安心猫 ノボル編
1
「クビだ」
「え?」
俺は店長の言うことが一瞬理解できなかった。店長は休憩室の椅子に座り、机の上に置いてあるノートパソコンを見ながらそう言った。この店長は俺の上司で、俺は店長の経営する焼肉屋で働いている。今日はシフトが早かったのでまだ店の外は明るいが、俺の気分は不安な空模様になっていった。
「クビってどういうことですか?」
「クビはクビだよ。もう君は今日でおしまい。帰っていいよ」
「そんな、困りますよ。家にお金入れなきゃいけないのに」
「君、いくつだっけ?」
「39です」
「なんでバイトなんてやってるの? 正社員になろうとか、思わないの?」
「それはなれたらいいですけど、この年齢で正社員で雇ってくれるところなんて……。それに俺はずっと非正規だったんで、バイトとかのほうが気楽ですし……」
店長はパソコンの画面を見たままふうとため息をついた。この店長はあれなんだよな、こういうところがある。俺はあんまり好きじゃないんだけど、店長は店長だから仕方ないんだよ。俺はバイトで、こいつは店長。このやつれた顔をした50近い男が店長。妻子持ち。
店長は机の上の雑誌を手に取ると、俺の近くの机上に放り投げた。
「なんですか?」
「なんですか、じゃないんだよね。これ、君のでしょ?」
この雑誌は「世界マニアック武術2024年1月号」というタイトルの雑誌だ。俺の愛読書なんだな。今月号はロシアの軍隊格闘技の特集が組まれてて、俺はわくわくしながらこれを読んでいた。もちろんバイト中に。
「バイト中にさ、仕事さぼってこんな雑誌読んで、いいと思ってるの?」
この店長はこういう堅苦しいところがちょっとあるんだよな。仕事はできるやつだと思うんだけど。俺だって毎日働いて、ホールとかキッチンとかこなしてるんだからさ。そりゃちょっと息抜きもしたいよね。ちょっとさ、バイト中に雑誌をちょっと読むぐらいなんて別に問題ないと思うんだけど、どうもこの店長はそこが気に入らなかったらしいんだな。堅苦しいんだよな。真面目なんだ。
「思ってないです」
「良いと思ってないならなんで雑誌なんか読んでたの? 仕事中だよ?」
「ちょっと息抜きに……」
「息抜きは休憩時間にできるじゃない。それに君、これ一度や二度じゃないでしょ。他のバイトも見てるよ、君がサボってるところ」
「すみません、最近ちょっと持病がよくなくて、ちょくちょく休憩入れないと」
「持病? なんの病気?」
まいったな。とっさに持病なんて言葉が出ちゃったけど、別に俺は健康なんだよ。でも言っちゃったからにはどうにかしないとな。
「み、水虫」
「水虫? 水虫で接客してたの?」
「いえ、えーと、椎間板ヘルニア」
「ヘルニアなの? よくそれで仕事できたね」
「はい。だからちょいちょい休憩しないと駄目なんです」
「はー、そうなんだ」
店長は眉をひそめ俺を見ながらまたため息をついた。
「それじゃお大事にね。クビはクビだから。もう来ないでね。これ、バイト代」
そう言うと店長は俺にバイト代が入っているであろう茶封筒を渡した。手切れ金ってやつかな? いや、俺が働いた分だからちゃんとした俺の金だ。でも店長も薄情だよな。こんな寒い時期に俺を無職にするなんてさ。五年も働いたバイト先を去るのは、なんだか現実味がないよな。そして最後ってあっけないんだなと思ったよ。
俺は着替えると休憩室から出て店内を通って外に出ようとした。
「あれ? ノボルさん、もう上がりですか?」
店のテーブルを拭きながら俺に話しかけてきたのは同じバイト仲間のススムって男だった。こいつは3ヶ月前に入ってきて俺が仕事を教えてたんだけど、物覚えが早くてもう全部できるようになってる。年は27か28だったかな。
「うん。上がり」
「へーいいですね、こんな人手不足な時に」
こいつは仕事を覚えたらこんな嫌味を言うようになってきた。39歳の俺のことをおじさんだと思ってるようで、正直見下されてると感じるんだよな。こいつはまだ20代だから将来の明るい展望を持っているんだろうけど、俺と同じバイトであることは変わりないから、あとは年を取ったら俺と同じだ。そのことをわかってないようだ。もう店に来ることもないから、最後にアドバイスしといてやるかな。
「ススムくん、君は将来のことをちゃんと考えたほうがいいよ。バイトばっかりじゃいけない」
「ノボルさんもバイトばかりでしょ? いいんですよ、俺はこれで。計画はあるんで」
計画だってさ。なんのことを言ってるんだこいつは。計画ね。さぞ立派な計画があるんだろうな。俺のアドバイスを無視するような、こんなやつじゃ最初はなかったんだけどな。
俺はそれから黙ってススムを通り過ぎて、店の外に出た。
外は1月だけど雪が積もってなくて、でも気温は寒かった。通行人も冬の身なりで通行している。こんな寒い時期に無職になるなんて、どうかしてるんじゃないのかな。
茶封筒の中身を見ると1万2千800円だけ入っていた。
なんでかな、その瞬間、俺はすごい悲しい気持ちになって、もうどうしようもなくなりそうになったんだよな。それで俺は気がついたら元バイト先の休憩室の中に戻っていた。
「店長! ここで働かせてください! お願いします!」
俺は土下座して頼んだ。すごいだろ。これは俺の特技なんだ。俺は土下座しても何も感じないんだ。大抵の人間はこれをするだけで許してくれるんだよ。
でも店長には効かなかった。俺は追い出されてまた店の外にでた。出るときにススムがなんとも言えない表情でこっちを見てたな。ススムにもクビになったことばれちゃったな。
店にはバイトで入って無職で出てきから、無職で入っていったらまたバイトになって出てこれると思ったんだけど、そんなことは起こらなかった。
2
無職になってからはしばらく無職の時間を楽しもうと思った。何者にも縛られない圧倒的な自由ってやつさ。俺は実家に父親と二人で住んでるんだ。クビにされた日も実家に帰ったんだけど、父親にはクビのことはだまってた。父親はお金のことにはすごいうるさい人でさ、俺は黙っていたほうが賢明だと思ったんだ。
翌日も俺は無職なんだけど、いつものバイトの出勤時刻に合わせて家を出た。そのほうが父親に怪しまれないだろ? でもさ、バイトはクビになってるから行くところがなくて困ってさ。近くの公園に歩いて行って、ベンチに座ったんだ。
公園は静かなところで、けっこう広い公園なんだけど、朝のベンチはひんやりして冷たくてさ、俺も上着のポケットに両手を突っ込んでぼーっと公園の景色を見ていたよ。公園内の木なんてみんな裸で、寒そうにしてたよ。でも俺よりはいいよな。だっているべき場所がちゃんとあるんだから。今の俺は家にもいられない、行く先もない根無し草さ。
するとさ近くを歩いていた子供を連れた女性がさ、どうもこっちをジロジロ見てるようですごい居心地が悪かったな。それで居心地が悪いから公園内を歩くことにしてベンチを立ったんだ。けど、公園内を歩いているとすれ違う老人とかがこっちをジロジロ見てくるんだ。なんでジロジロ見られるんだ? と思ったんだけど、よく考えたら今日は平日だったんだよな。平日の朝っぱらから公園で俺みたいないい年の男がブラブラ歩いてたらさ、そりゃみんな不審がるよ。だってまともな人は昼間は働いているわけだから、朝から公園のベンチに座ってるような男がいたら「この人、仕事は?」と思うよな。そうなんだよ、それが正常なんだ。まともな思考さ。でもよく考えたら平日に休みがある仕事だってあるし、夜勤だってあるし、作家みたいな自由業だってあるしさ、朝っぱらから公園にいるだけで不審がられるのは何か変だなーと思うんだよ。だって俺が仮に平日に休みな仕事に就いていたら、今は無職だけど仮に、そうしたら別に平日の朝から公園でブラブラしていてもおかしくはないだろ。だって他の日は働いていて今日は休みなわけだから、なにも変なことはないだろ。今は無職だけど。
でも、公園の人々はそういうことは考えないみたいだ。考えるのは「平日の朝から公園でブラブラしている中年男は不審者」ってことさ。想像力がないんだな。でもそれが普通なのかもしれない。ネットとか見ててもさ、公園で子供と遊んでた父親が通報されたなんてこともあったみたいだし、世の中狂ってるよな。公園で父親が子供と遊んだら警察を呼ばれるんだよ。信じられないだろ。でも実際にそういうことが起こっててさ、俺はすごい世の中になったなと思うよ。日本は平和だなんて言われてるけど、公園でブラブラしてるだけで不審者に見られるなんて、平和も考えものだなと思ったよ。でもかといって治安が悪くなったらどうなるんだろうね。平日の朝に公園に中年男がいることが別に珍しくなくなってだれも不審がらなくなるのか、それともそういう人がいる公園にはだれも寄り付かなくなるのか、どっちなのかな。日本は子供が歩いて登下校してたり、女性が夜出歩いていたり、本当に治安はいい国なんだよね。それは誇らしいことさ。
そんなことを考えながら歩いていたら小さい子供がとことこ一人で歩いてたんだ。紺色のニット帽子と水色の上着を着た子供で、黄色の靴が小さくて可愛かったな。
そしたらさ子供が「こんにちは」って俺に声をかけてきたんだ。俺も「こんにちは」って声を返してさ。俺は嬉しくなったからその子供ともっと話そうかと思ったんだけど、子供の後ろから母親らしき女性がすごいスピードで走ってきてさ、子供を抱きかかえてそのまま逃げちゃった。俺、なんか変なことしたのかな。すごい不安になってさ、公園にいるのも辛くなってきちゃって、公園から出ることにしたんだ。
公園から出てしばらく歩いたんだけど、行くところがないなーと思ったんだ。俺は友達はいるんだけど、平日は友達は仕事してるからさ。連絡するのも悪いと思って。だから一人で時間を潰したいんだけど何をやればいいのかよくわからなかった。家にいるときはスマホでネットサーフィンをしたり雑誌を読んだりして時間を潰すんだけど。彼女もいないというか、彼女はいたことがないんだけど、だから自分の相手をしてくれる人がいないんだよな。
しばらく歩いているとカラオケ屋が目に入った。俺は立ち止まって考えたんだ。カラオケで時間を潰したことはそういえば無かったな。カラオケで歌を歌えばストレスも発散できるって聞くし、今は別にそれほどストレスは持ってないけど、いいかもしれない。俺はカラオケ屋に入ることにしたんだ。
カラオケ屋の二重の自動ドアを開いて中に入ると、空間が開けて高い天井があった。床は薄黄色のタイルで受付のカウンターがあった。俺はカウンターに行ってメニューを見たんだけど、ごちゃごちゃ書いてあってよくわからないんだな。いろいろなコースの値段とか時間とかが書いてあるんだけど、俺はどれにしたらいいのかよくわからない。でも悩んでてもしょうがないから呼び鈴を押したんだ。
しばらくすると店員が来てさ、俺に言うんだ。
「会員証はお持ちですか?」
「いえ」
「ではお作りいたしますのでこちらにご記入をお願いします」
俺は店員の出してきた紙切れに名前とか住所を書き込んだ。
「コースはどうなされますか?」
俺は困っちゃってさ、メニューを見ながらどうしたらいいのかまた考えるんだけど、よくわからない。ずっと黙ってると店員がまた言うんだ。
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
「それですとヒトカラ料金になりますのでこちらになりますね。お時間は30分からフリータイムまでございます。お飲み物はワンオーダー制となっております。どうなされますか?」
「えーと、それじゃ1時間で」
「ヒトカラで1時間のご利用ですね。かしこまりました」
店員はそう言うとレジみたいな機械をピッピってやってカゴに伝票とマイクを一本入れて俺に渡したんだ。
「お部屋は105になります。お飲み物がお決まりでしたらお部屋のお電話からご連絡ください」
俺はそれでカゴを手にとって部屋に向かったんだけど、部屋がいろいろあってさ。お客さんはあまり入ってないようだった。105号室に入ってドアを閉めたんだ。部屋の中は狭くて暗かったから部屋の電気を付けた。大きなテレビとテーブルとソファーがあって壁にはメニューが貼られていた。鏡も一枚壁にかけられててそれで自分の姿が見れた。俺はしばらく鏡の前で自分の姿を見てたんだ。そしたら一人でカラオケ屋に来ているのがなんか恥ずかしくなってさ。急いでソファーに座ったんだ。
ソファーに座ると俺はテーブルの上に置いてあるタブレットを眺めた。このタブレットで曲を入力するらしいということは知ってる。タブレットをいじって曲を入力すると俺はマイクの電源を入れた。部屋のスピーカーから明るい曲が流れ出してテレビに映像が映り始めた。どこのだれかもわからない役者が出てきてなぜか遠くを眺めている。俺は思うんだけど、役者ってのは大変な仕事だよな。食っていける役者はごく一部って聞くし、ほとんどの役者はこういう仕事をしながら食いつないでるんじゃないかな。ドラマとかに出て知名度を上げられれば仕事も増えるだろうけど、ドラマに出れる役者は限られるし、大変な仕事だよな。
俺はマイクをかまえて歌を歌った。いきなり音程を外したが気にせずに歌った。歌いながら映像が切り替わっていくのを眺める。しばらく歌ってみたんだけど、なんだかちっとも面白くないんだよな。本当にこれで面白いっていう人がいるのか疑問に感じるよ。歌い方が悪いのかと思って次はもっと大きな声を出して歌ってみたんだ。するとなんか胸がスッとするような気がして気持ちよかったかな。だからその次の曲も大声で歌ってみた。次の曲も。その次も。
そしたらいきなりドン! っていうでかい音が聞こえて、俺はびっくりしたよ。なんだ? と思って周りを見回したんだけど、どうも隣の部屋から聞こえてきたらしい。隣の部屋で何かモノでも落としたのか? いや、あの音はモノを落としたぐらいじゃ鳴らないよな。たぶん隣の部屋の人が壁でも叩いたんじゃないかな。
俺は気を取り直してまた曲を入れて大きな声で歌ったんだ。そしたらまたドン! っていうでかい音が隣から聞こえてきた。もしかして俺が歌うと壁を叩いてるのか? たぶんそうだろうな。俺の声がうるさかったんだろう。俺が大きな声で歌ったのが隣の部屋に聞こえてるんだな。
なんか俺は一気にげんなりしてさ。なんというか、カラオケ屋で大きな声を出すと壁ドンをされるっていうのは、カラオケ屋の存在意義を疑わざるを得ないよね。大きな声を出せないカラオケ屋って、どういうことなんだよ。みんな小さい声で歌えってことかな。大きな声を出して壁ドンされるっていうのはさ、すごくゲンナリするんだよ。隣に俺の下手な歌声が聞こえてるわけだろ。どうしようもないよな。
俺は歌うのをやめて電話を手に取った。
「ウーロン茶ください」
しばらくすると店員がウーロン茶を持ってきた。俺はそれをストローで飲むんだ。冷たいウーロン茶が乾いた喉の奥に流れていく。俺はしばらくボーっとしてさ、でかい声で歌えないから小さい声で歌ってみたんだ。そしたら全然おもしろくなくてさ。歌う気もなくなっちゃった。だからマイクを置いて、ソファーに座りながら考えたんだ。無職で時間を潰すっていうのもけっこう大変だなって。世の中の無職はよく頑張ってるよ。誰にも迷惑をかけず、暇な時間を一所懸命潰して、感心しちゃうよな。無職のみんなはどういう生活をしているんだろうな。平日の昼間をぶらぶらしてたら目立つだろうし、そうしたら変な噂が立って大変になると思うんだよ。俺も今日は公園に行ったけど、公園の中を歩いているだけでジロジロ見られるだろ。無職を長期間できるっていうのはそれだけで才能だよな。凄いことだよ。
俺はそんなことを考えながらウーロン茶を飲んでいた。テレビに映る映像を見ながら。すると電話が鳴った。
「はい」
「お時間ですがどうなさいますか?」
「帰ります」
「お会計ですね。かしこまりました」
俺は部屋から出て、会計に向かった。隣の部屋ではだれかが歌っているようだった。俺と同じで暇なやつがいるんだな。カウンターで会計をする。店員は「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」とこっちを見ずに慣れた風に言っていた。俺は店を出た。
店を出て外の歩道を歩きながら思うんだけど、俺はいま無職で、この道路を走ってる車を運転してる人は仕事をしてるのかなーって思うんだよね。仕事で車を運転してるってのはわかるんだけど、中には仕事をしていない人もいるわけだろ、俺みたいに。そうするとどうやって車を維持してるのかなって思うんだよね。それとも俺が知らないだけでみんな働いてて車のローンを払ったり任意保険料を支払ったりしてるのかなって。
そんなようなことを考えながら、俺は行くところがなくなり、また仕事を探そうと思ったんだ。だからそのまま街の職業安定所に行くことにしたんだ。
職業安定所に着く。見た目は公共施設だから立派なもんだよな。コンクリでガラスもあって。俺は中に入っていって受付の人に「パソコン貸してください」と言ったんだ。それで職安のカードを見せてパソコンを貸してもらうことになった。何台も並んでいるパソコンの中から1つ選んで、椅子に座る。それでパソコンのマウスをカチカチやって仕事があるか調べるんだ。次はどんな仕事にしようかな? と思いながら色々見るんだけど、あれなんだよな。年齢制限がある仕事が多いよな。だいたい35歳以下って書いてあるところが多いよ。俺は39歳だから年齢制限に引っかかってこういう仕事には応募できないんだよね。年齢ごまかすわけにもいかないし。だいたいごまかしてもすぐバレるよな、年齢は。それで俺としては前にやってた焼肉屋の仕事に近い仕事がいいんだよね。慣れてるしさ。だからそういう仕事を探すんだけどあんまり無いんだよな。で、1つ見つけた。焼肉屋のホールスタッフ。ホールなんて俺はできるからさ、この仕事はおあつらえ向きだと思うんだよね。だから俺はこの仕事を印刷して職員に見せたんだ。そしたら職員がその店に電話してくれてそれで面接が決まった。あとは履歴書を書いて面接に持っていくだけだ。
面接は3日後だった。俺はなんとか時間を潰して、面接に望むことになった。面接は久しぶりだけどさ、コツは知ってるんだ。まずは身なりだろ。身なりが不潔なやつはまず落ちるから服に汚れがないかとか、髪に寝癖がついてないかとか、色々チェックするんだ。俺は家の鏡の前で自分の身なりをチェックした。父親が不審そうに俺のことを見てたけど、理由は話さなかった。まさか今無職だとは言えないからさ。それで応募した焼肉屋に行って面接を受ける。電車で2駅となりの街で、駅前から15分ぐらいで着いた。チェーン店じゃなくて個人経営の店だな。洒落てる白い外観で看板に店の名前が大きく書いてある。ここのまかないは美味そうだ。俺は焼き肉屋で働くのがなぜ好きかって言うと、まかないがうまいからなんだよね。たいていまかないには肉が出るから、俺は肉が大好きだからさ、役得ってやつだよね。
俺はそんなことを考えながら店の扉を開いた。良い予感がする。きっとこの店で俺は働くんだな。
店に入ると俺は店長らしき人にテーブルに促されて椅子に座った。そこで店長に履歴書を見せると店長はそれを広げてじっくり見ているようだった。しばらくして店長が口を開く。
「前のお仕事も焼肉屋だったんですね」
「はい。5年ほど焼肉屋で働きました」
「ホールとキッチンどちらでしたか?」
「両方やってました」
「そうですかぁ」
店長はそう言うとまた履歴書に目を落とす。しばらくしてこっちを見ながら言った。
「前のお仕事はなぜ辞められたんですか?」
この店長はそういうこと聞くんだな。どうしようかな。正直に言うとバイト中に雑誌を読んでてクビになったんだけど、そんなこと話してもな。相手もつまらないだろ。なにかおもしろい話をしたほうがいいよな。そうに決まってるよ。
「お店との方向性の違いで」
「方向性の違い? というと、経営方針ですか?」
「はい。そうです」
「あなたはバイトだったんですよね?」
「はい。バイトでした」
「お店側はどういう方向性だったんですか?」
この店長はけっこうしつこいタイプかな。方向性の違いって言われたらさ、はいそうですか、で納得してたらいいんだよな。それをしないってことは、この店長はしつこいタイプだろうな。こんな話、俺がでっち上げた話だから方向性とか言われても困るんだよね。
「あのー、店はサラリーマンをメインの客層にしたかったようなんですが、私は学生をメインにしたかったんです」
「……なるほど。あなたは学生をメインにしたかったと。でもあなたバイトですよね?」
「はい。バイトでした」
「なぜ学生をメインにしたかったのですか?」
「なぜって、そのー、やっぱり若いから? ですかね」
「でも学生は単価低いですよね」
「あ、そうですね。はい。でも、そのー、若いエネルギーで、あのー、店を盛り上げてくれるっていうか。そんな感じです」
「店を盛り上げる?」
「はい。若いエネルギーで」
困ったな。ちょっとボロが出てきたかもしれない。嘘つくとこういうことがあるんだよな。でもこの店長はこれでごまかせるだろう。そういう顔をしてる。
「なるほど、そうですかぁ」
店長は背もたれに深く背をあずけて、履歴書を見ながらため息をついた。ほらな、俺の思ったとおりだ。
「39歳かぁ。うーん、そうだなぁ」
なにか考えてるようだ。年齢のことかな? そりゃ俺は39歳だけど、まだギリギリ30代だし若い部類だから大丈夫だと思うんだよね。あと39の3を2に変えたら29になって「肉」だし、焼肉屋とも相性がいいと思うんだな。これ言ってみようかな?
「私は39歳ですが、そこから10歳引くと29歳になります」
「はい?」
「いえ、ですから39歳から10歳、歳を引くとですね、29歳に……」
しばらくの沈黙があった。店長はこっちをじっと見ていたが、しばらくすると言った。
「なるほどぉ。そうですねぇ」
伝わったかな? 肉になるって話。みなまで言わなかったけど、多分伝わったと思うんだよな。相手も納得してるし。
「はい、わかりました。今日はご足労いただきありがとうございました。またご連絡いたしますね」
面接はこれで終わった。俺はなんか不完全燃焼だったような気がするんだよな。どういう仕事ができるかとか、詳しく聞かれなかったし。なんかパッとしない面接だったよな。
店の外に出ると俺は暇になってしまった。今日はもうやることやったから、あとは適当に時間を潰すだけさ。連絡が来るのを待つだけ。
俺は適当にその街を観光した。駅前はけっこう賑やかで、ビルとかもある。そこから少し離れると水路があって、昔風の建物が水路沿いに並んでる。街はけっこう入り組んでて俺は迷子になりそうになった。百貨店なんかもあってうちの地元よりは賑やかな街だ。この街は電車で2駅だけど、俺はあんまり興味がないからこの街には来たことがほとんどなかった。こうやって歩いてみると良い気晴らしになるよな。
しばらくすると電話がきた。電話に出るとさっきの店長がおれに不採用を告げた。俺は耳を疑ったね。この店長、正気か? と思ったよ。だって不採用ってことは俺はまだ無職だってことだろ。ということは収入もないから家にお金も入れられないだろ。そうすると父親が怒るだろ。困ったよな。電話はすぐ切れた。俺はよく知らない街でまた不安になってしまった。
翌日、俺は父親と一緒に車に乗って隣の県まで行くことになった。親戚の法事があるので顔を出すことになったんだけどさ。毎年そうなんだけど、俺は肩身が狭いんだよな。親戚はみんな結婚してたりちゃんと就職してたりするんだけど、俺だけなんだよな。バイトしてるのは。今は無職だけど、今日はバイトしていることにして乗り切るつもり。父親にだってバイトしてることにしてるし。今から気が重いよな。俺は運転しながらそんなことを考えた。車中では父親との会話は一切ない。父親はぐーすかぴーすか寝ていた。
会場に付くと広間には親戚たちが並んで座っていた。俺と父親は空いてる席に座る。食事がはじまった。
「今度うちの二人目の子供が生まれるんですよ」
「あらそう。なんて名前にするの?」
「萌子か香菜にするつもりです」
「俺、この間管理職に昇進したんです。結婚生活も順調ですよ」
「あら〜おめでとう」
無数の親戚達が食事をしながら会話をしている。俺にはなんていうかな、その会話内容が遠い世界のことのように聞こえてくるんだよな。アルバイトだから結婚もできないし子供だって持てない。バイトと言うか今は無職だけど。だから子供の話とか苦手なんだよな。
「コウイチさんはノボル君とまだ暮らしてるんですか?」
「ああ」
父親はそう言って答えた。やだな、話の矛先がこっちに来たぞ。あっちいけ、あっちに。
「ノボルさんは今は何をやってるんですか?」
親戚の中の男がそういって俺に話しかけてきた。こいつはミツナリって言って、結婚もしてて仕事もあるやつなんだけど、なんで俺に話を振るかな。親戚中の注目が俺に集まる。お前ら俺がボロを出すと思ってるんだろう。そんなことはしないよ。俺はこの場を乗り切って見せる。
「今は飲食店の方を少々」
「バイトですよね?」
なんなんだよミツナリ。頼むよおい。俺にだって見栄を張らせろよ。
「うーん、バイトっていうか、社員候補っていうか」
「ノボルさんてもうすぐ40歳ですよね?」
「そうだよ〜」
「そうだよ〜」なんて言って余裕があるように見せるのがコツなんだよな。こいつらは俺を見世物にしようとしてるんだ。それはわかってるんだよ。本当に嫌な連中だよな。
「ノボルちゃん、あなたもう若くないんだから、将来のことちゃんと考えてる?」
「ノボルくん、いつまでも子供の気分でいちゃコウイチさんが困っちゃうよ」
親戚の連中は口々に俺に言ってきた。みんなニヤニヤ笑っている。表情でわかるんだけど、こいつらは別に俺のことを心配してるわけじゃないんだよな。俺のことを言葉でいたぶって楽しんでるんだよ。それはわかるんだけど、本当に悪趣味な連中だよな。
「もっと言ってやってください」
父親は笑いながらそう言った。父親に関しては俺がこうなることを期待して俺をこの場に連れてきてるんじゃないのかな。そうに決まってるんだけど。なんだかせっかくの料理も美味しくないんだよな。こいつら俺がバイトじゃなくて無職だって知ったらどんな顔をするんだろうな。きっともっと言ってくるんだろうけど。
こいつらは血の繋がりはあるんだけど、やっぱ他人なんだよな。他人と同じで、俺のことなんて他人事で自分より下の人間がいればそれで満足なんだよ、こいつらは。俺が逆に成功したらこいつらは面白くないんだよな。だって別にこいつらは俺のことを心から心配してないし、表情だってニヤニヤ笑ってるしな。本心が顔に出てるんだよ。
法事は終わり、俺と父親は帰路に着いた。俺は運転しながら今日のことを反芻する。親戚のやつらのニヤついた顔つきが頭から離れなかった。
それから俺はいくつもバイトに応募したが、バイト先は決まらなかった。なぜかバイトに落ちる。なぜだろう。前の仕事を辞めた理由を誤魔化すからか? それとも年齢のせいか? 俺はどんどん不安になっていた。金も尽きてきた。そしてとうとうこの日が来た。
「おいノボル、今月分がまだだぞ」
父親は俺にそう言うと、曲がった背中を起こして俺を睨んだ。
「今月分って?」
一応、俺はとぼけてみたんだ。
「今月分は今月分だよ。今月の金だ。まだだぞ」
「ああ、それね。えーと」
「お前、まさかバイト辞めたんじゃないだろうな」
「え?」
この父親はさ、変なところには勘が利くんだよな。俺は参っちゃったよ。バイト辞めたなんて言ったらさ、どうなることやら。
「辞めてないよ」
「嘘つけ。じゃあ何で金がないんだ」
「金はあるよ」
「それじゃ早く今月分を出せ」
「今はちょっと……」
「お前……まさか」
まさかってなんだよ。怖いこと言うなよ。
「いや、女なんか出来るわけないよな、お前は。そんな甲斐性なんてないよ、お前は」
親父ははぁとため息を付いた。
「まさかクビになったのか?」
「クビになんてなってないよ」
「それじゃなぜ金を納めない?」
「それはちょっと理由があって」
「今日中に金を納めろ。でなければ出てけ」
これだよ。これ。父親は二言目には家から出てけって言うんだよな。まいった話だよ。だいたい金もない、住むところもないのにどこに出てけっていうんだ。この父親はやっぱちょっと狂ってるんだよな。我ながら恐ろしい親を持ったよ。
「来月まで待ってくれない?」
「だめだ。今日中だ」
「そこをなんとか……」
「出てけ。お前の顔なんか見たくもない」
こうして俺は家を追い出されたんだ。参ったよな。本当に参ったよ。まさか無職からホームレスにランクアップするとはさ。ランクアップ? ランクダウン? どっちでもいいけどさ。しかもこのクソ寒い季節に家を追い出されるって、俺死ぬんじゃないの。外は雪がちらついててすっかり暗かった。本当にこんな時に家を追い出されるってついてないよ、俺は。
俺は電話をかけた。友達に。俺の唯一の友達で小学校からの付き合いのあるタケシってやつにさ。電話のコールが一回二回と鳴ってタケシが出た。
「もしもし?」
「タケシか? 俺だけど、ちょっと困っちゃってさ」
タケシは無言になっている。あれ? どうしたんだこいつ。なにかあったのか?
「どうした? タケシ」
「ノボルお前、俺が貸した金はいつになったら返すんだ?」
「え?」
ああ、そういえばタケシから金を借りてたっけ。返してなかったかな。困ったな。すっかり忘れてたよ。どうしたもんかな。
「金は必ず返すよ。それより今は困ったことになってて」
「どうかしたのか?」
「家に泊めてくれないか?」
タケシはまた無言になった。タケシが駄目だったら俺は凍死するかも。タケシ頼みだよな、ほんとに。こいつは昔から気のいい奴でさ。一緒にずいぶんと馬鹿なこともやったよ。でもタケシはさ、こういう時に俺を見捨てるようなやつじゃないんだよな。
「別にいいけど……」
タケシはそう言うと電話を切った。俺は急いでタケシのアパートに向かった。タケシはさ、俺と違ってちゃんと就職してるんだよな。中小企業の正社員でさ。こいつには色々奢ってもらったりとかずいぶん世話になってるよな。今回も世話になるわけだけど、ほんと持つべきものって友達だよな。俺もいつか成功したらタケシにはたっぷりお礼をするつもりでいるんだよ。本当だよ。
俺はタケシのアパートに着いた。チャイムを鳴らして部屋に上げてもらう。タケシは冴えない顔をしていた。そりゃそうだよな。金を貸しても返さないやつが今度は家に泊めてくれって。俺だったら追い返すよ、そんなやつ。
「どうしたんだ? 追い出されたのか?」
タケシもさ、俺の父親と一緒で勘が良いんだよな。こういうこと聞いてくるんだから。
「いや、ちょっと気分を変えたくて」
「追い出されたんだな……」
「いや、ちがうちがう」
「バイトはどうしたんだ?」
「バイト、やってるよ」
「バイトやってるのに追い出されたのか?」
「うーん、ていうか……」
「お前、まさかバイト、クビになったか?」
「いや、違うよ」
「お前、今度は無職……いや、ホームレスか……」
「……うん」
タケシははぁとため息をついた。そして椅子に座ると机の上のノートパソコンを開く。動画サイトを開いてなにかの音楽を流し始めた。
「仕事は順調か? タケシ」
「ああ……。まぁな」
「すごいよな。今は管理職ってやつだろ? 給料だってけっこう貰ってるだろうに、まだアパートに住んでるんだもんな」
「独身だから、別に困ってないよ」
「そうなのか。いやー、それで悪いんだけどさ、なにか食わしてくれない?」
「……」
タケシはキッチンでなにかを作り始めた。俺はその美味しそうな料理の匂いを嗅ぎながら今後のことを考える。どうしよう。ホームレスだから、バイト見つけて前借りして部屋を見つけるか? でもバイト受からないしな。タケシはいつまで家に泊めてくれるだろうか。タケシのご機嫌だけは損なわないようにしないとな。
「あ、タケシ、あと飲み物もちょうだい」
タケシは俺にコップに注いだお茶を出してくれた。俺はそれを飲みながらタケシに感謝する。本当、タケシがいなかったら俺は死んでたよな。
タケシが作ったチャーハンを俺は食べながらテレビを見ていた。タケシにまた金を借りるか? それで一時的にしのいで、身を立て直すって手もあるな。問題はタケシがまた金を貸してくれるかってところだよな。
チャーハンを食べる俺を見ながらタケシは言った。
「お前、これからどうするの?」
どうするのって来たよ。俺だってどうしたらいいのかわからないのに。
「うーん、どうしよう」
「親族に頼れる人いないの?」
「親族……、あー親戚は何人かいるけど」
「それじゃ親戚に連絡取ってさ、家にしばらくおいてくれないか相談してみろよ」
「親戚の連絡先知らないんだよね」
「……。それじゃ、生活保護だな。明日役所行って申請してこいよ」
生活保護と来たよ。いやいや、さすがにそれはないわ。いくら俺だって生活保護に頼るぐらいにはまだなっちゃないだろ。まだ余裕だよ。タケシはそこのところがわかってないんだな。
「お前のことだからまだどうにかなると思ってるんだろうけど、どうせバイトも受からないんだろ? お前はもう国の助けを必要とするレベルだってわかってる?」
「タケシにしばらくここに置いて貰えば大丈夫だよ。バイト見つけて住むところ探したら出てくからさ」
タケシはしばらく黙るとはぁと息を吐きながら言った。
「悪いんだけどノボル、俺もうお前の面倒見れないわ。お前はなにかあるとすぐに俺にすがりに来る。さすがに俺ももう限界だよ。今日一晩は泊めてやるけど、明日になったら出てけよ? わかったな?」
おいおいおい、まじかよ。タケシどうしちゃったの? まさかタケシにまで見捨てられるなんてさ、ちょっと想定外だよね。こりゃ困ったぞ。明日になったらまた俺はホームレスになる。そうするといよいよ国に頼らないといけないぞ。
その夜はそれきり、俺もタケシも会話をしないまま布団に入った。俺は明日のことを考えながら泣きそうになっていた。なんでこんなことになったんだろう? バイトをクビになったからか? そうだよな、それがすべての始まりだ。あの店長が、俺が雑誌を読んでたぐらいでクビにするからだよな。あの男、どうしてくれるんだよ。
俺はしばらく焼肉屋の店長の恨み言を考えながら布団に入っていたが、少しすると眠くなりそのまま寝た。
翌日になると俺はタケシのアパートから出て、役所に向かった。とうとう俺も生活保護か。まさかこんな急にこんなことになるとはな。電車でゴトゴト揺られながら向かいの席に座っている女子高生を眺める。女子高生二人は二人共スマホを見ながらお互い会話もしていない。俺は女子高生のスカートの下に覗いている太ももを見てるんだけど、どうしたのかちっとも気分が良くならない。酒は気分が悪いとマズイって言うけど、今の俺の気分もきっとそうなんだな。今の俺は女子高生の太ももを見ても味がマズイんだ。
そんなことを考えながら駅に着くと、俺は電車を降りて階段を登って改札口から出た。役所って言ってもどこの役所に行けばいいのかな。俺は携帯で検索して場所を調べる。そういえば携帯代も払わないと、もう使えなくなっちゃうな。ホームレスなのに携帯は持ってるって不思議な話だよな。
俺は歩いて役所に向かうと「生活支援課」のある建物に入っていった。小綺麗な建物でガラス張りの建物。こんな建物を税金で建ててるんだから国のお金ってのはすごいもんだよな。俺の周りでは何兆ってお金が動いているのに、俺の手元には一万円も無いんだから、変な話だよな。
俺は窓口で職員に話しかけた。
「あのー、生活保護……」
「はい、相談ですね。どうされましたか?」
「相談ていうか……」
「まずはどうされたか話してみてください」
俺は職員に今までの経緯を話して聞かせた。職員は無表情で俺に話しかける。
「アルバイトは飲食以外は応募されましたか?」
「いえ、飲食だけです」
「なぜ他のバイトには応募されなかったんですか?」
「いやー、えーと、慣れてないので」
「でも応募しようと思えばできましたよね? 選り好みせずに」
なんだこの人。俺が仕事を選り好みしてたって言うのか? そりゃ俺は食事と女性の好みにはうるさいけど、こんな切羽詰まったときに、まぁ選り好みしてたかな、そう言われると。
俺が返事に困ってると職員は続けた。
「お父様はご存命なんですね?」
「はい」
「ではお父様に扶養されてください」
「それが、さっきも話しましたけど、追い出されちゃって」
「話し合ってください」
「ええと、話し合いですか」
「そうです。話し合いで解決してください」
あの父親と話し合いだって。あいつは二言目には金のことしか話さないのに、どうやって話し合うって言うんだ。
職員はそう言うと「以上になります」と言って俺と取り合ってくれなくなってしまった。俺はそのままとぼとぼと役所を出る。そして役所の立派な外観を眺めた。こんな立派な建物を建てるお金はあるのに、俺一人助けるお金がないなんて、どういう金の使い方してるんだろうと思ったんだけど、俺は仕方なくそのまま帰ることにした。
帰る途中で気付いたんだけど、俺は今ホームレスだった。だから帰る場所がないんだった。ホームレスにだって拠点はあるんだから、今の俺はその拠点すらないホームレス以下ってことになるな。
仕方ないので俺は実家のある地元に向かうことにした。たぶんどうにかなるだろう、と思って。また電車で揺られて自分の街に降りると実家を目指して歩いた。夜になるまで待ってこっそり家に入ろうかな? それで、親が起きている間は部屋で息を潜めておいて、親が寝てから活動すればいけるんじゃないか? そんなことを考える。うんそうだな。これなら行けそうだ。俺は解決策が思いついて少し安心した。
駅から歩いて20分ぐらいで家に着いた。一戸建ての普通の家だ。俺は39年間この家から出たことがないんだ。だが今日はこの家の見方がちょっと変わっているというか、なんか他人の家みたいだ。
俺は玄関を開けようとした。だが鍵がかかっている。鍵はいつもの場所にあるんだな。この植木鉢の下に。と思って植木鉢を持ち上げたら、そこに鍵は無かった。
「あれえ?」
俺は思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。ここに鍵がないってことはうちの父親はやったんだな。鍵の場所を変えやがった。まいったな。そうすると家に入れないぞ。夜まで待っても家の中に入れないんじゃ意味がないよな。
俺は家の勝手口まで歩いて勝手口に手をかけたがこちらも閉まっていた。やられた。完全に締め出されてる。どうしたもんかな。
俺は途方に暮れた。仕方がないので近所の公園に行くことにした。
近所の公園のベンチに座り、俺は考えた。なんとか生き残る方法を。このまま夜になったら外にいたら寒くて死んでしまうかもしれない。でも夜通し歩いてれば死にはしないかな? 今の昼間のうちに寝ておいて夜になったらひたすら歩く。そうすれば凍死は免れるかな? いよいよ切羽詰まってきたな。生きるか死ぬかって感じになってきた。ホームレスはみんなこんな感じで生きてるんだな。炊き出しとかあれば、炊き出しに行けば飯を食えるかもしれない。そう思って携帯で炊き出しについて調べてみた。どうもうちの県は炊き出しはやってないみたいだ。まいったな。そうするともう凍死は免れても飢え死には確定だぞ。もう一度役所に行って事情を話すかな? でもまた追い返されたら金の無駄だしな。タケシに頼るか? 死にそうになったらタケシだって助けてくれるだろう。そうだなタケシに頼ろう。
俺は携帯でタケシに電話しようとした。しかし携帯の充電が切れていた。
とうとう携帯も使えなくなったな。やばいな。住むところと電気がないってだけでこんなに大変とは。まだ金はちょっとあるから、漫画喫茶にでも行こうか。役所のある街に漫画喫茶があったかな。そうすると今のうちにあの街にまた戻って漫画喫茶に泊まらないとな。
俺はまたさっきの街に戻ることにした。
役所のある街まで戻ると、俺は漫画喫茶を目指した。たしか大通りから路地裏に入ったところにあったよな。あったあった。まだ明るいから、夜になったら入ろう。昼間は適当に時間を潰せばいいや。俺は漫画喫茶の周辺を歩き、座れるところを探した。街の中ってのはいざ座れるところを探すとなかなかないよな。地べたとかに座るか、手すりとかにもたれかかればいいんだけど。
俺はそんなことを考えながら裏路地の通りをぶらぶらと歩いていた。すると前方から若い男の3人組が現れた。俺は平日に若い男が3人も珍しいとマジマジと見てしまっていた。
「おい、おっさん。なに見てんだ」
3人のうちの一人が俺に声をかけてきた。なんだかな、俺がじっと見てたのがよくなかったみたいだな。若い男3人を相手にするなんて大変だし、無視するに限るな。
俺は返事をせずに無視して通り過ぎようとした。
「おいおいおい、おっさんおっさん」
「待たんかい、おっさん」
なんなんだよ。俺は座れるところを探してるだけなんだが。なんでこいつらは絡んでくるんだよ。
俺は歩速を速めて距離を取ろうとした。しかし若い男の一人に肩を掴まれてしまった。
「話しかけとるだろが。無視すんな、おっさんよぉ」
なんだこいつら。俺の肩を掴んで。ヤンキーか? 半グレか? 困ったことになってないか? これは。警察呼ばないと……あ、携帯は充電切れだった。
「離してください」
俺は思わず声を出してしまう。すると3人は顔を見合わせてニヤニヤと笑いながら俺を取り囲んだ。
「おい、おっさん。人を無視するとはどういう教育受けてんだぁ?」
「なあ、おっさん。いい年して礼儀もなってないんかぁ?」
「おっさんよぉ。お小遣いちょーだい?」
はわわ。こいつら俺にカツアゲしてるぞ。今どきカツアゲかよ。警察に捕まれ、バカ。3人は終始ニヤニヤしながら俺の足元を見たり顔を見たりしている。なんだかな、人間ってホント素直だよ、楽しいときは顔がニヤつくんだから。うちの親戚達とこいつらは一緒だよな。でも俺だって武術の心得はあるからな、安安とカツアゲなんかされないぞ。だてに武術雑誌を長年愛読してないからな。どうすれば重いパンチが打てるかとか、重心移動の大切さとか、ぜんぶ知ってるんだ、俺は。それらを複合的に活用すればこいつら3人をあっという間に路傍のチリにしてやれるんだぞ? そうだ、俺ならやれる。
俺は3人の囲みから飛び出して構えた。右手を大きく上げて左手の手のひらを前方に。足もとは大きく開いて腰を深く落とす。完璧だよ、これは。
「おお? なんだ? このおっさん」
「やる気かよ。おっさん」
「おい、おっさん。バカじゃねーの」
俺は足を移動させながら上げている右手をすばやく前方に打ち込んだ。
「ほわあ!」
しかし不良達はあっさりとそれをかかわした。不良の一人が俺の腹にボディブローをかます。
「うぐ!」
俺はその場に倒れ込んだ。すると3人が次々に俺に蹴りを入れ始めた。
「ああああああ! ああああああ!」
俺は大声を出して悶えた。
「うるせーよ、おっさん」
「おい、もう行こうぜ」
「なんだ、このおっさん」
俺はボコボコになりながらミノムシのように足と腕を折りたたんで頭をガードしている。ふと気がついて目を開けると、不良たちはもうはるか遠くにいた。体中が痛い。どうなってんだよ、まったく。困っちゃうよな。俺の武術が通用しなかった。
雪が浅く積もっている裏路地の路上で俺の周りだけ積雪が乱れに乱れていた。ちらちらと降る雪が俺の右頬に当たる。俺はふー、ふー、と息を吐きながら立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かなかった。
その時だった。頭の上から声が聞こえた。
「ノボルさん?」
俺が見上げるとそこには焼肉屋でバイトしてたときのバイト仲間、ススムが立っていた。
「どうしたんですか? ノボルさん。ボロボロじゃないですか」
そう言うとススムは俺を抱き起こした。俺はなんとか立ち上がったが、すぐに尻もちをついて路上に座ってしまった。
「ちょ、ちょっと……悪党退治をね」
「退治される側じゃないんですか?」
ススムは相変わらずの皮肉屋だった。こんなやつに仕事を教えるんじゃなかったな。ほんとに。
「ススムくん、どうしてここに?」
「ぼくこの街に住んでるんですよ。家も近くですけど。大丈夫ですか? ノボルさん」
「ああ、大丈夫だよ。こんなのかすり傷さ」
「地べたに座りながら言うセリフじゃないっすよ」
ほんとだよ。地べたに座って言うセリフじゃないよな。そんなことはわかってるんだ。俺はそう思いながらなんとか立ち上がった。財布を確認したがお尻のポケットに財布がなかった。どうやらさっきの3人に持っていかれたらしい。俺はとうとう無一文になったわけか。
「財布を盗られたんですか? 大丈夫ですか? 警察に行きましょうよ」
「いや、いい」
警察に行ったら事情を聞かれる。そうしたら俺が無職のホームレスだってことが警察にバレるし、第一、俺が先に手を出したことを話さないといけない。色々リスクがありすぎるよな。
「帰れるんですか? 家どこでしたっけ?」
「隣の街」
「お金ないんですよね?」
「うん」
ススムはそう言うと俺に千円札を渡した。
「これ使ってくださいよ」
「え? ……いいの?」
「いいですよ。ノボルさんにはお世話になりましたし、それに俺の計画ではもうすぐ俺は事業をやるんですよ。事業を始めたらお金持ちになれますから、これぐらいのお金はなんともないです」
ススムはそう言って笑った。参ったな。まさかススムに親切にされるとは思わなかった。こいつ良いやつだったのか。
「じゃ、気をつけてください。僕はこれで」
ススムはそう言うと去っていった。路上には全財産1000円の足を引きずる39歳のおっさんだけが残った。
俺は街中にある公園を見つけてベンチに腰を下ろした。
街を行ったり来たり、喧嘩したりしたせいでさ、なんだかすごい疲れたんだよな。ここで休憩して時間を潰すか。
公園はそれなりに大きく、向こうの方ではカップルが二人で腰を下ろして話し合っていた。滑り台には子供の姿はなく、公園の地面には雪が膜を張っていた。俺は寒いな、と思いながら向こうのカップルを見ていたんだけど、しばらくするとカップルがこっちに気づいて立ち上がって二人とも公園から出ていってしまった。
街の中は俺以外はみんな動いていてまるで動いていない自分が無生物のように思えてきた。なんで俺はこうなんだろう。なにをやっても駄目だ。俺は悲しくなっちゃったよ。なんというか、それから怒りも湧いてくるんだよね。俺を馬鹿にしたやつや見捨てたやつを見返してやれたらどんなに気分がいいだろうな。俺が社会で成功したらあいつらどんな顔するんだろうな。俺はずっとそんなことを考えた。俺はとうとう、立ち上がる元気も無くし、雪がちらちらと舞う公園のベンチで頭を垂れた。
3
なんだろう? 声が聞こえる。なんの声だろう? 遠くから、どんどんと近づいているような気がする。俺は頭を持ち上げて前方の公園の地面を薄目を開けて見た。するとその視界に一匹の猫らしきものが入ってくる。
「だーいじょうぶにゃ、心配ないにゃ」
その猫は二足歩行で、独特なリズムの音頭を取りながら俺の少し前方の空間に入ってきた。猫は続けて言った。
「だーいじょうぶにゃ、なんとかなるにゃ」
「だーいじょうぶにゃ、心配ないにゃ」
猫は音頭を取り続けながらそう掛け声を出して続けた。なんだこれは? 俺は何を見ているんだ? 猫が二本足で歩いて、言葉を話している? そうか、これは夢なんだな。俺は疲れて変な夢を見ているんだ。
「だーいじょうぶにゃ、心配ないにゃ」
「だーいじょうぶにゃ、安心するにゃ」
でも不思議とこの猫の掛け声を聞いていると、心が安らいでいくのを感じたんだな。なんというか、不安感がどんどん消えていって心のストレスが無くなっていくような感覚だった。猫が掛け声をかけるたびに俺の傷は癒えていくようだった。
「だーいじょうぶにゃ」
そう言うとその猫は俺の眼の前に来た。俺は薄目をぼんやり開けながら、その猫を見つめる。猫は手になにか持っているようで、それを俺に差し出していた。
「正直者になるにゃ」
気がつくと俺は目を閉じて深い眠りについていた。
目を覚ますとあたりは薄暗く、すっかり雪が積もっていた。俺は寒さに震えながら頭に積もっている雪を落とす。さっきまでそこにいた猫はいなくなっていた。なんだろうな。やっぱり夢だったのかな? 変な夢だよな。猫が二足歩行で踊りながら何かを俺に差し出してるんだから。何かを――。
前方の地面の積雪の上面に、なにか落ちている。俺は重い腰を上げると足を踏み出してそのなにかの近くに寄っていった。
それは名刺だった。俺は名刺を拾い上げる。名刺には「〇〇株式会社 取締役社長 〇〇スエツグ」と書いてある。社長の名刺? なんでこんなところに? 〇〇株式会社なんて、聞いたことないなぁ、と俺は思った。こんなまっさらな積雪の上にぽんと名刺が置いてあるなんて、どこからか舞ってきてここに落ちたのかな。あたりには足跡もないしな。
陽が落ちた公園は暗くなってきて、俺はその場を離れることにした。こんな雪の中でじっとしていたら凍死しちゃうもんな。歩かないとさ。身体はまだじんじん痛むけど歩けないほどじゃない。コンビニでも行って温まろうかな。
4
コンビニに着くと俺はしばらく立ち読みをした。武術系の雑誌が置いてないので代わりに漫画雑誌を読んでいた。格闘技系の漫画を読みながらしばらく時間を潰す。
コンビニの中で十分温まったので俺はカップラーメンを一個買って店内に備え付けてあるポッドで湯を入れた。コンビニの外に出て雪を凌げる屋根のある場所でカップラーメンを食べる。熱いスープのカップラーメンが身にしみるようだ。やっぱ寒い日はカップラーメンに限るよな。俺はシーフードが好きなんだ。だからこれもシーフード。ほんとラーメンは人々を幸せにするよな。
俺はカップラーメンを食べ終えるとコンビニの中に戻り、さっきの名刺を取り出して店員に聞いた。
「すみません、〇〇株式会社ってこの辺ですか?」
「……あー、少々お待ち下さい」
店員はそう言うと地図を取り出して調べ始めた。
「はい、そうですね。この向かいの通りを真っすぐ行って〇〇交差点を右に行くと左手に見えてきますよ」
俺は店員にお礼を言うとコンビニの外に出て歩き始めた。せっかくだからどんな会社か見てみようと思うんだよね。なんというか、出会い的に面白い感じがするし、たまたまあの公園で名刺を拾っただけだけど、行ったら何か面白いことが起こるんじゃないのかな? そんなことを俺は考えた。
交差点を右に曲がってしばらく進むと、小さなビルが左手に見えてきた。まだ窓が明るくて中に人がいるのがわかった。あたりはすっかり暗くなっていたけど、さしずめあのビルは俺にとっての灯台だった。
俺はビルの前に来た。ビルの壁面にかけられた看板には「〇〇株式会社」とある。ここまで来といてあれだけど、俺はどうするつもりなんだ? これから。まさかここから中に入って「ちわーす」なんて出来ないよな。いきなり見ず知らずのおっさんがそんな風にビルに入ってきたら通報ものだよな。ということは俺にできるのはここまでで、ビルの前でタチンボするぐらいってことか。
俺はしばらくぼーっとしながらビルの前で突っ立っていた。するとビルの扉が開いて男が一人出てきた。男は扉の横にある灰皿の横に行くと、タバコを一本取り出して吸い始め、そしてふうと煙を吐いた。
男と俺は目が合った。男はしばらく黙っていたが、ふっと口を開いた。
「君、どうしたの。何か用?」
何か用って言われても困っちゃうよな。俺はあの公園で二足歩行の猫に名刺を貰って、それで名刺の会社の場所を調べてただ来ただけなんだけど。そんなこと言ったら変に思われそうだよな。
「正直者になるにゃ」
公園の猫のこの言葉が俺にリフレインした。正直になるって苦手なんだよな。俺は適当にウソついて乗り切ったほうが気が楽なんだけど、でも猫のアドバイスにここは従ってみるか。
「あのー、名刺を拾いまして」
「名刺? なんの名刺?」
「これなんですけど」
俺は名刺を出して男に手渡した。
「確かにこれはうちの名刺だけど、どうしたのこれ? どこで手に入れたの?」
「あのー、ちょっと変な話なんですけど……」
「うん」
「公園のベンチに座ってたら二足歩行の猫が現れて踊りながら僕にこの名刺を渡したんです」
「……へぇ〜」
男はニヤッとするとまたふうとタバコを吸った。
「それで、特に用はないんですけど、来てみたんですが……」
「へぇ〜、おもしろいね」
男はニヤニヤしている。何が面白いのか俺にはわからなかった。
「その猫って二足歩行だったの?」
「はい。二足歩行で音頭を取りながら踊ってました」
「君、薬とかやってんの?」
男は笑顔でそう俺に聞いてきた。俺はやってませんと答える。
「ふーん、不思議なこともあるねぇ。猫がうちの名刺を……。君、仕事はなにしてるの?」
「あ、えーと」
正直者になるにゃ。
「えーと、今は無職です……」
「そうなんだ」
男はしばらく考えるようにタバコを吸っていた。そして口を開くと俺に話しかけた。
「うちさぁ、今アルバイトを募集しててさ、なかなか集まんないんだよね。君、うちで働いてみる?」
「えっ」
何だこの人。正気か。猫に名刺を渡されて突然会社に押しかけてる無職の男を仕事に誘うだと。そんなことってあるのか。いや、でもな、これは俺としては願ってもないことなんだよな。
「はい。働きたいです」
「君、どこに住んでるの?」
「えーと、前は隣町に住んでましたが、今はホームレスです」
「ホームレスなの!?」
男はそう言うとびっくりしたような声をあげて、そしてしばらくすると声を出して笑った。
「あー、そうなんだ。大変だねぇ。どうしようかな」
男はしばらく考えて言った。
「私の知り合いに大家さんがいるから、そこと話をつけてあげるよ。給料前払いにしといてあげるから、それで家賃払って住みなさい」
俺は耳を疑った。この人は聖人なのだろうか? なぜそこまでしてくれるんだ?
「それは大変ありがたいですが、なぜそこまでしてくれるんですか?」
「うーん、そうだなぁ」
男はタバコの火を消して答えた。
「まぁ、私が猫好きでモノ好きってだけかな。理由は」
俺はその日からバリバリ働いた。仕事は簡単な事務作業だった。エアコンの効いた部屋でパソコンとにらめっこする。最初はパソコンの操作に慣れなかったが、社員の人が教えてくれてなんとかできるようになった。今では週五で働いて、ちゃんと自立して暮らしている。
「ノボルさん、調子いいですね」
この人は俺の恩人のスエツグさん。この人が俺のことを拾ってくれなかったら、俺はどこかで野垂れ死にしていただろうな。ほんとこの人には頭が上がらないよ。あの公園の猫が現れて俺に名刺を渡してくれて、その名刺を頼ってスエツグさんに出会って、で今は自立できるだけの稼ぎもある。あの時の悲惨な状況を思い起こすと今は夢のようだな、ほんと。
「はい。スエツグさんのおかげです」
「ははは。まぁ頑張ってね」
スエツグさんはそう言うと奥のオフィスに消えていった。
そしてそれから2年が経った。俺は相変わらずバリバリ働いていた。年齢は41歳になり、社員には俺より若い人も多かったが俺は気にしなかった。41歳のアルバイトでもいいじゃないか。働いて稼げるんだから。そんなことを思う日々、正直悪くなかった。ある日、スエツグさんが俺に話しかけてきた。
「ノボルさん、仕事は調子どう?」
「はい。お陰様で頑張れてます」
「そっか。もうノボルさんを雇って2年経つんだよ」
「はぁ、そうですか」
まさか2年経ったからもうお払い箱です、とかじゃないよな。俺はちょっと不安になった。バイトはいつクビを切られてもおかしくない。スエツグさんの機嫌次第だ。
「ノボルさん、ちょっと話があるから奥の部屋でいい?」
「はい」
おいおい、予想が当たったのか? まさかまた俺は無職になるのか? クビを宣告されて。いやだ。そんなのはもういやだ。ホームレスになりたくない。俺は奥の部屋に入っていって椅子に座った。向かいの机を挟んだ席にスエツグさんが座る。
「実はね、ノボルさん。うちは本当に今、人手不足でさ」
「はあ」
「社員も足りてないし、労働力がぜんぜん足りてないのよ。で、ノボルさんは今はアルバイトなんだけど、もう仕事も全部覚えてるし、教育とかも出来るようになってると思うんだよね」
「はあ」
「だからさ、ノボルさん。うちの社員にならない?」
「えっ」
俺は耳を疑った。社員にならないだって? 社員って、正規雇用の正社員ってことか? 41歳のおっさんが? そんなことってあるのか? 俺はただひたすら混乱したがなぜか返事はすぐに出た。
「はい! なりたいです!」
「そっかぁ。それじゃ、明日あたり契約書作ってくるから、それにサインしてね」
話はそれで終わった。俺が正社員だって。信じられない。こんなことがあるのかな。俺は夢だと思ってほっぺをつねってみた。だがしっかり痛かった。これは夢じゃないようだ。
2年前までホームレスだった俺が今は正社員になろうとしている。こんなこと夢にも思わなかった。
5
その1週間後、俺は街の書店で武術雑誌を購入していた。購入した雑誌は「世界マニアック武術2026年3月号」で俺の愛読書だ。書店から出ると俺は顔見知りに出会った。それはタケシだった。2年前にアパートに泊めてくれたタケシだ。俺の小学校からの友達。久しぶりに合うなこいつとは。
「久しぶりノボル」
タケシはそう言うと俺に話しかけた。
「今何やってんの? 生活保護?」
「いや、自立して働いてる」
「そうなんだ」
タケシはどこか安心したような顔をした。こいつ、多分俺を見捨てたことを後悔でもしてたんじゃないかな。こいつは根は優しいやつだからな。
「今度飲みにでも行く?」
タケシがそう言うと俺は答えた。
「いや、いい。遠慮しとく」
「そっか」
多分タケシとはこれきりになるだろうな。小学校からの付き合いも最後はあっけなかったよな。
こいつとは色々な思い出があるよ。小学校の頃に遊んだ思い出とか、中学で悪さした思い出とかさ。でもそういう思い出があってもな、タケシは最終的に俺のことを見捨てたわけだから、やっぱそれが俺達の関係の限界だったわけさ。なんだかもったいないよな。
俺はタケシと別れて家路についた。
さらにその1週間後、俺は父親に呼び出されて車を運転していた。親戚の法事があるというのだ。俺は行きたくなかったが、父親は高齢で運転ができないので仕方ない。父親は助手席に座っている。この2年間でずいぶん老けたもんだ。頬もやつれて老人という感じだ。
「ノボル、お前……」
父親が口を開いた。
「今は何してんだ」
「働いてる」
「そうか。家には戻らないのか」
「ああ、戻る気はないよ」
「そうか……」
しばらく見ない間に父親は生気が無くなっていた。高齢で一人暮らしも大変なんだろう。俺のことを追い出してからそのことに気付いて、今じゃ俺に家に戻らないのかと聞いてくる始末だ。まったく困った親だよな。戻ってやってもいいけど、もう少し良い薬だからこのままにしておくかな。
法事の会場に着くと親戚達がテーブルを囲んでいた。俺と父親は空いてる席に座る。食事が始まった。親戚達はまたペラペラと話しながら食事をしている。するとおばさんの一人が俺に話しかけてきた。
「ノボル君は今は何やってるの?」
親戚の注目が俺に集まる。
「働いてます」
「バイトでしょ?」
遠くの席からミツナリがニヤニヤしながら俺に言ってきた。親戚の連中もみんな口元が笑っている。
「いえ、正社員です」
一瞬、時が止まったような気がした。しばらくすると親戚たちはまた動き始めた。
「あらぁ、よかったわねぇ」
「これでノボル君も一人前だな」
「やっぱ正社員じゃないとねぇ」
親戚たちの口元の笑いはなくなり、みな普通の顔で食事をしていた。ミツナリは面白くなさそうな顔をして自分の子供をあやしていた。父親は口を横一文字に結んで黙っている。どうやら俺が正社員になれたことは父親や親戚たちにも意外なことだったようだ。笑っている人は一人もいなくなっていた。俺は席を外してトイレに立った。用を足しトイレから出て日光が差し込む廊下の窓辺で立ち止まる。
思えばあの日、雪の降るあの公園で、妙な猫が名刺を持ってきて、それから俺の人生が変わり始めた。あの猫はなんだったのだろうか。幸運を運ぶ猫だったのだろうか。あの猫のお陰で今の俺は救われている。
「幸運を運ぶ猫か」
俺はひとり呟いた。窓の向こうでは桜が咲き始めていた。
おわり