親友
月明かりが差し込む夜。
今日もまた夜がやってきました。今夜は満月。幾度目の、幾十度目の満月でしょう。いつもより一層明かりが強くなって、白いひかりがこの屋根裏に、それは遙かに広がります。私にはこの部屋は広いのでそう感じるのです。私はいつも、毎日、毎晩、ここからあの上のほうの小窓を見上げて、月明かりを浴びています。硝子張りの窓は、遙かに高いので外の景色は見えません。ただ真っ白い夜半のひかりを迎え入れることだけがあの窓の役割です。それがなくてはここは真っ暗で、私は何も見えないし何にもできなくなってしまうので、それだけがただ私の感じられるものの全てなので、あの窓と月だけが私の世界です。古くて埃っぽい、こんなところで、まるで古城のお姫様のようにひとりきりで、いっつも過ごしているのでした。
いえ、ひとりきりではありません。ここには、いくつか人形が置いてあります。それらはプラスチックで出来た肌色に大きな目をした着せ替え人形であったり、可愛らしいデフォルメされた動物のぬいぐるみであったりします。特にお誕生日に買ってもらった両手で抱くのにちょうどいい中くらいの大きさのテディ・ベアは、いちばんお気に入りで、いちばんのお友達です。いつも一緒に居て、今もこうして、一緒にあの窓を見上げています。見上げて、見上げているんでしょうか、この子も。私はずっとそう思っていたけれど、ほんとうは違うのかもしれない。この子はもっと別のことを考えていて、例えば、もうここから出ていきたいとか、こんなに退屈なのは堪らないとか、そんなふうに考えているかもしれない。このところの月は空に居るのが長いので、見つめる時間も自然と長くなって、そんなことを空想します。好きなのは、私ばっかりかも、なんてね。そう思っていくら空想の鳥を羽博かせても、結局この子は何も言わないし、この世界が変わるわけでもないのです。気まぐれの不安で孤独になるなんて馬鹿げていると思うのだけれど、誰かと一緒だと思うと不安になるものです。そうでしょう?信じるのって、怖いでしょう?あなたもそうでしょう、ね。そうしてまた、いつものようにいちばんの仲良しのテディ・ベアに声をかけます。他のお人形だっていいのだけれど、だって、いちばん近くに居るのがこの子なんだもの。いつも一緒で、私にいちばん近くて、ずっと隣りに居た唯一の子。いつもこうしてぎゅっと抱いて、また同じ姿勢を繰り返す。差し込むひかりを見上げます。私はただ、ここに居ます。この子と共に、ずっと。
迎えにきたよ。
はっとして振り返ると、後ろに誰かが立っていました。
その声は、何だかとても懐かしいような気がしました。
髪は短くて、白っぽい服を纏って、私と同じくらいの年の少年のようでした。
あなたは、だれ?
やだなあ、忘れちゃったのかい。ぼくは……。
そう言って、彼は私のお友達のテディ・ベアの名前を呼びました。
さあ行こう。もうずいぶんここに居たんだろう。ずっと探していたんだ。見つけられて、よかった。
待って。
手を伸ばして近づいてくる彼を止めて、私は不思議に思ったので訊いてみました。
どうしてこの子の名前を呼んだの。
ばくが?その、ぬいぐるみの名前を?いつ?
さっきよ。アンティイムって、呼んだじゃない。それはこの子の名前だわ。
彼をじっと見つめながらそう言うと、一瞬きょとんとした表情がすぐにはじけるような笑顔に変わって、途端に周りに花が咲いたようになりました。私は、笑われているはずなのに何だかこの笑顔を知っている気がして、ずっと長い間見ていなかった故郷の街のように懐かしい気がして、少し戸惑ってしまいました。どう言ったらいいのか分からない感情に、私は片腕を繋いでいたテディ・ベア、彼に呼ばれたようにアンティームという名のお友達を、思わずそっと抱き寄せました。
ばかだなあ。アンティームは、ぼくの名前だよ。さっきは名乗ったんだ。でも、そういえばそうか、そのテディ・ベア……。
彼も懐かしそうにほんの少し目を細めて、私の腕のなかに居るこの子を見つめました。同じ名前だったな、と聞こえたのかも分からない小さな声で呟きました。確かにそう言ったように唇が動いて見えました。
確か、ぼくからとったんだろう。
え?
急にそんなふうに言われて今度は私のほうがきょとんとして、驚いて聞き返してしまいました。
とったって、何を?
名前さ。その、テディ・ベアの名前。アンティームって、君がぼくからとったんだ。そうして名付けたんだったろう。
そんなこと……。
びっくりしてそう囁いてから、私は言葉を紡ぐことができませんでした。おもむろにお人形のアンティームを掲げて、前に立っている彼と見比べてみました。真っ黒い、瞳。濃いブラウンの髪。ぬいぐるみのほうは口を引き結んだ厚い糸で作られていましたが、彼が何かを思い出すように少し右上に首を傾げて口元を同じようにまっすぐに結んでいるので、まるでどちらかがどちらかの真似をしているようでした。
「そっくり……」そう言いかけて、止めました。続きを言うことができなくなりました。大きな思い出が、色々な出来事の情景が、ぶつかるように私のなかに溢れてきてそれどころではなかったのです。怖い顔をして手を振り上げる男の人が見えました。パパだ、と知っていました。泣きながら、私を庇おうとする女の人がいました。ママだと思いました。愛用していたコロンの香りがかすかに薫って懐かしくなりました。私を守ろうとするママの香り。淡い薔薇のような香り。でも結局そんな安心するぬくもりの香りは一瞬で消えて、私は思わず瞑っていた目を開けました。次に瞼を閉じると今度は、パパの言いなりになるママの姿が見えました。ごめんね、と言いながら何もせずにパパの後ろにいるママは、少し虚ろな目をしていたようでした。怖かったことを、逃げたかったことを思い出しました。震えている体と、近くの床に転がったテディ・ベアの姿が見えました。今よりもずっと真新しい、この子の姿でした。毛色のブラウンはこんなにくすんではいませんでした。腕のなかのこの子よりもずっとふわふわとした毛並みのように見えました。
それから、彼の姿が頭のなかに蘇りました。声も姿も今そこに現れた少年と同じでした。張りつめていた気持ちが糸が緩んだように解けて温かくなりました。アンティイム、と、自分の声がしました。私はいつもこんなふうに彼を呼んでいたのでした。ラミティエ、と呼び返す声を聞いて、またほっとしてふたりで過ごしていたのです。お人形遊びも、外に出て遊ぶのも、いつもふたりでした。私の家はお金持ちで、街で数番目というくらいで、私はいい家庭教師をつけられて学校には行っていませんでした。それでお友達もいなかったので、名前もない人形たちに囲まれていたのです。それでも、気に掛けてくれた隣りの家の男の子が、人間のアンティームでした。喧嘩をしたときに見た引き結んだ唇があまりにそっくりだったので、そうです、確かに私が、いちばんのお気に入りだったぬいぐるみのこの子にその名前を付けたのでした。楽しかったことを思い出しました。嬉しかったことも、喧嘩をしたとき悲しかったことも、怒ったことも思い出しました。色んな気持ちがあったことを思い出しました。思い出したら、それはちゃんと私のなかに戻って、記憶と一緒に形まで蘇ってくるようでした。まるで、誰かが大事に宝箱に仕舞っておいてくれたような、それを、開いた私に返してくれたような感じがしました。
その後には、いちばん重要なことを思い出しました。すっかり忘れていたことでした。忘れてはいけないことだったけれど、いちばん忘れたかった出来事でした。きっと、気を失ってそのままだったのです。気を失ったら、そのまま目を覚ますことなく起こったことだったから、ちょうど忘れておけたのです。でも、思い出さなくてはいけないことでした。忘れていたかったけれど、そのままここに永遠に居たってなにも変わりはしないのです。だから人間の、本当の親友だったアンティームが、こうして迎えにきてくれたのでしょう。そう訊くと彼は頷いて、
うん。たいへんだったよ。まさか、ここに居るとは思っていなかったから。
と、頭をかきながら苦笑いしました。私はすっかり親密になった彼にまっすぐ向き直って、言いました。
ありがとう。ごめんなさい。ぜんぶ、忘れてしまっていたの。
別に、謝ることじゃないよ。そう思ったから迎えにきたんだ。
彼の服が白色な理由も、今ではよく分かりました。彼の笑顔はいつもと、いいえ、ずっと前に見慣れていたものと同じでした。
私はずっと昔に死んでしまっていたのです。
そのことをずっと忘れたまま、私はこの屋根裏に居たのでした。ぬいぐるみのアンティームと一緒に、ずっと、窓から差し込む月明かりを見つめていたのでした。それに気がついたとき、私の身体から何かが溢れて、白いひかりに包まれました。今までここで浴びてきた月光が私のなかに壜に詰め込まれたように溜められていて、それが一挙に溢れ出たかのようでした。
同じように輝いている彼の、もう一度伸ばされた手を、今度はしっかりと取りました。片手にはテディ・ベアの彼を抱いたままで、そうして、尋ねました。
この子も連れて行ける?
もちろんさ。大事な親友なんだろ。だったら、連れて行かなきゃ。
ぬいぐるみのアンティームのなかからも、何か光るもの―もしかしたら、魂のようなものだったかもしれません―が、現れました。そして、私の周りを取り巻く白いひかりのそばに寄って、触れたかと思うと溶け込むように消えていってしまいました。そうしたら私の記憶はもっと鮮明になって、いつかの死も、過ごした日々も、はっきりと思い出されては映画のように瞼の裏に流れてくるのでした。
彼に手を引かれて、ふわりと浮き上がりました。ずっとずっと高いと思っていた、果てしない高さにあったように思われていたあの小窓が目の前にありました。一瞬でその場所まで浮き上がったのでした。毎晩私とテディ・ベアのアンティームのために白い唯一のひかりを、私たちを導くように差し込ませてくれた硝子の小窓には、このときは人間のアンティームと、金髪の巻き毛であったしばらくぶりに見る自分の顔と、テディ・ベアの三つの影が映っていました。やっと安らかな気持ちになりました。鏡のように映った自分の影が微笑んで、彼らの間で、二人と手を繋いで居るのでした。やっぱり、誰かと居るのは、確かにたったひとりで居るよりも孤独ではあるけれど、それ以上に結んだ手のぬくもりは本当のものでした。自分が取り残されているとき、手を引いてくれるのはお友達しかいないのでした。
きっと離すまい、と強く思って、私は二人のアンティームの手を、また固く握りしめたのでした。