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信じる者は行動せよ


十年前。クロヴィス王国のアルビオン地方。


「お嬢様、このように免罪符を販売すれば、さらに多くの献金が集まるでしょう」


グラティアン大聖堂の長老司祭が、若きソフィアに向かって説明していた。彼の豪華な法衣には金糸が煌めき、宝石がちりばめられていた。


「しかし、司祭様」ソフィアは遠慮がちに言った。「聖典には『信仰こそが救済への道』とあります。罪の許しを金で買えるとするのは、教えに反するのではないでしょうか」


司祭は苦々しい表情を浮かべた。「ソフィア様。貴女はロートン男爵家の娘として、教会の繁栄を支える義務があるはずです。神学的議論は神学者に任せるべきです」


ソフィアは黙って頭を下げた。しかし、その青い瞳の奥には疑問の炎が燃え続けていた。


彼女は以降、「グラティアン教の原点に立ち返りたい」という理由でその後の数年間、クロヴィス王国の隅々まで、信仰の旅を続けた。彼女は豪華な馬車や従者たちを伴わず、一人の巡礼者として歩いた。


---


どこに行っても、彼女は同じ光景を目にした。

教皇庁の腐敗と堕落。貧しい者から搾り取られる献金。

神の名を借りて積み上げられる権力と富。


「これが本当のグラティアン教なのでしょうか……」

ある寒い夜、ソフィアは小さな村の礼拝堂で膝をつき、涙ながらに祈った。

「神が望まれたのは、こんな世界だったのでしょうか……」


そのとき、一人の少年が彼女に近づいてきた。

身なりは質素ながら整っており、その瞳は不思議な光を湛えていた。


「お嬢さん、何をそんなに沈んでいるんだい?」


普段のソフィアなら、決まりきった言葉で返しただろう。

だがこの夜だけは、自らの信仰を問い直すように、心の内を語った。


「……救いが見えないのです。祈っても、祈っても」


少年は嘲ることなく、静かに笑んで言った。


「祈りで腹は満たせない。ほとんどの人にとって、祈った明日もまた、同じ苦しみが続くだけさ」


ソフィアはそっと目を閉じた。そして答える。


「それでも、私たちは祈るのです。祈りとは、空からパンが降る奇跡を願うことではなく、飢えた者を見捨てない心を、自分の内に灯すこと。――私は、そう信じています」


「でも、あなたのような人がいる一方で、人を搾取し、暴力をふるい、不幸を広める者たちはなぜ罰を受けない?それでも神はいると?」


「その問いは、とても正直で、重い問いです」

ソフィアは静かに答えた。


「この世界に怒りを覚えるその心、それこそが、神の沈黙に抗う“声”ではないでしょうか」


「だとしたら、それは神がいない証拠だよ。祈りは美しい。だけどそれはいつも、弱者のものだ。苦しみは、苦しみを与える者によって“意味”を与えられてきた。あたかも神の罰であるように。でも、彼らは何も悪いことなんかしていない」


ソフィアは言葉を詰まらせた。

だが目をそらさず、少年に向き直る。


「……この世の苦しみの多くは、神の罰ではありません。それは人の手によって作られたもの。それなのに権力者たちは“神の意志”と称し、苦しむ人々にだけ“意味”を押しつけてきた。泣いても救われず、祈っても報われない現実があること。せめて、苦しむ者を“罰を受ける者”にしないために。……それが、私の信仰です」


「じゃあもし、神がいなかったら?信仰がなかったら、あなたはそんな行動をしなかったのかい?犬だって、目の前に飢えた犬がいたら、餌を分けるよ。犬に信仰心なんてない」


「……あなたの言う通りです。信仰がなくても、人は分け与え、寄り添い、涙を拭うことができる。本能かもしれないし、良心かもしれない。それだけで、人は神に頼らずとも、美しい行いができる。私も、そう思います。でも、私にとって信仰とは、その“犬のような優しさ”を忘れずにいるための約束なのです。神が見ていると信じることで、私はその優しさを守りたい。それが、私の祈りです」


「……誰かが誰かを信じる、その一瞬が、世界を世界たらしめている。それ以上、何が必要なんだ?意味のない苦しみ。説明のつかない悲劇。それがすべてだ。意味を求めるから、人は苦しむ。僕らは神に作られた存在じゃない。信仰に逃げるな。自分の行動の結果こそが、意味だ」


ソフィアはその言葉を受け止めながら、まるで神の声を聞いたかのように答えた。


「あなたの言葉は、剣のように鋭く、それでいて、人を救う炎のようでもあります。意味を見失っても、誰かを信じることはできる。神がいなくても、希望がなくても、自分の行動に責任を持てる。あなたは、祈らずに“信じている”。それは、私の祈りと同じくらい、いえ……それ以上に、尊い信仰です」


少年は一歩、礼拝堂の扉のほうへと歩いた。

ソフィアはそっと背を見送りながら、最後に願いを口にした。


「どうかあなたがその強さの中で、独りになりませんように」


それは少年に向けられた言葉だったのか、彼女の祈りだったのか誰にもわからなかった。


---


それからさらに長い月日が経った、巡礼の果てに、ソフィアは信じるに足る“行い”をこの身で示したいと願うようになった。そこで帝国へ向かうと決めた。


彼女はすでに真のグラティアン教の教えを実践する小さなグループを率いていた。


「帝国は新たな布教の地になるかもしれません」彼女は仲間たちに語った。「特に辺境の地域では、人々が精神的な導きを求めているはずです」


しかし、彼女が目にしたものは、布教どころではない現実だった。


帝国の植民地、スルタニア半島のマラティア地域。ソフィアと彼女の小さな一行は、最初の町に到着した時、その光景に言葉を失った。


鞭の音が空気を引き裂き、うめき声が通りに響く。鉄の首輪をつけられた現地人たちが、灼熱の太陽の下、鉱石や木材を運んでいた。彼らの背中には鞭の痕が生々しく残り、多くは栄養失調で骨と皮だけになっていた。


「神よ…」ソフィアは震える声でつぶやいた。


彼女たちが宿を取ったその夜、さらに恐ろしい話を耳にした。現地人の女性たちが帝国軍将校の「慰み者」として連れ去られること。抵抗した者は家族もろとも処刑されること。子供たちが親から引き離され、帝国への忠誠を教え込まれていること。


「信じられない…」ソフィアは絶句した。「どうして人は同じ人に対して、このような残虐な行為ができるのでしょう」


翌日、彼女は勇気を出して鉱山を訪れた。そこで目にしたものは、さらに彼女の魂を引き裂いた。


鉱山の底では、わずか六、七歳の子供たちが、大人が入れない狭い坑道に潜り込み、鉱石を掘り出していた。多くの子供たちの肌は有毒な鉱物で変色し、咳き込みながら働いていた。


「これ以上は命の危険があります」と医師が監督に進言すると、監督は冷酷に笑った。


「死んだら新しいのを連れてくればいい。原住民の子供など、ごまんといるからな」


昼食時、ソフィアは鉱山労働者たちに振る舞われる「食事」を見た。それは腐りかけた野菜と、虫の這う粥だった。


「これでは人間の食べ物ではありません」ソフィアが抗議すると、警備の兵士が彼女に向かって唾を吐いた。


「黙れ、女。奴らは人間じゃない。帝国の繁栄のための道具だ」


その日の夕方、ソフィアは町の広場で恐ろしい見世物に遭遇した。


「逃亡者の見せしめだ」地元の人が震える声で説明した。「毎週行われている」


広場の中央には、逃亡を試みた労働者が、柱に縛り付けられていた。帝国の役人が高々と宣言した。


「これが帝国の法に背く者の末路だ!」


その後、役人は緩慢に、計算された残酷さで、鞭を振るい始めた。一打ちごとに、観衆に強制的に集められた現地人たちに「帝国万歳」と唱えさせた。


血が飛び散り、悲鳴が上がるたびに、帝国の役人たちは葡萄酒を飲み、笑い声を上げた。子供たちまでこの光景を見るよう強制されていた。


「これが教育だ」上級役人が冷笑した。「抵抗は無駄だと教えてやるのさ」


ソフィアは震える膝で立ち尽くした。彼女の心に怒りと悲しみが渦巻いた。しかし、彼女一人では何もできない。


その夜、宿に戻った彼女の部屋を、一人の来訪者が訪れた。


「ソフィアですね」


ソフィアが驚いて振り返ると、そこには長い銀色の髪と、わずかに尖った耳を持つ美しい女性が立っていた。エルフだった。


「私はテオドラ・アルフィーナ。クロヴィス王国の外交官です」彼女は静かに言った。「あなたがこの地で何をしているかという評判を聞いています」


「見つけたのは地獄です」ソフィアは震える声で答えた。「どうして神はこのような残虐を許されるのでしょう」


テオドラはソフィアの近くに座り、静かに言った。「神が許しているのではなく、人間が行っているのです。そして、人間にしか止められません」


「でも私に何ができるというのです?」ソフィアは絶望的に言った。「帝国の力は絶大です」


テオドラの翡翠色の瞳が、月明かりの中で輝いた。「この体制を改革できるとすれば、ただ一人」


「誰です?」


「ティモシー・ハートレイ」テオドラは真剣な表情でソフィアを見た。「もし帝国を変えられるとしたら、彼しか考えられない」



アルフィーナ財団の旗が風揺れる中、ソフィアは記憶から現在に戻った。窓の外では、マラティアの街に朝日が昇っていた。


テオドラの人脈や財源の支援を受け、時に賄賂といった手も使い、影響力を築き上げてきた。


「テオドラ、あなたの言った通りになりました」彼女は静かにつぶやいた。


ドアがそっと開き、ティムが入ってきた。


「準備はよろしいですか、ソフィア様」彼は敬意を込めて尋ねた。「今度の式典では、アルフィーナ財団が中心的役割を果たします」


「私は準備ができています」ソフィアは立ち上がった。彼女の目には、かつての迷いはなかった。「しかし、これは始まりに過ぎません。そうすることが正しいと、私は信じている。それだけです」


ティムは静かに微笑んだ。「それこそが、共に目指す未来です」


窓の外では、自由を待ち望む人々の声が静かに広がっていた。新しい夜明けを前に、ソフィアは祈りを捧げた。

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