アイリス王女の晩餐会
王都は華やかな装飾で彩られ、アイリス王女の誕生祭の賑わいで溢れていた。教会広場では民衆向けの祝賀行事が行われ、貴族たちは王宮での晩餐会に備えていた。
そんな中、王都の裏路地にある小さな酒場で、ジュリアンは人目を避けるように静かに腰掛けていた。教会の司教補として知られる彼がこのような場所にいることは、それだけで噂の種になりかねない。しかし今日の密会は彼の「もう一つの仕事」には欠かせなかった。
「お待たせ、神父様」
軽やかな足取りでテーブルに近づいてきたのは、ティムだった。彼の金髪はやや長く、整えられた顔立ちと相まって貴族の血を感じさせるが、その振る舞いには辺境育ちの荒々しさが見え隠れしていた。
「声を低くしろ、ティム」ジュリアンは周囲を警戒しながら言った。「ここでは名前で呼べ」
「そう堅苦しくなさるな、ジュリアン」ティムは人目を気にせず椅子に腰を下ろした。「王都は今、お祭り騒ぎだ。誰も我々など気にしていないさ」
「確証はない」ジュリアンは冷静に答えた。「それで、例の文書は?」
「あぁ、それね」ティムはふっと笑みを浮かべた。「王国北部の教会が集めている税の流れが記された帳簿だ。見事に入手したよ」
彼はそう言いながら、上着の内ポケットから折りたたまれた羊皮紙を取り出した。ジュリアンはそれを受け取り、素早く目を通した。
「これは...」ジュリアンの表情が変わった。「この記録によれば、集められた寄付金の半分以上が教会本部に届いていない」
「そういうことだ」ティムは小声で言った。「君が追っていた不正の証拠になるだろう」
ジュリアンは黙って頷いた。
「礼を言う」ジュリアンは羊皮紙を自分の聖典の間に挟み込みながら言った。
「礼というなら...」ティムは人差し指を立てて、小悪魔のような笑みを浮かべた。「そういえば、一つ聞きたいことがあったんだ」
「何だ?」
「アイリス王女の誕生祭だからさ」ティムは身を乗り出してきた。「彼女への贈り物は用意したよね?約束したじゃないか」
ジュリアンの動きが一瞬止まった。
「約束?」
「ほら、前回会った時に言っていただろう?」ティムの声は意図的に大きくなった。「『次に会う時には、特別な贈り物を用意しておく』って」
ジュリアンの頭の中で記憶を必死に探った。そんな約束をした覚えはない。しかし、ティムの表情は確信に満ちている。
「ああ、その...」ジュリアンは咳払いをして時間を稼いだ。教会内での立場を利用して情報を集める彼にとって、協力者との約束を破ることは致命的だった。しかも、この場で素直に忘れていたと認めれば、彼の「完璧な司教補」というイメージにも傷がつく。
「まさか忘れていたわけじゃないよね?」ティムの目が楽しげに輝いていた。「あれほど熱心に『必ず用意する』と誓ったのに」
ジュリアンは静かに深呼吸をした。感情を見せないよう努めながらも、頭の中は混乱していた。
「もちろん、忘れてはいない」彼はゆっくりと答えた。「ただ...」
「ただ?」ティムは首を傾げた。その仕草には、明らかに楽しんでいる様子が見て取れた。
「場所を変えよう」ジュリアンは立ち上がった。「王女への贈り物は、こんな場所で渡せるものではない」
「おや?」ティムの眉が上がった。「そんなに特別なものなのか?」
ジュリアンは無言で酒場を出た。ティムもにやにやしながら彼の後を追う。
二人が王都の小さな広場に出ると、ジュリアンは立ち止まった。周囲には誕生祭を楽しむ人々がいるが、二人の会話に耳を傾ける者はいない。
「実を言うと」ジュリアンは静かに言った。「贈り物はまだ手元にない」
「やっぱり!」ティムは小さく手を叩いた。「覚えていなかったんだろう?」
ジュリアンは沈黙した後、ため息をついた。
「...約束した覚えがない」
「あはは!」ティムは大きく笑い出した。「その通り!約束なんてしていないよ。ただ、いつも完璧なジュリアン・ヴァレンタインがどんな顔をするか見たかっただけさ」
ジュリアンは目を細めた。「遊びのつもりか?」
「少しは感情を見せた方がいい」ティムは肩をすくめた。「いつも冷静沈着で感情を隠しているから、周囲は君を疑いの目で見る。それが君の調査の妨げになることもあるだろう?」
ジュリアンは言葉に詰まった。ティムの言うことには一理あった。彼の「完璧すぎる」振る舞いが、逆に不信感を生むこともあったのだ。
「それに」ティムは真面目な表情になった。「君がそんなに緊張していては、今夜の王宮晩餐会で目立ってしまう。少しリラックスした方がいい」
「晩餐会?」ジュリアンは驚いた。「なぜ私がそこへ?」
「おっと」ティムは口元に指を当てた。「それが本当の目的だった。大司教があなたの出席を望んでいる。今夜、王女に祝福を与えるのは若き司教補、ジュリアン・ヴァレンタインだ」
ジュリアンの表情が硬くなった。予想外の展開だったが、これは彼の調査にとって絶好の機会でもあった。
「そういうことなら」ジュリアンは姿勢を正した。「準備をしなければ」
「そうだね」ティムはにっこり笑った。「そして今度は本当に、王女への贈り物が必要だよ。何か用意できる?」
ジュリアンは思案した後、静かに答えた。
「王女に相応しい贈り物とは何か...教会の蔵書室に戻れば、古の祝福の言葉が記された書物がある。それを引用して、特別な祝福の詩を贈ろう」
「さすがジュリアン」ティムは頷いた。「だが、もう一つ提案がある」
「何だ?」
「その祝福の言葉に」ティムはジュリアンの肩に手を置いた。「少しだけ、君自身の言葉も添えてみてはどうだ?完璧な引用ではなく、心のこもった一言を」
ジュリアンは黙って考え込んだ。彼にとって「自分自身の言葉」を出すことは、長い間避けてきたことだった。常に教義に従い、先人の言葉を借りることで、自分の本心を隠してきたのだから。
「...考えておこう」
ティムは満足げに笑った。「それじゃ、晩餐会で会おう。僕も招待されているんだ」
「君が?」ジュリアンは驚いた。
「驚くな」ティムはウインクした。「僕にも色々なコネがあるんだよ」
そう言って、ティムは人混みの中へと消えていった。
ジュリアンはその場に立ち尽くしたまま、久しぶりに感じる困惑と、微かな期待が胸の中で入り混じるのを感じていた。
王宮の大広間は、煌びやかな装飾と蝋燭の明かりで満ちていた。絹の衣装を纏った貴族たちが集い、楽団の奏でる優雅な音楽が響く中、ジュリアンは白と金の教会正装に身を包み、静かに立っていた。
「思ったより緊張しているみたいだね」
背後から声をかけてきたのはティムだった。深紅の高級な上着を着こなし、髪も整えられ、普段のワイルドさは影を潜めている。見れば、多くの貴婦人たちが彼に視線を送っていた。
「緊張などしていない」ジュリアンは小声で答えた。「ただ状況を観察しているだけだ」
「そう?」ティムは微笑んだ。「それにしては、その祝福の詩を何度も確認しているようだが」
ジュリアンの手元には、丁寧に巻かれた羊皮紙があった。彼は思わず紙を握りしめ、顔を僅かに赤らめた。
「準備を怠るわけにはいかない」
「もちろん」ティムは肩をすくめた。「ところで、大臣たちの様子をご覧よ。まるで猛獣の群れみたいだ」
部屋の向こう側では、王国の高官たちが小さな集団を作り、頻繁に視線を交わしていた。表面上は穏やかに会話しているように見えるが、その目には野心と計算が宿っている。
「彼らにとって、王女の誕生祭も単なる政治の場だ」ジュリアンは静かに言った。
「そして我々も同じ」ティムは小声で付け加えた。「違うのは、我々には王国を良くしようという理想があることだ」
ジュリアンは黙って頷いた。
突然、部屋の空気が変わった。侍従長の高らかな声が響き、全員の視線が大広間の入口に集まる。
「アイリス・ド・ラ・クルス第一王女殿下のご入場です」
音楽が華やかさを増し、人々が道を開けると、そこにはアイリス王女の姿があった。
彼女は薄い青に銀の刺繍が施された優雅なドレスを身に纏い、髪には小さな宝石をあしらった冠を乗せていた。その姿は高貴で気品に満ち、部屋中の視線を集めていた。
「まさに王女様だな」ティムは感嘆の声を漏らした。「見事な演技だ」
「演技?」ジュリアンは小声で尋ねた。
「ああ」ティムは頷いた。「ここにいる連中はあの穏やかな微笑みの裏に、鋭い観察眼が隠れていることは知らないだろう。彼女は今、部屋中の権力関係を把握しているだろう」
ジュリアンは改めてアイリスを見つめた。確かに、彼女の目は優雅に部屋を見回しながらも、一瞬一瞬に重要な情報を拾い集めているように見えた。
宮廷の儀式が進み、祝辞と贈り物の時間が近づいてきた。ティムはジュリアンの背中を軽く叩いた。
「そろそろだよ。緊張してる?」
「何度も言うが、緊張などしていない」ジュリアンは繰り返したが、声に僅かな震えがあった。
「君の祝福は儀式の締めくくりだ」ティムは真剣な表情で続けた。「教会の代表として、王女に神の祝福を与える—これは単なる儀式ではなく、政治的な意味合いも持つ。王と教会の関係を象徴する行為なんだ」
「わかっている」ジュリアンは静かに答えた。彼は改めて自分の立場の重さを感じていた。表向きは教会の忠実な代表者として振る舞いながらも、内心では教会と王国の腐敗に対する反感を抱えている彼にとって、この儀式は複雑な感情を呼び起こすものだった。
式典は滞りなく進み、各国の代表や貴族たちが次々とアイリスに豪華な贈り物を捧げた。金細工の装飾品、希少な本、美しい布地—どれも形ばかりの贈り物であり、実際には政治的な駆け引きの道具に過ぎないことをジュリアンは冷ややかに観察していた。
そして、ついに彼の番が訪れた。
「教会を代表し、ジュリアン・ヴァレンタイン司教補が王女殿下に祝福を贈ります」
侍従長の声に促され、ジュリアンは前に進み出た。広間に静寂が流れる中、彼はアイリスの前に膝をつき、頭を下げた。
「アイリス・ド・ラ・クルス王女殿下」ジュリアンの声は澄んでいた。「本日の御誕生日を、教会と神に代わってお祝い申し上げます」
彼は羊皮紙を広げ、古の祝福の言葉を朗読し始めた。その言葉は厳かで美しく、広間に響き渡った。しかし、朗読を終えようとした瞬間、彼は一瞬躊躇した。
ティムの言葉が頭をよぎる—「君自身の言葉も添えてみては?」
ジュリアンは顔を上げ、初めてアイリスの目をまっすぐに見た。彼女の瞳には、表向きの穏やかさの奥に、鋭い知性と複雑な感情が宿っているのが見て取れた。
彼は静かに続けた。「殿下、これは古の祝福の言葉ですが、私からも一言添えさせていただきたい」
広間に小さなざわめきが起こった。教会の儀式で個人的な言葉を加えることは異例のことだった。
「あなたの聡明さと優しさが、この王国に新しい光をもたらしますように。そして、あなたの目に映る世界が、いつか現実となりますように」
その言葉には表面的には単なる祝福に聞こえるが、アイリスが抱く改革への願いを密かに支持する意味が込められていた。
アイリスの目が僅かに見開かれた。彼女は静かに微笑み、優雅に頷いた。
「ジュリアン司教補、心のこもった祝福の言葉、ありがとう」彼女の声は柔らかかったが、その目には理解の色が浮かんでいた。「あなたの言葉を胸に刻みます」
儀式は滞りなく続き、やがて公式な部分が終わると、参加者たちは自由に交流し始めた。ジュリアンは人混みから少し離れたところに立ち、静かに深呼吸をしていた。
「見事だったよ」ティムが横に現れた。「特に最後の言葉は予想外だった」
「助言に従ったまでだ」ジュリアンは平静を装った。
「まさか本当に従うとは思わなかったけどね」ティムは笑った。「王女様の反応も見事だった。彼女は理解したようだ」
「何を?」
「君が単なる教会の操り人形ではないということを」ティムは答えた。「そして、それは彼女にとって重要な情報だ」
ジュリアンが返答しようとした時、周囲の人々が静かになり、道を開けた。アイリス王女が二人に近づいてきたのだ。
「ジュリアン司教補、ティム・ハートレイ卿」彼女は優雅に頭を下げた。「二人とも少しお話しできますか?」
ティムは優雅にお辞儀をした。「光栄です、殿下」
「もちろんです」ジュリアンも同様に応じた。
アイリスは二人を窓辺の少し人目につかない場所へと導いた。そこで彼女は周囲を確認すると、声のトーンをわずかに変えた。より実務的で、計算高い響きに。
「お二人のご支援に感謝します」彼女は静かに言った。「特にジュリアン司教補、あなたの祝福の言葉には深く感動しました」
「恐縮です」ジュリアンは答えた。
「特に最後の部分が」彼女の目が鋭さを増した。「あなたが思っている以上に、私の目に映る世界は複雑ですよ」
ジュリアンは黙って頷いた。アイリスは彼の真意を理解していた。
「ティム卿」アイリスは視線を移した。「北部からの報告はいかがですか?」
「予想通りです、殿下」ティムは軽く答えた。「詳細はまた別の機会に」
「そうですね」アイリスは同意した。「それでは、教会の調査は?」
「進行中です」ジュリアンは慎重に答えた。「いくつかの…不規則な点が見つかっています」
「そう」アイリスは静かに頷いた。「お二人とも、王国のために尽力してくださっていることを知っています。私も同じ目標を持っています」
彼女は一瞬、公式の笑顔を降ろし、真剣な表情を見せた。「この王国には変革が必要です。古い偏見と腐敗を取り除き、すべての人々—人間も魔族も—が平等に扱われる世界を」
その言葉にジュリアンは驚きを隠せなかった。王女自身がそこまで踏み込んだ発言をするとは予想していなかったのだ。
「殿下」ジュリアンは慎重に言葉を選んだ。「そのような世界の実現には、多くの障害があります」
「わかっています」彼女は静かに答えた。「だからこそ、信頼できる協力者が必要なのです」
アイリスは急に表情を和らげ、再び公の場での優雅な王女に戻った。「さて、そろそろ他の客人たちとも話さねばなりません。お二人とも、今夜はありがとう」
彼女が去った後、ジュリアンとティムは無言で見つめ合った。
「王女は我々の味方だ」ティムが小声で言った。「少なくとも今は」
「彼女には彼女の思惑がある」ジュリアンは静かに答えた。「我々を利用しているだけかもしれない」
「それは互いにだ」ティムは肩をすくめた。「政治とはそういうものだよ」
ジュリアンは窓の外、王都の夜景を見つめた。教会、貴族、王族—それぞれが異なる利害を持ち、複雑に絡み合う中で、彼の進むべき道はますます不確かに思えた。しかし、アイリスの言葉には確かな希望も感じられた。
「今日はいい誕生日の贈り物になったと思う」ティムはグラスを掲げた。「王女に希望を、そして君には新たな同盟者をね」
ジュリアンは静かに頷いた。思いがけず、この誕生祭は彼の密かな使命にとって重要な転機となったのだ。