
無我夢中で這い出した先には、火の雨が降っていた。
夜の空は赤黒くけぶり、目を焼く光が空と大地を焼いていく。
何が起きているのか分からなかった。軍隊暮らしの数馬でさえもそうなのだから、平和に、慎ましやかに生活していただけの町人たちにとっては尚更だったことだろう。隣人たちは揃いも揃って、幼子のように空を見上げていた。
空襲だ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。
頬を叩かれた気分で、数馬も声を上げる。
「爆弾が降ってくるぞ! 地下鉄の駅へ走れ! 逃げろ!」
己は何だ。
軍人だ。
呆ける暇があったら、職務を果たせ。
血の匂い。煙の匂い。人と家屋が焼かれる匂い。
走れば死体に蹴躓き、足を止めれば無数のうめき声に包まれる。生まれ育った下町は、見たこともない真っ赤な火の海へと変わっていた。
地獄のような光景の中で、数馬は必死に人々を誘導した。
あらかた近所の人々を逃がし終えたそのとき、ひと組の家族が数馬の横を走り抜けていく。
見覚えのある顔だった。二軒隣に住む中田一家だ。
赤ん坊を抱いた母親の背を、怪我をした父親が支えていた。そこから少し遅れて、十五を超えるか超えないかという年頃の少年が、なけなしの家財を抱えて両親を追っていく。この長男坊とは、子どものころ、よく遊んでやった記憶があった。
彼の名前を思い出すより先に、数馬は少年の腕を素早く掴む。
「――危ない! 崩れる!」
あの瞬間、数馬の声に反応して振り返った中田一家の表情を、一日とて忘れた日はない。
「走れ」と言うべきだった。あるいは「急げ」。あるいは「振り返るな」。――なんでもいいから、足を止めさせない言葉を選ぶべきだった。
己はいつもそうだ。誰かの命を救うための正しい言葉を、いつだって必要な瞬間に見つけられない。
「うわああああ!」
悲鳴が響き、数秒と経たずに轟音に飲まれる。
「母さん……っ!」
「ダメだ!」
倒壊する家屋から庇うように、数馬は駆け出そうとする少年の腕を引き、力づくで地面へと引き倒す。
「あ、ああ……! 父さん、母さん……! 桜……!」
「ごめん。ごめんな……!」
助けられなくてごめん。
空虚な言葉を吐きながら、数馬は泣きじゃくる少年を抱き寄せる。控えめに肩を押す手に、腕の力を緩めれば、少年はじっと空を睨みつけていた。
「……違う。数馬兄ちゃんは悪くない。悪いのはあいつらだ」
名は体を表すとはよく言ったものだ。彼の名前が正であることを、その瞬間、数馬は思い出した。
「全員堕としてやる。あの飛行機も、飛行機乗りも、全部。なあ兄ちゃん、志願兵って、十四歳からなれるんだよな? 口、利いてくれよ。あんた、兵士なんだろ」
煙のせいか涙のせいか、正の目は真っ赤に濡れてぎらついていた。数馬に語りかける間も、正の目は空を向いていた。正確には、遠ざかっていく爆撃機を、強く睨みつけていた。眼鏡がなければ人の顔も見えない数馬と違って、正は恐ろしいほど目が良かったから。
その声に滲む、年に見合わぬほどの冷静さが、恐ろしくて仕方なかった。
あの日助けた少年は、あっという間に同僚となった。
志願兵として十五で入隊した正は、当時の切迫した状況の中、最低限の訓練を受けて航空兵となった。二年足らずで三十機以上を撃墜した正を、皆がエースパイロットだと称賛する。英雄だともてはやし、まだ大人にすらなりきっていない少年を、歓声とともに戦場へと送り出す。
狂っていると思った。蜃気楼のような勝利に向かって邁進する連中の熱狂も、人の命を弾のように使うお国も、それをよしとする世間も、子どもらしからぬ達観した眼差しで戦場に出ていく正も、それを止めるどころか助ける己も、みんな、みんな、狂っている。
終わる気配のない戦争の中、数馬は戦闘機を整備し続け、正は空を飛び続けた。
経験豊かなパイロットたちが数を減らし、潤沢だったはずの燃料はいつしか混ざりものの粗悪な品質へと変わっていった。それでも数馬たちの仕事は変わらない。
銃弾が足りなくなっても。飛行訓練すら満足にする余裕がなくなっても。そして、注がれる燃料が、いつしか片道分になるようになっても、何ひとつとして変わらないままだった。
「なあ、やめないか」
作戦前夜のことだった。真っ暗闇で戦闘機を整備しながら、数馬は努めて軽い口調で、正を引き留めようとした。
「何を」
隊の仲間にもらったのだろうみかんを丁寧に剥きながら、興味もなさそうに正が答える。
「全部だよ。正はまだ若い。本当だったら、従軍しなくたってよかったはずだ」
「ごめんだね。家も家族もないのに、ここ以外のどこに行けって言うんだ」
「どこでもいいさ。親戚とか、俺の実家とか……、そんなものはどうとでもなる」
「ならない。誰も彼も、家族でもない他人に親切にできる余裕はない。第一、誰かが戦わなかったら、敵は全部燃やしてみんな奪っていくだけだ。家も、町も、国も。数馬兄ちゃんだって、それくらい分かってるだろ」
分かっている。頭では分かっているけれど、分かりたくないからこうしているのだ。
正の視線は揺るがない。その正しさが、数馬にはもどかしくてたまらなかった。
大人になりきっていない正の指が、小ぶりなみかんの筋をちびちびと剥いていく。うつくしい房をひとつ仕上げたところで、正は慎重にそれを口へと運んでいった。
甘露を味わうように大切に果実を咀嚼して、正がわずかに唇の端を上げる。
末期の水を与えられた祖父も、こんな表情を浮かべた覚えがあった。そう思った途端に、居ても立ってもいられなくなる。
気付けば数馬は、正の手首を掴んでいた。
「俺は……俺は、君のことを大切に思っている。正、お願いだ。行かないでくれ」
言葉なんて知らない。数馬にできることは、ただ正直に懇願することだけだった。この弟のような子を、英雄になってしまった若き同志を、むざむざ死に向かわせたくはない。
逃げてくれ、と祈った。逃げてくれるというなら、己はどんなことでもするから。
書類でもなんでも偽装する。わざと燃料が足りなくなって、途中の島に降りざるを得なくなるよう、細工したっていい。だから――。
「頼むよ、正。行かないでくれ」
言い募る数馬を、正は束の間見つめて、眩しいものでも見るように目を細めた。どこか達観した、静かな眼差しだった。
「……ありがとう、数馬兄ちゃん」
視線を落とした正は、数馬に手を掴まれたまま、不器用にみかんの筋を取っていく。
「兄ちゃんにも、あげる。おいしいよ」
「正。俺は――」
口元にまろい感触が押し付けられる。大人びた笑みを浮かべながら、正はそうして数馬の言葉を優しく封じた。
「あの時兄ちゃんが助けてくれたおかげで、俺は今日まで生きてこられた。兄ちゃんがいるから、今日も明日も、最後までひとりじゃない。俺は、それだけで十分だ」
言いながら、正は数馬の口にみかんを一粒押し込んだ。細い指が唇に触れる。左から右へ、果汁を拭うように滑っていく。
数多の敵を冥府に送った英雄の指にしては、あまりにもいとけない感触だった。
「おやすみ、数馬兄ちゃん。飛行機、準備してくれてありがとうな」
ひょいと正は立ち上がる。数馬を振り返ることなく、暗闇に向かって歩いていってしまう。
狂った世の中で、正はどこまでも正しいひとだった。
あるいは、どうか己とともに過ってくれと懇願すれば、正にも届いたのだろうか。
込み上げる嗚咽をかみ殺す。年下の男が与えてくれた小さな果実は、甘くしょっぱい味がした。
翌日の朝、飛行機は空へと発った。そして二度と戻っては来なかった。
正が最後に味わった果実の味は甘さだけであることを、ただひたすらに願った。