奥様は彼
鼻腔をつく花の香りで目を覚ました。
手にした花を指先でくるくるとまわしながら私をシェリ様が見下ろしていた。
「やあ、お目覚め?気分はどう?」
シェリ様は持っていた花を私の髪に刺した。
驚いて起き上がると、ポロポロとベッドにいくつも花が散らばった。
シェリ様はいつからここで遊んでいたのだろう。
「あなたと結婚した覚えはないのですが」
ゾーイ様ならばともかく、なぜこの男、しかも夫の愛人にこんなことをされているのか全く理解できなかった。
「可愛い寝顔だったから、ついね」
なぜ許可もなく人の部屋に入ってこれるのか?
「私で遊ばないで下さい」
私は眉間に皺を寄せて、思い切り嫌そうな表情を作ると、シェリ様に何か話しかけられても朝食の間ずっとそれで通した。
彼は友好的に見せているが、本当は私をここから早く追い出したいから、わざと私を不快にさせるようなことをしているのだろうか?
しかも嫁いだ初日から。
だとしたら、契約期間をもっと短くしてもらえるように頼むしかなくなる。
私がここにいることをシェリ様には歓迎されておらず、求められていないのだとしたら尚更だ。
この家はゾーイ様とシェリ様の城、愛の巣なのだから。
「ゾーイ様、やっぱり別の部屋に変えていただけませんでしょうか?」
いっそ私だけ別邸、別棟とかの方が良い。
「すまないが、それはできない」
「···では、私の部屋の全ての扉に内鍵を付けていただけませんか」
「なぜ?」
「私が寝ている間、誰も出入りできないようにしていただきたいのです」
ゾーイ様は、今朝の私の様子を見には来ていない。それだけ私に関心がないということだ。
それはそれで構わない。
ただ、私が自分の部屋にいる時だけはいつでも安心できる環境が欲しいのだ。
たとえ数年しか滞在しない場所だとしても。
「酷いなアニー、僕は僕なりに君を歓迎してあげているんだよ」
「あなたもシェリのやり方に慣れて欲しい」
「······わかりました」
ここでは私の希望は通らないのだ。
そうだった、ゾーイ様の奥様は彼なのだから。
それを失念してはいけないのだ。
次の日も、また次の日もシェリ様は私を驚かせては楽しんでいるようだった。
朝起こしに来るのはまだいいが、夜中に私を起こしに来るのだけはやめて欲しい。
心臓が止まるかと思ってしまうから。
物音がして振り向くと、続き間の扉の前に積み上げた家具越しに笑っているシェリ様がいてギョッとした。
ふと真夜中に目が覚めると、平然と私の部屋の長椅子に腰かけていたりするのだ。
夜は、どうしても父とのことを思い出してしまうから、私を怖がらせるのはもうやめて欲しい。
相手が全く望んでおらず、嫌がることをしては反応を見て楽しもうとするのは
それではまるであの父のやり方とたいして変わらない。
父のは、からかいや遊びという範疇ではなかったけれど······。
シェリ様が私の反応を試しているのならば、こちらが何も反応しなければやめてくれるのではと思い、一週間目に、続き間の扉の前には何も置くのはやめて見た。
それは私にとって、とても勇気が必要なことだった。
防御するのをやめるということだったからだ。
その後も彼は夜中にベッドサイドに立っていたりして、私が悲鳴をあげると楽しげに自分の部屋にサッと引き上げた。
まるで子どもみたいな······とも思えなくもないが、 私が怯えて泣けば気が済むのだろうか?
あまりに驚き過ぎると涙も出ないものだ。
一人になって落ち着くと、もう勘弁して欲しいと涙目になっている。
逃げ足の早いシェリ様はそれを知らないのだろう。
家人を起こすほどの大声で叫んだら、やめてくれるのだろうか?
私は試しにあらんかぎりの声で叫んでみた。
「きゃああ」ではなく、「ギャアア」と。
シェリ様だけは慌てたが、侍女すらも誰も私の様子を見には来なかった。
それは隣室のゾーイ様も同様だった。
私が叫んでも、誰も助けに来てはくれない
この状況が、父に瀆されていた時を思い起こさせて、パニックになりそうだった。
あの父はもういない。
それは十分わかっている筈なのに、また私は幼い頃の見捨てられた子どもに引き戻されてしまう。
心の芯が凍えてゆく。
私はあの時から何も変わっていないのだ······。
その事実に打ちのめされた。
私の食欲が落ち、自室に引きこもりがちなっても、シェリ様の歓迎と称する悪戯は止まらなかった。
一月が過ぎ行き、ギース伯爵家から使いの者がやって来た。
「アニエス様、お久しゅうございます」
「···ジェイ? ジェイなの?」
母の実家から、ギース伯爵家まで母についてきた古参の従者ジェイファンがそこにいた。




