ソラリス・ドッグフード
SFホラー短編です。
12分くらいで読めると思います。
工場の正門をくぐった瞬間、比良坂は薄暗い曇り空を仰いで溜息をついた。都心から離れた郊外のこの土地は、なぜかいつも空がどんよりしている。車を降りてから数十m歩いただけなのに、革靴の先には早くも細かい泥がつきはじめた。それでも彼女はスーツの裾に付いた汚れを払いながら、慣れた手つきで工場の受付へと向かった。
「本日付でこちらの研究員として参加します、比良坂と申します。よろしくお願いします」
挨拶を受け取った受付の女性は、迷いなく奥のドアを開けて彼女を通す。薄暗い照明が吊るされたロビーを抜けると、右手奥に並ぶ無機質な扉が目に入った。そこには《ソラリス・ドッグフード株式会社 研究開発部》と書かれたプレートが貼ってある。ドッグフードの研究開発──このフレーズ自体、比良坂にはまだ現実味がなかった。
というのも、彼女は犬が大の苦手なのだ。幼少期に祖父母の家で大型犬に追いかけ回された記憶がトラウマになり、いまでも犬の姿を見ると心拍数が上がる。だからこそ、ふとしたきっかけで募集を見かけたときは「どうして私が?」と思った。しかし仕事に困っていたわけではないが、得体の知れない吸引力があったのも事実だ。研究内容の詳細は不明ながら、「オーガニック素材を用いた新型ドッグフードの開発」という一文に、どこか惹かれるものがあった。
扉を開けると、試験管や培養機材がずらりと並ぶ実験室が広がっている。白衣をまとったスタッフが数人、何やらデータを見ながら談笑していた。彼らは比良坂の姿を認めると、にこやかに挨拶してくれた。
「本日から配属の比良坂さんだよね? 俺、開発主任の本郷。よく来てくれたね」
髪を後ろで束ねた中年の男性・本郷が、にこりと微笑む。研究職というより体育会系のノリに近い表情だったが、不思議と嫌な感じはしない。比良坂は僅かな安心感を覚えながら、周囲に目をやった。
「ここがメインの研究室です。僕らは今、ソラリス・ビーンズっていう特殊な植物を使ったドッグフードを開発中なんだ」
「ソラリス・ビーンズ……ですか」
「珍しい名前だろう? アフリカの密林地帯で発見されたって話だ。まぁ正直、詳しい事は知らされてないんだけどね。なんでも会社が極秘輸入してるらしくて、契約上あまり突っ込めなくてね。まぁ俺らは成分分析と配合データを扱うだけさ。データ屋さん、でしょ?」
本郷の語る“海外の密林地帯”というフレーズに、比良坂はぼんやりとした不安を覚えた。しかし同時に、好奇心がむくむくと湧いてくる。研究者として、新しい素材を扱うのは胸が踊るものだ。
「じゃあ早速だけど、比良坂さんには新レシピの調合を手伝ってもらおうかな。犬用にしては栄養価がさ……」
本郷は顔を寄せて来た。
周囲に目を配るのは、聞かれてはマズいことなのであろう。
「栄養価がね、突出しちゃってるのよ。でね、配合比率を何度も試して調整しなきゃいけないんだよ。ホラ、商売でしょ?」
比良坂は本郷の過剰な笑顔が気味悪く思えた。
「わかりました。よろしくお願いします」
比良坂は新しい職場になじむためにそう答え、さっそく白衣を身にまとった。目の前に並べられたのは、粉末状のソラリス・ビーンズと数種類の穀物や肉粉末をブレンドするための試薬セット。マスクを着け、計量スプーンで慎重に分量を測りながら混ぜ合わせる。ふと、彼女はソラリス・ビーンズの封を切った途端に独特の香りを感じた。土のような、しかし花の蜜のような甘さもある、得も言われぬ匂いだ。それをわずかに吸い込んだ瞬間、頭がスーッとクリアになるのがわかった。
(不思議な匂い……甘くて懐かしい)
犬が苦手であるにもかかわらず、この原料の香りにはどこか惹きつけられるものがある。比良坂はそう思ったが、本郷に心配されるのも嫌で、何も言わずに黙々と作業を続けた。
その日の午後、比良坂は早速“製品モニター”として飼育されている犬たちの檻を見学することになった。工場の敷地内には広い飼育スペースがあり、十数匹の雑種犬や大型犬が飼育されているという。もちろん比良坂にとっては苦手な場所だ。しかし研究員の仕事として避けては通れない。
「ここがうちのドッグエリア。まぁ見てのとおり、雑然としてるけど……犬の数が思ったより増えちゃってさ」
案内役の女性スタッフ・石動が檻を示しながら説明する。檻の中の犬は一見、ごく普通に見えた。雑種や柴犬、レトリバーらしき姿まで、バラエティは豊かだ。その中にはロボット掃除機を見るかのように、無表情な瞳でこちらを見つめる犬もいる。比良坂は少し身をすくめたが、石動は「大丈夫、ここからは出られないから」と笑った。
「でもね、夜になると少し奇妙なのよ」
「奇妙……?」
「うん。夜勤のスタッフによると、犬たちが壁に向かって座ったまま吠えもしないし動きもしないんだって。まるで乙女が遠い星に思いを馳せるみたいに、ずっと一点を見つめているらしいの。朝になると普通に戻るから、まぁ、何かの疲れやストレスかもね、と話してたんだけど。ドッグフードが原因なら大問題だけどね……ま、きっと閉鎖空間と犬種が多すぎるから秩序やいじめも発生してるんでしょうね」
石動はそう言って首を傾げた。比良坂は引きつりそうになる表情をなんとか抑え込みながら、恐る恐る犬たちを見回す。すると、一匹の黒い犬が彼女と目を合わせた。まるで人間のような深い視線に、比良坂の心拍数が上がる。小刻みに震えそうになる指先をギュッと握り、どうにか落ち着こうとした。
(犬の瞳って、こんなに黒々としていたっけ……?)
黒い犬はそのまま壁に背を向け、やがて檻の奥で丸くなる。比良坂は胸をなでおろしつつも、妙な既視感のようなものを抱えていた。
翌日から、本格的にソラリス・ビーンズを使ったドッグフードの調合が始まった。配合率や加熱時間、加水量など、細かい変数を無数に調整し、最終的に数種類の試作品を用意。犬たちに与えて行動観察をするのが主な業務だ。研究データは多岐にわたるが、驚いたことに、犬たちはどのサンプルも食いつきが良く、食欲不振になる個体は一匹もいなかった。
「いい調子じゃないか? これだけ犬が好むなら、大量生産に耐えうるかもしれないな」
本郷が腕を組んで陽気に言う。しかし比良坂は心の中で引っかかる。こんなにスムーズに進んでいいのだろうか、と。
「先輩、ソラリス・ビーンズの産地って、本当に秘匿されてるんですか? 成分を調べればもっと栽培方法や保存方法がわかるんじゃ……」
「いやぁ、俺も上から口止めされててね。もともと海外の一部族が使っていた薬草という話を聞いたけど、詳しいことは聞いちゃいないさ。得体が知れないよな? 知りたいほな? まぁそうかもしれんが……会社が儲かるならいいんじゃない?」
本郷はまったく悪びれた様子もなく笑う。その笑顔が、妙に人間味が薄いように見えてしまうのは比良坂の気のせいだろうか。それとも彼が研究者というより“利益重視のビジネスマン”だからか。
そんなある夜、比良坂は飼育エリアの様子を観察するため残業していた。人気のなくなった工場の廊下を歩いていると、犬の唸る声が響いてくる。昼の騒がしさとは違い、不気味な静けさが辺りを包んでいる。彼女は恐る恐る飼育エリアを覗き込んだ。
檻の中の犬たちは、まるで彫刻のようにピタリと停止していた。誰も吠えず、動きもしない。檻の扉のそばにいる大型の犬だけが、壁の方をじっと見つめている。いや、見つめているというより、“何かを祈っている”ようにも見える。首をわずかに傾げ、前足を地面につけた姿勢は、まるで礼拝でも捧げているかのようだ。
(いったい何をしているの?)
比良坂は寒気を覚えながらも、思わず足を踏み入れてしまう。すると今度は檻の奥から、何かが鳴くような声が聞こえてきた。犬の鳴き声かと思ったが、それは明らかに人間の言語に近い響きだった。低いうなり声が徐々に抑揚を帯び、“…タ…ス、ケ…”という断片的な音声のように聞こえた。
(空耳に決まってる。そんなはず……)
だが空耳にしてはリアルすぎる。比良坂は背筋に汗を感じながら、もう一歩だけ前に進む。そうしたら、一匹の雑種犬が不自然に頭を揺らし始めた。じっとこちらを見据えるような目が、突如光を放った気がする。恐怖で逃げ出しそうになる気持ちを抑え、比良坂はじっと犬を見返した。その瞬間──彼女の視界に不思議な映像がフラッシュした。
それは漆黒の宇宙空間のようだった。無数の星々が瞬き、そこには巨大な眼球のような光が見える。彼女は息を飲み、数秒後に我に返る。まるで犬の意識に引き込まれたかのような感覚に、とっさに頭を振った。視線を外すと、犬たちは再び動きをやめている。何事もなかったかのように、静寂が落ちていた。
翌朝、比良坂は本郷をはじめ、同僚たちの様子を観察するが、彼らには特に変わった様子はない。ただ、思い返してみれば、最近やけにみんな目が冴えているように見える。目の下のクマはなく、疲労感とも無縁そうだ。そして口々に言うのは、ソラリス・ビーンズを調合する際の香りが“クセになる”という話だ。
「あれを吸い込むと、なんだか集中力が上がるんだよね。夜中もあまり眠くならないし、研究がはかどって仕方ないんだ」
若手のスタッフが興奮混じりに言う。比良坂はその言葉にゾッとした。眠くならない、集中力が上がる……それはまるで“依存症”ではないのか。そもそも未知の物質である可能性だってある。こんなものをドッグフードに混ぜて大量生産していいのだろうか。
不安を抱えながらも、データ収集は進む。思い切って上司に質問してみよう──そう考えた比良坂は、その日の夕方、開発室長の佐多に面会を求めた。だが室長の返答は素っ気ない。
「比良坂さん。うちはもう量産の目処が立ったんだよ。あとは工場ラインを増強すれば、すぐに出荷できる。研究者として余計な詮索はしないほうがいい。もしも噂が広がったら、うちが大損するからね。……取れる?」
「は?」比良坂は聞き返した。
「責任、取れるの?」
佐多の目は笑っていない。まるで比良坂を脅すような口ぶりに、彼女は言い返す気力をなくしてしまった。仕方なく研究室へ戻ろうとしたところ、本郷が不自然に声をかけてくる。
「比良坂さん、夜の飼育エリアに興味あるんだって? よかったら今晩、一緒に見に行こうか、面白いのが見れるかもよ?」
その口調はあまりにも自然体で、彼女には逆に不気味に映った。しかし真実を確かめるチャンスだと思い、比良坂は渋々うなずいた。
そして深夜、比良坂と本郷は人気のない工場棟を巡回していた。まるで無人のゴーストタウンのように、ひっそりと明かりだけが灯る廊下。飼育エリアが近づいてくるにつれ、犬の鳴き声が少しずつ耳に入ってくる。
重い鉄扉を開けると、そこには再び硬直したように動かない犬たちの姿があった。本郷は懐中電灯をゆっくり照らしながら、言葉少なに歩き出す。比良坂は彼の後ろをついていくが、彼はあまりにも落ち着いた様子で、恐怖など微塵も感じていないようだ。
「実はね、ここで起きていることは、いわゆる“集合意識”への接触に近いんだ。犬と人間の境界が曖昧になり、ソラリス・ビーンズを媒介にして次第に意識が統合される、そんなイメージかな」
「……本郷さん、それは一体どういう意味ですか?」
「実は俺、ちょっと前にソラリス・ビーンズの粉末を舐めてみたんだ。そしたら、眠るたびに星の夢を見るようになった。最初は意味がわからなかったけど、今はもう把握してる。あれは地球じゃない、もっと遠い星の記憶なんだよ」
彼の言葉に、比良坂の胸はドクドクと高鳴る。彼女もソラリス・ビーンズの香りを嗅ぐたびに頭がクリアになる感覚はあったが、まさか本郷は自ら口にしていたとは。そしてその結果、“集合意識”とやらと繋がっている?
「これから犬たちはゲートを通って、向こうの情報を運んでくる。いや、正確にはもう何度もやりとりしているんだろう。俺たちと犬との共通言語って、ほら、まあ無いじゃん? だからさ、俺も、その集合意識に参加しようと思ってさ」
「そんな……ありえない。地球外の生命体が関わってるっていうの?」
「それを証明したところで、会社が儲かるだけ。もっと根源的な問題は、個人の意識が塗り替えられるかもしれないってことだよ。圧倒的な集合意識の前では個人の意識は太陽の黒点みたいなもんさ。聞いただろう、犬の声?」
「え、えぇ……『タスケテ』のように聞こえました」
「ああ、比良坂さんはまだそんなに吸引してないからかもな。最近はね『六角電波と自己相似的な幾何学とは、自他区別感の無い完全なる静寂』みたいなテーマが多いよ。これが”向こうの世界のキリスト教”なんだろうなぁ……」
「……」比良坂は言葉に詰まる。
「とにかくさ、俺はもう抵抗してない。むしろ歓迎してるくらいさ。だって、意識が高次と繋がるって、素晴らしいじゃないか。兆次的シグモイド関数が、脳髄と共にチューニングされる様は圧巻なんだ!」
本郷は楽しそうな口調で語る。比良坂は背筋に冷たい汗が流れた。恐ろしくて逃げ出したいのに、足がすくんで動かない。そんな彼女の前で、本郷は檻のロックを外しはじめた。
「何を……?」
「ここで待っているんだ。今夜は特に強い“呼びかけ”を感じる。きっと犬たちが、一斉にゲートへ向かうんだろうな。比良坂さんにも、見届けてほしい」
ロックが外された檻から、犬がよろよろと出てくる。その瞳は濁ったように見えるが、ひとつの方向をじっと見つめているようだ。次々と犬たちが出てきて、暗い通路の奥へと消えていく。本郷はその後を追う。比良坂は心底嫌だったが、置いていかれる不安も勝り、懐中電灯を握りしめて後を追った。
工場のさらに奥、誰も足を踏み入れない区画。錆びついた鉄骨や不要機材が積まれた場所を抜けると、大型の貯蔵タンクの横に不気味な洞窟のような入り口が見いた。犬たちはまるで導かれるように、その奥へ入っていく。
(こんな施設があったなんて……)
比良坂は唖然とするが、本郷は何のためらいもなく足を踏み入れた。その向こうには、廃材やゴミで作られた”ご神体”とも言えるオブジェクトがおぞましい姿で安置されたいた。犬たちがそこへ次々とあつまり、祈りをささげているように見える。彼らの姿を注視しても、比良坂の瞼の裏には、かすかに“異星の異形の超越者のイメージ”が浮かぶ。
「これでわかったろ? ソラリス・ビーンズはこの先の世界からやってきた植物なんだ。犬たちは祈りを通じて、脳で直接向こうの世界を体感しているのさ。俺たちはまもなくその一員になれる。元よりそういう定めなのだよ。支配と使役は一体なのだ」
本郷が微笑む。その顔は、もはや“本郷”というより、別の意識体の宿った傀儡のように見えた。比良坂は恐怖のあまり声を出せない。そこで突然、何か質量の無い影が、大型犬の体に沿うように寄り添っているように見えたのだ。
一瞬、比良坂は顔を覆いたくなった。その“影”はまるで触手のように動き、犬の背から生えているように見える。犬たちはゆっくりとこちらへ顔を向け、そのうちの一匹──あの黒い犬が、まっすぐに比良坂の足もとに近づいてくる。まるで「おいで」と言わんばかりに首を傾げ、次の瞬間、口をわずかに開いた。
「…タ、べ、テ……」
確かに人の言葉だった。しかし声はガラガラで、まるで電波の悪いラジオのように乱れている。比良坂は思わず膝をつく。目線の先で、犬の口元に小さな丸い種子のようなものが見えた。豆……ソラリス・ビーンズと同じ色合いを帯びた粒が、犬の舌の上に載っている。
「食べろ、ってこと……?」
その言葉に犬が答えるように、わずかに尻尾を振る。比良坂は心臓が張り裂けそうだった。頭の中では「逃げろ」「やめろ」と警告音が鳴り響くのに、なぜか視線が離せない。じりじりと犬が近づいてくるにつれ、あの不思議な香りがかすかに漂ってきた。鼻腔に染みるその香りは、とても甘美で誘われるような魅力があった。恐怖と好奇心がせめぎ合い、彼女は思わず身を引く。しかし、それと同時に脳内に異形なる星空のイメージが広がる。
――空には機械の監視者がおり、有機生命体は工場の部品にすら満たない。
――赤ん坊の泣き声すら、メカニズムを効率化するための素材だ。
――大地は赤茶け、大気は胞子で満ちている。あらゆる機械が噴霧したガスの結果だ。
――感情らしい感情はなく、絶望という言葉でも形容できない鈍重な世界。
――――とっても美しく調和がとれているんですね?
――――ええ、文明を捨てて合理に生きていますから
――――なぜここまでうっとりさせるんです?
――――その方が抵抗しないでしょ、生命体も?
――――ああ、やっぱり植民地みたいなものですか?
――――もちろんですよ。そろそろ黙りなさい。
――――黙ります。
(ヤバい。すっごく楽しかった。服従って心地よいんだ……このまま、取り込まれるの……?)
比良坂は肉体を強く意識した。震える指先を伸ばし、犬の舌からこぼれそうになった粒をそっと摘んだ。信じられないほど柔らかく、冷たい。まるで生きているように微かに脈動を感じる。意識がぼんやりする中、本郷の声が聞こえてきた。
――――ようこそ、ソラリスの世界へ。そして、黙りなさい。
翌朝、研究室に戻った比良坂は、まるで何事もなかったかのように仕事を再開した。やけに落ち着いた様子に周囲は驚かなかったが、誰も詳しくは尋ねない。工場内の雰囲気は、すでにどこか違う。みんな目が冴え、言葉少なに作業をこなしている。
佐多室長は満足そうに新しい出荷計画を掲示し、「全国展開が近い」と宣言した。ドッグフードの袋には《ソラリス・オーガニック・ドッグケア》と書かれたロゴが踊っている。袋を開けてみると、独特の強い香りが広がり、まるで誘うように甘く漂う。比良坂はその匂いを楽しむように鼻を近づけた。
頭の中で、あの異形で陶酔的な世界がくっきりと輝く。彼女は気づいている。もう自分は、ただの“人間”とは言えないかもしれない。しかし不思議と不安はなかった。むしろ、“犬たち”の視点で見る世界を知ってしまった今、孤独から開放されたようにさえ感じる。
そしてその日の夕方、比良坂は新作の試供品を手にとって、袋の封を切った。誰もいない休憩室で、誰にも見られないように一粒だけ口に入れる。すると、あの甘く刺激的な味わいが舌の上に広がった。じわりと広がる陶酔感の中で、彼女は顔を上げる。
窓の外は依然として曇り空。しかし、その向こうには白鳥座が輝いているのが、まるで手に取るようにわかる。宙に浮かぶ数字が見える。「R965423」──そこが故郷なのだろうか。脳内に誰か(あるいは何か)の声が響く。
(おかえりなさい。そして、黙りなさい。考えるから苦しいのです。思考を放棄します。全ては六角電波と秩序、支配と使役の連綿なるメカニズムです。黙りなさい。思考しません)
ビクリと肩を震わせた後、比良坂は満足げに微笑む。そして、白鳥座のR965423を正確に見据えるように小さく首を動かして──
「ワン……」
人には聞こえないほど高く細い声で鳴いた。その瞬間、身体の奥から大きな震えがこみ上げる。それは決して恐怖ではなく、むしろ“星々への喜び”に似た感覚。意識の深奥で、犬たちの思念が渦を巻き、彼女を歓迎している。
これでいい──比良坂はそう思った。もはや彼女を止める者はどこにもいない。目の前に山積みされた“ソラリス・ドッグフード”は、出荷を待つばかり。遠くない未来に、全国の犬が、その飼い主が、その先の世界へつながっていく。曇り空の下に潜む静かな侵食は、誰も知らないうちに確実に進行していくのだ。
休憩室のテレビでは内閣総理大臣の特別会見が始まっていた。
『――の問題は、我が国としても遺憾の極みです。よって、来年度の『外宇宙探査及び、植物由来の安全性が高いと思われる食品群』の補正予算に12兆円の追加枠を――』
比良坂にはその声がしっぽを振って喜ぶ犬っころの様に見えた。
(了)
何か少しでも心に感じるものがありましたら、それで成功だと思っています。
見て下さり、ありがとうございました。
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