ストームブリンガー 前編
ハートレイ領の広大な農地には、新芽を出し始めた麦の緑が一面に広がっていた。しかし、例年なら生き生きとしているはずの畑は、少し元気がない。若い葉は力なく垂れ、土は乾き始めていた。農民たちは心配そうに空を見上げていた。
「雨が降らなくなって三週間になりますね」ティムは兄のウィリアムと丘の上から領地を見渡していた。「この時期にしては異常です。今が作物の成長期なのに」
ウィリアム・ハートレイ領主は眉間にしわを寄せた。「父上から引き継いで初めての春だ。今年は豊作にしたいのだが...」
「兄上、それだけではありません」ティムは静かに言った。「北の渓谷から流れる川の水量も減っています。山の雪解け水が増えるはずの季節なのに、逆に減っているのは不自然です」
「水源は隣国の領地か」ウィリアムは懸念を示した。
「干ばつの被害が深刻になる前に調査すべきです」ティムは決意を込めた目で言った。「早めに対処しなければ、夏を前に深刻な水不足に陥るでしょう。私に任せてください」
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二日後、ティムは山道を馬で駆け下りていた。その表情には発見した事実への憂慮が浮かんでいた。
ハートレイ城の書斎に戻ったティムを、ウィリアムとジュリアン司教補が待ち構えていた。
「どうだった?」ウィリアムが切り出した。
「予想以上に深刻です」ティムは地図を広げた。「ヴァレンティア国境、クラウディン公爵領で大規模な堰が築かれています。我々の領地に流れるはずの水が意図的に迂回させられているのです」
「クラウディン公爵か...」ジュリアンは冷静に分析した。「彼は先代領主である父君と国境問題で折り合いが悪かった。これは偶然ではないだろう」
「外交的交渉は?」ウィリアムが尋ねた。
「時間がかかりすぎます」ティムは首を振った。「もう春の播種期です。このまま水不足が続けば、夏前に作物は枯れ、秋の収穫は絶望的になるでしょう。今すぐ対策を講じなければ、冬には深刻な食糧難に陥ります」
沈黙が三人を包んだ。
「私には考えがあります」ティムが静かに言った。「アイアンピーク山脈に住むドワーフの技師、ラグナーを訪ねましょう」
「引退した鍛治職人か、彼なら何か助けになるのか?」ウィリアムは疑問を呈した。
「ラグナーは凄腕の職人であり発明家です。クラウディン公爵に頼らずとも水を確保する方法を知っているかもしれません」
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アイアンピーク山脈の隠れた谷間、ラグナーの工房は活気に満ちていた。様々な機械の部品が散らばり、図面が壁一面に貼られていた。ラグナー・アイアンハンドは作業台の前で何やら複雑な装置を組み立てていた。
「また来たのか、小倅」ラグナーは振り返りもせずに言った。「何の用だ?」
「ラグナー殿、我が領は深刻な水不足の危機に直面しています」ティムは恭しく言った。「クラウディン公爵が水源を堰き止め、我々の農地への水を止めているのです」
「わしは人間同士の争いには関わらんと決めた」ラグナーは鋼鉄のように冷たい目でティムを見た。
「それが国境を接する者同士の古くからの愚行なら尚更だ」
「というのは建前で」ティムは静かに答えた。「水の運搬、供給を自在にコントロールする技術を開発することに興味はありませんか?目の前の課題に指をくわえて、見ているのがお好きなら、無理強いはしませんが」
「ふう、やれやれ」ラグナーは諦めたように「今度は何が必要なんだ?」
「山からの水源に頼らない、水を田畑に送る装置ですが、何かアイデアはありますか?」
「ある」ラグナーは立ち上がり、工房の奥へと進んだ。「わしはかねてから『アクアフォージ』という装置を構想していた。地下水を効率的に汲み上げ、貯水し、必要な場所へ送る仕組みだ」
彼は複雑な図面を広げた。そこには精巧な管と歯車のシステムが描かれていた。
「この装置を作れば、クラウディン公爵の水に頼らずとも、領地に水を供給できる」
「素晴らしい!」ティムは感嘆した。「作るのにどれくらいかかりますか?」
「材料と助手があれば、一月」ラグナーは言った。
「では3週間でおねがいします」
「まったくお前の要求ときたら、毎度、無茶ばかりだ。」ラグナーは、フン、と鼻を鳴らして言った。
「しかし問題もあるぞ」
「何でしょう?」
「核となる部品に、『ミスリル』が必要だ」ラグナーは真剣な表情で説明した。「通常の鋼より遥かに強靭で、魔力を導く性質がある」
「どこで手に入りますか?」
「それが難しい」ラグナーは眉をひそめた。「ミスリルは王国の規制鉱物だ。採掘には王室鉱山局の特別許可が必要になる。あるいは、ブラックマーケットで手に入れる方法もあるが...」
「王室の許可ですか」ティムは考え込んだ。「我が家は王室との繋がりが薄い。何か伝手が必要ですね(しかし、アイリス王女からの口添えがあれば、あるいわ)」
「それが正攻法だな」ラグナーは認めた。「だが、許可を得るには時間がかかる。お前の領地はそれを待てるのか?」
「ブラックマーケットについても調べます」ティムは決意を固めた。「両方の道を探ってみます」
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「ミスリルの許可を得る計画はすべて暗礁に乗り上げました」ティムは疲れた表情でウィリアムとジュリアンに報告した。
書斎には三人が集まり、深刻な表情で対話していた。
「アイリス王女には好意的に聞いていただいたのですが、許可書が王室鉱山局に回ると、アルベルト王子派の役人たちが認可を止めているようでした」ティムは苦々しく言った。「王女様はそこに無理矢理通すのは難しいと」
「ブラックマーケットはどうだった?」ウィリアムが尋ねた。
「途方もない値段です」ティムは肩を落とした。「領地一年分の収入に匹敵する額を要求されました。」
ウィリアムは窓辺に立ち、沈黙の後で尋ねた。「まだ選択肢はあるかい?」
「一つだけ」ティムは地図を広げた。「ミスリルの最大産出国、マクシミリアン帝国への直接交渉です」
「帝国か...」ジュリアンは眉をひそめた。「複雑な政治状況だ。彼らは武器に転用しやすい鉱石を他国の貴族と直接取引することはしないだろう」
「だからこそ、何か彼らが欲しがるものを提供する必要があります」ティムは言った。「帝国が抱えている問題を解決するような」
「帝国が今必要としているものは何だろう」ウィリアムは思案した。「軍事同盟?技術?」
ジュリアンが書物を取り出した。「帝国の最近の問題は...」彼は数ページめくり、「ドラゴン被害だ。西部の主要ミスリル鉱山がプラチナドラゴンの繁殖地になり、採掘が事実上不可能になっている」
「それは我々も聞いた話だ」ウィリアムは言った。「帝国軍でさえ手に負えないのなら、我々に何ができるというのだ?」
「ローランドだ」ティムは突然言った。「彼なら可能かもしれない」
「勇者殿か?」ウィリアムは驚いた。「確かに彼は多くの魔物を討伐した実績があるが...」
「彼は我々の味方です」ティムは説明した。
「そして」ジュリアンが加えた。「ドノヴァンもローランドと行動を共にしている。彼もドラゴン相手でも戦える可能性がある」
「彼らを説得し、ドラゴン討伐の計画を提案する」ティムは熱心に続けた。「ドラゴンを討伐すれば帝国も我々の要求に応じてくれるかもしれない」
「それは...大胆な計画だ」ウィリアムはしばらく考えた後で言った。「だが、それ以外に選択肢がないならば、試みる価値はある」
「では、勇者ローランドとドノヴァンに会いに行きます」ティムは決意を固めた。
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ハートレイ領城下町の宿屋で、ティムは二人の異質な組み合わせに出会った。一方はライトアーマーを身に纏い、背中に剣を背負った眩い青年。もう一方は、緑がかった肌と鋭い角を持つ魔族で、暗い色の外套を頭まで被っていた。
「ドラゴン討伐の依頼?」ローランドは眉を上げた。「それも巣だと?冗談だろう」
「冗談だったらどんなによかったか」ティムは真剣に言った。「我が領の水源が隣国に奪われ、それを解決するためには、必要なことなんだ」
「水不足か」ドノヴァンは低い声で言った。「魔族の領域でも同じような問題が起きている。水をめぐる争いは最も悲惨だ」
「ドラゴンを倒すことは可能だろう」ローランドは言った。「だが、何匹もいるとなると話は別だ」
「一匹ならまだ可能性はあるが、問題は巣だ。マクシミリアン帝国の西部鉱山には、少なくとも数頭のドラゴンが棲みついているんだろう?同時に相手をするのは自殺行為だ」
「魔法で眠らせることも考えたが」ドノヴァンが静かに言った。「成体のドラゴンは魔法耐性が高すぎる。私の魔力では効果が薄い」
静寂が部屋を支配した。ティムは窓の外を見つめ、考え込んだ。
「もう一度、ラグナーに相談してみよう」ティムはついに口を開いた。「彼ならドラゴン捕獲機くらい持っているかもしれない」
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「再び来たか」ラグナーは炉の火を掻き回しながら言った。「会議は上手くいかなかったようだな」
ティムは事の次第を説明し、勇者と魔族の意見を伝えた。
「一匹ならなんとかなるが、複数は無理だというのか」ラグナーは口髭をひねりながら考え込んだ。「確かにそうだろうな」
「何か良い方法はないでしょうか?」ティムは切実な表情で尋ねた。
「ドラゴンを…行動不能するか」ラグナーはしばらく黙考した後、突然立ち上がった。「奴らの弱点を考えてみろ。何が効くと思う?」
「火は効かないでしょう。ドラゴンは炎を吐きますから」ローランドは言った。
「そうだ」ラグナーは頷いた。「では、奴らが嫌うものは?」
「嫌うもの…」ジュリアンは思案した。「古書では、ドラゴンは特定の香草の臭いを嫌うと書かれていました。また、音に敏感だという記述も」
「その通りだ!」ラグナーの目が輝いた。「動物は嫌な臭いや音から逃げる。ドラゴンも例外ではない」
彼は古い本棚から図面の束を取り出し、作業台に広げた。
「かつてわしは害獣駆除のための装置を開発していた」ラグナーは説明した。「強力な音波発生器だ。それを応用すれば…」
彼は急いでスケッチを始めた。「嫌がる臭いを発生させる媒体と、ドラゴンにだけ聞こえる高周波発生装置を組み合わせれば、奴らを一時的に混乱させることができる」
「それだけで撃退できますか?」ティムは疑問を呈した。
「いや、それだけでは足りん」ラグナーは首を振った。「問題は奴らの飛行能力だ。臭いと音で地上には近寄らんだろうが、撃退とまでは行かない。住処が山の上に移るだけだ」
彼はさらに別の図面を引っ張り出した。そこには奇妙な渦を発生させる装置の設計図があった。
「これだ」ラグナーは興奮した様子で言った。「『ストームブリンガー』と呼んでいる実験段階の装置だ。強力な上昇気流と渦を発生させ、局地的な小型竜巻を作り出す。飛行生物はこの渦の中では羽を効果的に使えなくなる」
「それを使えば、ドラゴンは地上に留まることを強いられる」ジュリアンは理解した。
「そう」ラグナーは頷いた。
「臭いと音で混乱させ、ストームブリンガーで飛べなくする。あとはドノヴァンの魔法で動きを封じ、ローランドがトドメを刺せば…」ジュリアンの目が光る。は、
「となると、嫌な臭いじゃなく、むしろ嗅ぎたくなるほど、いい臭いでおびき寄せた方ががいいですね!」ティムは希望を取り戻した。
「まったく、その通りだ!」ラグナーは膝を打った。「だが、注意してくれ。ストームブリンガーは一度しか使えん。タイミングを見極めることが重要だ」
「わかりました」ティムは決意を固めた。
ラグナーは頷き、すでに図面に向かって修正を始めていた。
細い糸は繋がった。
ティムはこの一縷の望みに全てをかけることに決めた。