それぞれの思惑
「この冒涜的な書物を書いた黒羊という者を必ず見つけ出し、処罰せねばならぬ!」アルベルト王子は拳を机に叩きつけた。彼の顔は怒りで赤く染まり、額の青筋が浮き出ていた。「全ての印刷所をしらみつぶしに調べ上げ、この本を見つけ次第、焼き尽くせ!」
薄暗い宮殿の一室で、アルベルト王子と枢機卿は向かい合っていた。窓から射し込むが日差しが二人の間に長い影を落としている。
デモリダス枢機卿は静かに王子の怒りを見つめていた。彼の表情は穏やかだったが、その目には計算高い光が宿っていた。
「殿下」枢機卿は慎重に言葉を選びながら口を開いた。「お気持ちはよく分かります。しかし、そのような強硬手段は取るべきではありません」
「何だと?」王子は目を見開いた。「この本が民衆に与える影響を考えたことがあるのか?魔族を神の被造物として同等に扱うなど、我が国の根幹を揺るがす思想ではないか!」
枢機卿はゆっくりと立ち上がり、手を組んだ。「まさにその通りです。しかし、殿下。強制的に本を焼き払えば、それはかえって民衆の好奇心を煽ることになりましょう」
王子は眉をひそめた。「どういう意味だ?」
「禁じられた果実ほど甘いものはありません」枢機卿は部屋をゆっくりと歩きながら説明した。「公の場で本を焼けば、その内容が何であれ、民衆は知りたがるものです。密かに写本が作られ、地下に潜って広まる。そうなれば、もはや私たちの手の届かないところで思想が広がることになります」
アルベルト王子は苛立ちを隠せずに窓辺に歩み寄った。「では、何もせずに見過ごせというのか?」
「いいえ」枢機卿は王子の背後に立ち、柔らかな声で続けた。「より巧妙な方法があります。この『黒羊』の主張を公の場で論破するのです。彼らの主張が誤りであると理性的に証明し、民衆の前で恥をかかせる。そうすれば、本の内容も自然と信用を失います」
王子は振り返り、枢機卿の目を見つめた。「論破?そいつがわざわざ我々の前に正体を現し、罠とわかっている討論の場に参加すると本気で思っているのか?」
「黒羊自身を召喚する必要はないのです。民衆は感情で動きます。殿下が激怒され、本を焼けば、彼らは『王は何か隠している』と考えるでしょう。しかし、冷静に議論をし、著者の無知を暴けば、民衆はそれを見て『なるほど、この本は間違っている』と納得するのです」
王子は唇を噛んだ。「だが…」
「目下、黒羊は街の者に探させています」枢機卿は声をさらに低くした。「さらに、これは王女派を一掃する絶好の機会でもあります。この本の支持者たちが誰であるかを探り、彼らを一網打尽にすることができます。強引な弾圧では、彼らはただ地下に潜るだけです」
王子は枢機卿の言葉を少しずつ受け入れ始めているようだった。しかし、その目には依然として怒りの炎が燃えていた。
「王子殿下」枢機卿は王子の肩に手を置いた。「どうか私にお任せください。この『黒羊』の正体を突き止め、適切な時に適切な方法で対処します」
アルベルト王子は長い沈黙の後、重々しくうなずいた。「よかろう。だが結果が見えなければ、私の方法でこの問題を解決する」
「わかりました」枢機卿は深く頭を下げた。その表情には、勝利の微笑みがうっすらと浮かんでいた。
王子が部屋を出ていくと、枢機卿は窓辺に立ち、遠くに見える劇場の屋根を眺めた。そこには何か特別な意味があるように思えた。
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ウィリアムの城館、書斎。暖炉の炎が三人の影を壁に揺らめかせていた。
「とんでもないことになっているぞ」ウィリアムは手元の報告書を振りながら言った。
彼の顔には憂いの色が濃く、普段の穏やかさが影を潜めていた。「『隠された虐殺』が教皇庁の目に留まったらしい。真実だとしたらデモリダス枢機卿の立場が危うくなるな」
司教補ジュリアンは緊張した面持ちで頷いた。
「アルベルト王子も激怒していると聞く。聖地奪還失敗の本のほうだ」
部屋の隅でワインを傾けていたティムが、にやりと笑った。
「まったく、教皇庁も王家も大袈裟なことです。一冊の本が何を成しえると?」ティムは肩をすくめた。「民衆はただ面白おかしく読んでいるだけでしょう」
ウィリアムは真剣な表情で言った。「この本は単なる娯楽ではない。王権神授説の否定など、王家に対する反逆とみなされても不思議ではない」
ジュリアンは静かに言葉を重ねた。「しかも、この『黒羊』という著者は、聖地奪還遠征の真実をあまりにも詳しく描写している。あの遠征での王家の失態や、教皇庁の打算…内部の人間しか知らないような情報だ」
その言葉にティムはワイングラスを口元からゆっくりと下ろした。
ジュリアンはティムをじっと見つめた。その目には「もしや」という疑惑の色が浮かんでいた。しばらくの間、二人の視線がぶつかり合う。
ジュリアンはゆっくりと言った。「あまりにも鋭すぎる観察眼だ。一体どうやって情報を仕入れたのか」
ティムは微笑みを崩さずに肩をすくめた。「噂というものは驚くほど早く広まるものです。誰かが酒場で酔って話したのかもしれません」
ウィリアムは深いため息をついた。「いずれにせよ、この本の広がりを止めることはできない。教皇庁も王家も、民衆の心に火がついたことを理解していない」
「そうですね」ティムは立ち上がり、グラスにワインを注いだ。外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。「民衆はただ真実を求めているだけです。王家や教皇庁が隠そうとすればするほど、彼らの疑念は深まる」
ジュリアンはティムの背中を見つめながら静かに言った。「真実というものは、時に危険だ。それを伝える者も、危険な立場に立たされる」
ティムは振り返り、いつものように軽薄な笑みを浮かべた。
「危険?まあ、人生とはそういうものでしょう。彼もそれを理解しているはずですよ」
ティムは黒羊の冊子を持って言った。
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王宮の西翼、アイリス王女の私室。その装飾は豪華さよりも知性を感じさせるもので、壁には美しい地図や星座図が掛けられ、書物が整然と並んでいた。
アイリス王女は窓辺に立ち、広大な夜の街を見下ろしていた。彼女の横顔は月光に照らされ、冷たい美しさを湛えていた。長い金髪は肩に流れ、青い瞳は何かを見定めるように遠くを見つめていた。
「街は騒がしいわね」アイリスは窓から視線を外さず、静かに言った。
部屋の奥から、優雅な足取りで近づいてくる影があった。エルフの女性テオドラ。
彼女はアイリス王女の非公式の側近として、王女の最も信頼する相談役であり、守護者でもあった。テオドラの長い髪は月明かりに輝き、鋭い耳が特徴的だった。
「『隠された虐殺』の影響です」テオドラは王女の隣に立ち、共に窓の外を見つめた。「街のあちこちで本の内容について議論が交わされています。特に魔族に関する部分は、多くの人々の心を揺さぶっているようです」
アイリスは微かに微笑んだ。「そう。アルベルト兄上は激怒しているでしょうね」
「激怒を通り越して、パニックに近い状態だと聞いています」テオドラは冷静に報告した。「デモリダス枢機卿と密談まで行ったようです」
アイリスは振り返り、テオドラの目を見つめた。彼女の表情には計算高い知性が浮かんでいた。
「この『黒羊』という者は、私たちの味方なのかしら?それとも単なる偶然?」
テオドラは慎重に言葉を選びながら答えた。「確かなことは言えませんが、書かれている内容は…私たちの思惑と一致しています。特に聖地奪還遠征の真実と、アルベルト王子の失態の描写は」
アイリスは小さなテーブルに向かい、そこに置かれた『隠された虐殺』の写本を手に取った。
「この本が広まれば、兄上の即位はさらに厳しくなるわ」彼女はページをめくりながら言った。「父上の病状が悪化している今、王位継承の問題は刻一刻と現実味を帯びている。この混乱は私たちにとって有利に働くかもしれない」
テオドラはアイリスの背後に立ち、低い声で言った。「アルベルト王子が王位に就けば、エルフや魔族に対する弾圧はさらに激しくなるでしょう。彼の偏見は根深い」
「そして私の秘密も危険に晒される」アイリスは本を閉じ、テオドラを見つめた。「兄上が私の母の血筋を知ったら…」
「決して知られてはなりません」テオドラの目に強い決意の色が浮かんだ。「あなたこそがこの国を正しい方向に導ける唯一の人物です」
アイリスは深呼吸をし、再び窓辺に歩み寄った。「この『黒羊』という者が誰であれ、私たちは彼を守らなければならない。デモリダスの探索の手が及ぶ前に…」
「その危険は彼も承知の上です」テオドラは静かに言った。「それに…」
テオドラの言葉が途切れたとき、部屋の扉が静かにノックされた。アイリスとテオドラは一瞬視線を交わし、アイリスがうなずいた。
「入りなさい」
扉が開き、王女付きの侍女が頭を下げた。「姫様、デモリダス枢機卿がお見えになっています」
アイリスの表情が固まった。彼女は一瞬だけテオドラを見たが、すぐに冷静さを取り戻した。
「わかりました。応接間に通して」
侍女が下がると、アイリスはテオドラの方を向いた。
「思ったより早く動き始めたようね」アイリスは静かに言った。「枢機卿は私たちの動きを探っているかもしれない」
テオドラは深く頭を下げた。「私は影のように姫様をお守りします。どうか枢機卿の前では…」
「もちろん」アイリスは微笑んだ。「従順な王女を演じるわ。それが今は最も賢明な道なのだから」
二人は静かに目を交わし、アイリスは枢機卿との会見に向かって部屋を出ていった。




