多勢に無勢
どうしたら、いじめはなくなるのか。
被害者に原因があるのか、加害者が絶対的な悪なのか。
答えをだそうとして、議論をかわすのは誰なのか。
いじめの被害者、いじめの加害者。
いじめの傍観者、無関係の第三者。
誰が誰について語っているのだろう。
変わるべきなのは、被害者なのか加害者なのか。
議論されるべきは、被害者なのか加害者なのか。
その立場になってみないと、わからないことは多い。
傍観者と無関係の第三者は、
まずは自分たちについて語るべきではないだろうか。
自分たちに責任はなかったのか、変わる必要があったのではないか、
いじめをやめさせられたのではないか。
いじめの被害者は、ひとりで大勢を相手に戦っている。
色眼鏡越しの視線に見下されながら、
押しつけられた仮面の中でずっと耐えている。
いじめをやめさせるのに、誰かが英雄になる必要はない。
誰もが変わろうとして、変われた人たちが行動すればいい。
そこには大勢の人たちがいるのだから、きっと何人かは変われるはず。
でも、結局は同じことなのかもしれない。
構造自体が変わらなければ、一対多数が少数対多数に変わるだけ。
多勢に無勢のまま、ずっと押しつぶされていくのだろう。