血より濃いもの
ハートレイ城の大広間は、朝日が差し込み始める早い時間にもかかわらず、すでに活気に満ちていた。使用人たちが忙しく行き交い、季節の変わり目に合わせた城内の大掃除が始まっていた。
「また赤字か」
大広間の一角、小さな書斎のような空間で、ウィリアム・ハートレイは溜息をついた。彼はハートレイ辺境伯爵家の嫡男で、父アーノルド伯爵の隠居後、この広大な領地を任されていた。机の上には帳簿が山積みになっており、彼は疲れた表情で額を押さえていた。
「もう三期連続の赤字だ。このままでは冬の備蓄にも影響が出る」
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。窓からは、ハートレイ領の豊かな農地が一望できた。しかし、近年の不作と隣国との小競り合いによる交易路の混乱が、領地の財政を圧迫していた。
「お呼びでしょうか」
扉が開き、ティムが姿を現した。アーノルド伯爵と羊飼いの女との間に産まれた彼は、公には従者という立場だったが、その才覚の高さから、ウィリアムの側近として扱われていた。
「いや、呼んではいないが、ちょうどよかった」ウィリアムは振り返った。「最近の会計報告を見てみろ。どうにも打開策が見つからない」
ティムは静かに近づき、机の上の帳簿に目を通した。彼の指が素早く数字をたどり、時折小さく頷いていた。
「なるほど、問題は明らかですね」彼はすぐさま答えた。「冬麦の収穫前に販売契約を結んでいますが、市場価格の変動を見誤っています。また、エルムウッド峠の関税が三割増しになったのに対応できていません」
ウィリアムは驚いた表情で彼を見た。「一目でそれがわかるのか?」
「数字を見るのは得意でして」ティムは謙虚に微笑んだ。
実際、ティムは子供の頃から数字に強い才能を見せていた。宿場町の近くで育った彼は、幼い頃から宿の帳簿をつけ、町の商人たちからも一目置かれる存在だった。それがアーノルドの目に留まり、「才能の無駄遣いだ」と言って城に引き取られたのだった。
「解決策はあるか?」ウィリアムは期待を込めて尋ねた。
「はい、いくつか」ティムは自信を持って答えた。「まず、南のマーケットブリッジ経由で物資を運ぶルートを開拓すれば、関税負担を軽減できます。次に、冬麦の契約は一部を変動価格制にすることで、リスクを分散できるでしょう」
ウィリアムは感心した様子で頷いた。「それは考えていなかった。南ルートは盗賊の噂があって避けていたが、確かに検討の価値はあるな」
「盗賊の噂は誇張されていますよ」ティムはウィリアムの目を見た。「実際、先月私が調査に行った際には、商人たちは平和に往来していました」
「お前が調査に?」ウィリアムは驚いた。「いつの間に?」
「休暇を頂いた時です」ティムは軽く答えた。「少し視野を広げておきたいと思いまして」
ウィリアムは複雑な表情でティムを見つめた。彼はティムの才能と人間性を認めていた。しかし、彼を完全に信頼し、家の一員として扱うべきかという葛藤も抱えていた。父アーノルドは晩年、ティムをより重要な地位に据えようと主張していたが、周囲の貴族たちの眼も気になっていた。
「ティム」ウィリアムは真剣な表情で言った。「正直に言ってくれ。ハートレイ家の財政について、どう思う?」
ティムは一瞬考え、慎重に言葉を選んだ。「危機的ではありませんが、改善の余地は大いにあります。特に投資と支出のバランスが取れていません。また、新しい収入源の開拓も必要でしょう」
「では、何か提案はあるか?」
「そうですね」ティムは自信を持って答えた。「まず、帳簿の一元管理が必要です。現在は各部署がバラバラに記録をつけているため、全体像が把握しづらい。次に、季節ごとの支出計画を立て、特に冬季の備蓄コストを最適化すべきです」
ウィリアムは感心して頷いた。「それは理にかなっている。だが、誰がそれを管理する?現在の財務官は年老いており、新しい方法に抵抗があるだろう」
「目の前に適任者が」ティムは静かに言った。「もちろん、お兄様の監督の下でですが」
ウィリアムは窓の外を見た。彼は長い間、この問題について考えていた。ティムの才能を無駄にすることは、領地のためにならない。しかし、父の私生児に重要な役職を与えることで、周囲の貴族たちからの反発も予想された。
「わかった」彼はついに決断を下した。「試験的に三ヶ月、財務の見直しを任せよう。結果を見て、正式な役職について考える」
ティムの目が光った。「必ずや期待に応えます」
---
ティムが財務の見直しを始めて二週間が経った頃、最も大きな障壁は予想通り、古参の財務官オズワルド・フリントだった。城内で四十年以上勤めてきた彼は、若いティムの新しい手法に強い抵抗を示していた。
「無駄な作業だ!」オズワルドは皺だらけの手で机を叩いた。「四半期ごとの収支まとめを月次に変更するなど、単なる労力の無駄だ」
「しかし、より早く問題を発見できれば、対応も迅速になります」ティムは穏やかに説明を試みた。
「若造の思いつきで、四十年の伝統を変えるつもりか」オズワルドは吐き捨てるように言った。「お前のような出自の者に何がわかる」
ティムは深呼吸をして感情を抑えた。オズワルドの態度は彼だけではなく、他の会計係にも影響を与えていた。このままでは改革は進まないだろう。
---
「話がしたい」
その夜、ウィリアムはティムを私室に呼んだ。
「オズワルドのことですか?」ティムは即座に察した。
「ああ。彼は頑固な老人だが、城内での影響力は大きい。彼の協力なしでは、計画の半分も進まないだろう」
「理解しています」ティムは頷いた。「時間をかけて説得するしかないでしょうか」
ウィリアムは首を横に振った。「それだけでは難しい。実は...」彼は少し躊躇った。「オズワルドには個人的な問題もある。彼が仕事に固執しているのは、ある意味それが拠り所だからだ。奥方のベアトリスとの仲は冷え切っているし、一人娘のマーガレットとも疎遠だ。特に孫娘のローズとは生まれから一度も会っていないと聞く」
「何かあったのですか?」
「マーガレットが職人と結婚したことを、オズワルドが許せなかったのだ。彼は娘に城内の役職を持つ者との結婚を望んでいたが、マーガレットは意に反して職人のロレンツォと駆け落ちした」
ティムは考え込んだ。「それで、オズワルドは孤独を抱えたまま、古い慣習に固執しているか」
---
翌日、ティムは城の会計室ではなく、城下町の市場に足を運んだ。
市場の喧騒の中、ティムは細い路地を抜けて小さな布地店に足を踏み入れた。店内は色とりどりの生地が棚に並び、奥では若い見習いが布を裁断していた。カウンターの向こうには、茶色の髪を簡素に結い上げた中年の女性が立っていた。その顔立ちは、オズワルドの若かりし頃を彷彿とさせるものがあった。
「上質な絹をお探しですか」女性が優しく声をかけてきた。
「はい、実はハートレイ城からの特別な依頼でして」ティムは丁寧な口調で答えた。
女性の表情がわずかに硬くなった。「城からですか?」
「ええ、新しい会計担当のティモシーと申します」彼は軽く頭を下げた。「今度の冬の祝宴用に、上質な青い絹を探しています」
「会計担当?」女性は興味を示した。「父…オズワルド・フリントの部署ですね」
ティムは微笑んだ。「そうです。フリント様の下で働かせていただいております。マーガレット様でいらっしゃいますね?」
彼女は驚いたように目を見開いた。「よくご存知で」
「フリント様のお話から想像しておりました」ティムは慎重に言葉を選んだ。
マーガレットは生地を整理しながら、一瞬迷うような表情を見せた。「父が…私の話をするのですか?」
「時々」ティムは穏やかに答えた。「特に、若い会計係が計算を間違えた時など『私の娘のマーガレットでさえ、十歳の頃にはこんな単純な計算は間違えなかった』とおっしゃいます」
マーガレットは小さく笑った。「それは確かに父らしい言い方です」
彼女は奥の棚から美しい青い絹を取り出し、カウンターに広げた。「こちらはいかがでしょう?ノースバリーから取り寄せた最高級品です」
ティムは布地に触れ、専門家のように光にかざして見た。「素晴らしい品質です。これで決めたいと思います」
商談が進む中、ティムは巧みに会話を続けた。彼は城での出来事や、領地の近況など、マーガレットが興味を持ちそうな話題を選んだ。やがて、店に他の客がいないことを確認すると、彼は本題に入った。
「実は、フリント様から直接お願いされたわけではないのですが…」ティムは少し声を落とした。「最近、彼は随分と疲れた様子で」
マーガレットの表情に心配の色が浮かんだ。「何かあったのですか?」
「年齢のせいもあるでしょうが、何か寂しさを抱えているように見えます」ティムは静かに言った。「特に、窓から市場の方角を眺める時は」
彼女は黙って聞き、ゆっくりと布地を畳み始めた。その指先が少し震えているのが見えた。
「父は頑固者です」彼女はようやく口を開いた。「自分が間違っていると認めることができない人なのです」
「お父上について、もう少しお聞かせいただけませんか?」ティムは丁寧に尋ねた。
マーガレットは深い溜息をついた。「私が職人のロレンツォと結婚すると決めた時、父は猛反対しました。『城の会計係としての家名を汚す』と」
「そして…」
「私たちは駆け落ちしました」彼女の目に懐かしさと痛みが混ざった表情が浮かんだ。「それから十年以上、父とはほとんど言葉を交わしていません」
店の奥から、明るい声が聞こえてきた。「お母さん、この包みどこに置けばいい?」
小柄で活発そうな少女が現れた。彼女の顔立ちはマーガレットに似ていたが、口元はオズワルドを彷彿とさせた。
「ローズ、そこに置いておきなさい」マーガレットは娘に言った後、ティムに向き直った。「私の娘です」
ローズは好奇心いっぱいの目でティムを見つめた。「城から来たの?おじいちゃんを知ってる?」
「もちろん、毎日一緒に働いているよ」ティムは少女に微笑みかけた。
「すごい!」ローズは目を輝かせた。「おじいちゃんはどんな人?怖い?優しい?」
「ローズ!」マーガレットは窘めたが、その声には厳しさがなかった。
「大丈夫ですよ」ティムはローズに向き直った。「おじいちゃんは厳しいけれど、とても賢い人だよ。そして…」彼は少し言葉を選んだ。「とても寂しそうだ」
「寂しいの?」ローズは不思議そうに首を傾げた。
「ああ」ティムは頷いた。「前も、市場の方を眺めながら『あの子は今頃何をしているだろうか』と呟いているのを聞いたんだ」
これは少し脚色された話だったが、オズワルドが窓辺で物思いにふけるのを見たのは事実だった。
マーガレットの目に涙が浮かんだ。「父が…そんなことを?」
「会ってみたい!」ローズは突然言った。「おじいちゃんに会いたい!」
「でも…」マーガレットは躊躇った。
「父は元気にしていますか?」彼女は遠い目をして改めて尋ねた。「あの頑固者は、まだ職人を見下しているのでしょうね」
ティムは誠実な表情で答えた。「お元気ですよ。ただ…年を取るにつれて、いくつかの考え方は変わってきているようです」
「本当ですか?」マーガレットは半信半疑だった。
「はい」ティムは確信を持って言った。「先日も、『商人の目を通して見る市場の動きは、時に城内の報告より正確だ』と言っていました」
マーガレットは思わず笑みを浮かべた。「それは…意外です」
「お会いになってみては?」ティムは提案した。「フリント様は決して言葉には出しませんが、家族を恋しく思っているようです」
マーガレットはしばらく黙って考え込んだ。ローズは期待に満ちた目で母親を見つめていた。
「考えてみます」彼女はようやく言った。「ただ…直接城に行くのは難しいかもしれません」
「もちろん」ティムは理解を示した。「他の方法も考えましょう」
彼は買い物を終え、店を出る準備をしながら言った。「ハートレイ城には、知る人の少ない秘密の通路があるんだ。冒険するには、とても面白い場所だよ」
ローズの目が輝いた。「秘密の通路?!」
「ローズ…」マーガレットは娘を制しようとしたが、その目には微かな希望の光が灯っていた。
「また伺います」ティムは丁寧に頭を下げた。「素晴らしい絹をありがとうございました」
店を出る時、彼はマーガレットが小さく頷くのを見た。種は蒔かれたのだ。あとは、それが芽を出すのを待つだけだった。
---
一週間後、ティムはある計画を実行に移した。彼は城の古い地下室から、長年使われていなかった小さな秘密の通路があることを知っていた。その通路は会計室の真下を通り、会計室の床下に小さな隙間があった。
「おじいちゃん、お話聞こえる?」
会計室で午後の仕事をしていたオズワルドは、床下から聞こえる小さな声に驚いた。
「誰だ?!」彼は立ち上がり、周囲を見回した。
「ここだよ、床の下!」声は続いた。「私、ローズ!」
オズワルドは震える足で床に近づき、確かに小さな隙間があることを発見した。そこから覗く小さな顔は、間違いなく彼の知らない、風の便りで聞いただけの孫娘だった。
「なんということだ...ローズ?どうやってそこに?」
「秘密の通路を見つけたの!」少女は嬉しそうに答えた。「おじいちゃんに会いたかったから、探検してたの」
オズワルドの目に涙が浮かんだ。「お前が...ローズなのか、まるで小さいの頃マーガレットのようじゃ」
その日から、オズワルドの態度に変化が現れ始めた。彼は毎日昼食後、「少し休憩する」と言って会計室を離れるようになった。その間、彼は秘密の通路で孫娘と会っていたのだ。ティムの計らいで、マーガレットもこの秘密の面会に協力していた。
---
一ヶ月後、会計室での会議中、オズワルドは突然立ち上がった。
「私は...考え直した」彼は静かに言った。「ティモシー君の提案する月次報告は、確かに理にかなっている」
会議室は一瞬静まり返った。オズワルドが若い者の提案を認めるなど、前代未聞の出来事だった。
「さらに」彼は続けた。「在庫管理の新しい手法も採用すべきだろう。彼ほどの才能は見たことがない」
会議の後、ティムがオズワルドに近づいた。
「急に意見が変わられたようで...」
「勘違いするな」オズワルドは厳しい口調を崩さなかったが、その目には以前のような敵意はなかった。「単に、理にかなった提案は受け入れるべきだと思っただけだ」
しかし、彼が立ち去る際に小さく呟いた言葉を、ティムは聞き逃さなかった。
「ローズが『おじいちゃんの仕事を手伝っているティムお兄ちゃんは、きっといい人だよ』と言っていたからな」
---
その週末、城の中庭では小さな茶会が開かれた。オズワルド夫妻、マーガレットとロレンツォ夫妻、そして孫娘のローズが公式に城に招かれたのだ。ウィリアムの配慮により、この和解の場が設けられた。
茶会の準備を見守りながら、ウィリアムはティムに言った。「どうやってオズワルドを説得した?」
「説得はしていません」ティムは微笑んだ。「ただ、彼に本当に必要なものが何かを見せただけです」
ウィリアムは賢明に頷いた。「時に、帳簿の数字より大切なものがあるということか」
「それこそが、最も価値ある資産なのかもしれません」ティムは答えた。
二ヶ月後、ハートレイ城の大広間は別の雰囲気に包まれていた。ウィリアムの前には、整然と整理された帳簿が並べられていた。
「これが半年後の予測収支です」ティムは自信を持って説明した。「南ルートの開拓により、輸送コストは15%削減されました。また、冬季備蓄の最適化によって、支出を10%削減しながらも、量を5%増やすことに成功しています」
ウィリアムは感心して資料に目を通した。「素晴らしい。これなら来年の冬も安心だ」
「さらに」ティムは続けた。「東の果樹園の拡大計画を提案します。初期投資は必要ですが、三年後には新たな収入源となるでしょう」
ウィリアムは頷いた。「理にかなっている。承認しよう」
この三ヶ月で、ティムは城内の信頼も勝ち取っていた。最初は「私生児が何をしているのか」と陰口を叩かれることもあったが、彼の真摯な態度と実績が、次第に周囲の見方を変えていった。
特に、古参の財務官であるオズワルドが、「彼ほどの才能は見たことがない」と公言したことが、大きな転機となった。
「もう一つ」ティムは少し躊躇いがちに言った。「お兄様個人のことで、提案があります」
「何だ?」ウィリアムは好奇心を持って尋ねた。
「お兄様の婚姻問題についてです」
ウィリアムの表情が曇った。彼は22歳になっていたが、まだ独身だった。父アーノルドは、隣国のノースバリー公爵家の娘との政略結婚を進めていたが、ウィリアムはその縁組に気が進まなかった。
「それは難しい問題だ」ウィリアムは溜息をついた。「父上は隣国との同盟強化のために、ノースバリー家との縁組を望んでいる。しかし…」
「エレノア・ブリムウッドのことをまだ想っておられるのですね」ティムは静かに言った。
ウィリアムは驚いた表情で顔を上げた。エレノア・ブリムウッドは彼の幼馴染で、かつては深い仲だった。しかし、彼女の家は没落した男爵家であり、政治的な価値は低いとされていた。
「よく知っているな」ウィリアムは苦笑した。
「城の噂話は耳に入りますし」ティムは微笑んだ。「それに、書斎に飾っているブリムウッド地方の風景画の前でよく物思いにふけっておられることも」
ウィリアムは赤面した。「それで、何か提案があるというのか?」
「はい」ティムは自信を持って答えた。「ブリムウッド家は現在、東側の森林地帯の管理権を持っています。その森は我々が計画している果樹園拡大に隣接しており、共同開発することで、両家にとって利益となります」
「つまり…」
「経済的な同盟関係を結び、それを基盤にした婚姻は、政略結婚であると同時に、お兄様の個人的な幸せにも繋がります」ティムは説明した。「ノースバリー公爵家との関係も維持しつつ、別の形での協力関係を提案できます」
ウィリアムは感心して頷いた。「それは…考えてもいなかった視点だ」
「すでにブリムウッド男爵とは予備交渉を行っています」ティムは付け加えた。「彼も協力に前向きです」
「勝手に交渉したのか?」ウィリアムは驚いたが、怒りではなく感心の色が強かった。
「失礼ながら、機会を見極める必要がありました」ティムは謝りながらも、自信を持って答えた。「ノースバリー家との交渉が本格化する前に、選択肢を確保しておきたかったのです」
ウィリアムは長い間、考え込んでいた。やがて彼は決心したように顔を上げた。
「父上を説得する手伝いをしてくれるか?」
「もちろん」ティムは力強く答えた。「すでに準備しています」
---
一週間後、アーノルドの私室で、重要な会談が行われていた。
「馬鹿な!」アーノルドは怒りをあらわにした。「ノースバリー家との縁組は長年の計画だぞ。それを今になって変えるとは!」
「父上」ウィリアムは冷静に答えた。「私も領地のことを考えています。ティム、説明してくれ」
ティムは一歩前に出て、準備していた資料を広げた。
「アーノルド様」彼は敬意を込めた口調で始めた。「ノースバリー家との同盟は重要です。しかし、現在の状況を分析すると、彼らの政治力は五年前と比べて弱まっています。一方、東部の資源開発は今後の成長の鍵となります」
彼は詳細な経済予測と、両家の協力によって生まれる利益の図表を示した。さらに、ノースバリー家に対する新たな協力提案も用意していた。
「これは単なる感情的な判断ではありません」ティムは真剣な表情で続けた。「領地の未来を見据えた戦略的判断です。エレノア・ブリムウッドは領地管理の経験も豊富で、ウィリアム様の良きパートナーとなるでしょう」
アーノルドは黙って資料に目を通した。彼はティムの才能を認めており、実際、彼を城に引き取ったのも、その才覚を見込んでのことだった。
「ノースバリー公爵の顔を立てる方法はあるのか?」彼はついに尋ねた。
「はい」ティムはすぐに答えた。「彼らが望んでいるのは、実質的には交易路の安全確保です。私たちが新たに開拓した南ルートを共有することで、彼らも利益を得られます。また、公爵の次男との貿易協定を結ぶことで、両家の関係も維持できるでしょう」
アーノルドは長い間、黙って考え込んでいた。やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
「よかろう」彼は渋々ながらも同意した。「だが、これがうまくいかなければ、責任は取ってもらうぞ」
「喜んで」ティムは頭を下げた。
会談が終わり、三人が部屋を出た後、アーノルドは側近バルトに話しかけた。
「あの小僧、ますます腕を上げたな」
「はい」バルトは同意した。「ウィリアム様も、彼を頼りにしていますね」
「血は水よりも薄いと言うが、あの二人は違うようだ」アーノルドは満足そうに微笑んだ。「私が心配していたことは、杞憂だったようだ」
---
半年後、ハートレイ城では盛大な婚礼の準備が進められていた。ウィリアムとエレノアの婚約は公式に発表され、両家の協力による東部開発計画も順調に進んでいた。さらに、ノースバリー家との新たな貿易協定も締結され、政治的な問題も巧みに解決されていた。
「これは全て君のおかげだ」
ウィリアムは城の塔の上から、準備に忙しい中庭を見下ろしながら、隣に立つティムに言った。
「いいえ、お兄様の決断があってこそです」ティムは答えた。
「いつまで『お兄様』と呼ぶつもりだ?」ウィリアムは振り返った。「もう公式に認めようと思う。ティモシー・ハートレイとして」
ティムは驚きの表情を隠せなかった。「城内の反発も予想されますよ」
「そんなことはない」ウィリアムは自信を持って言った。「お前の実力は既に証明されている。今朝も父上が『あの小僧を正式に認めるべきだ』と言っていたぞ」
「アーノルド様が?」
「ああ」ウィリアムは頷いた。「婚礼の後、正式な就任式を行おう。ハートレイ家の財務官として」
「私生児の出世としてこれ以上ないですね」
「一つだけ聞かせてくれ」ウィリアムは真剣な表情で尋ねた。「なぜそこまで私と家のために尽くす?生まれながらにして認められず、時に疎まれることもあったはずなのに」
ティムは少し考え、静かに答えた。「私は街で育ち、多くの旅人の話を聞いてきました。そこで学んだのは、血筋より大切なものがあるということです。信頼と忠誠です」
彼は遠くを見つめながら続けた。「お兄様は私を一度も見下したことがなく、常に公平に接してくださいました。それだけで十分な理由です」
二人は並んで立ち、夕日に染まるハートレイ領を見渡した。血で結ばれた絆よりも、時に強い絆があることを、二人は身をもって知っていた。