脱獄開始(ビギニング)
「カツ、カツ、カツ、カツ」
規則正しく響く靴音は、食事を配膳する看守のそれだ。
「いくぞ、ミラ」
「うん」
ミラとラム、二人の囚人の牢を貫く小さな穴は、ラムの腕がギリギリ通るほどの大きさに広げられていた。靴音を合図に、二人の囚人による脱獄計画が今始まる。
「ん?」
何百回と繰り返す配膳作業の中で、看守はいつもと異なる違和感を感じた。
「なんだこれ……クセぇ!?」
ミラの牢へと食事を運んでいた看守は、強烈な悪臭に顔を背ける。
その臭いの正体は、牢の前に立つとすぐに判明した。
「オゲエェェェェェオエェェェェェ」
「クソッ、こいつ吐いてやがる!」
鉄格子の向こう側で、女の囚人ーーミラが大量の吐瀉物を嘔吐していた。
ミラは嘔吐を繰り返す。
それも、ただの嘔吐ではなく、胸を押さえてもがき苦しんでいた。
「ぶぁはっ、ぐるっ……じぃ、オゲエェェェェェ、おぶっ、た……オブェェェェェ……だ、たすけっ……オブェェェェェ」
ミラは胸付近の布を鷲掴みにながら、助けを求めた。
「ちっ、どうなってやがる」
「だすけっ……オブェェェェェ、オゲエェェェェェ」
ミラは右手を胸に当てたまま、左手で鉄格子を摑もうとするが、嘔吐によって失敗する。
固形物はもう出尽くしたのか、吐瀉物は胃液だけとなっていた。
顔色は真っ青になり、呼吸もままならない。
だれがどう見ても、尋常な事態ではなかった。
看守は、暫く茫然とその様子を見ていた。
「オブェェェェェ、ひっく……か……ひゅ……」
しかし次の瞬間、ミラは白目を剥くと、体全体で痙攣させた。
そのまま、吐瀉物に塗れた床の上に、糸が切れたように倒れ込む。
吐瀉物で汚れることも意に介さず、ミラは横たわったまま時折痙攣を繰り返した。
「おい、何があった!?おい!」
看守の言葉にミラは反応を返さない。
既に目の焦点も合っていなかった。
「くそっ、俺じゃ手に負えねえ」
看守は持ってきた給食の盆を床に置き、踵を返して戻っていく。
薄れる意識の中、ミラは作戦の第一段階成功をかろうじて認識していた。
☆
黄金色の瞳がミラを射抜いている。
「不敬罪に処す」
王子クリフはミラを指差してそう宣言した。
(身が竦む……)
王族だけが持つ"黄金の魔力"が辺りに満ちている。
その魔力は、人間の根源的な恐怖を呼び起こす類のものだ。
ミラはクリフの目を直視できず、顔を伏せて目を瞑った。
「全ては、お前が悪い。僕の気分を損ねた罪は死に値するところ、特別に温情を与えて、死刑ではなく監獄送致としてやったのだ。にも関わらず、脱獄を企むとは罪深い。救えないほどの愚かさだ」
ミラは言い返そうとするが、体の自由が効かず、喉から声が出なかった。
(違う!他者を省みない強欲な、自己愛の権化はどっちだ!)
ミラはパクパクと口を動かすばかりで、その意思はクリフに届かない。
「言い返すことさえできぬか、臆病者め。お前など、取るに足りない平民の、その中でも親知らずの孤児ではないか。お前が何を為そうと、何を考えようと、僕にとっては羽虫以下の存在だ。此度のことも、邪魔だったから手を払ったに過ぎぬ」
(黙って聞いてれば勝手なことを!なんでっ!?なんでこんなヤツが王子で、誰にも咎められずに生きてるの?悔しい……悔しい!絶対、絶対いつか見返してやる!)
ミラは奥歯が擦り切れるほどの力を込めて、歯軋りをした。
涙腺が重くなるのを感じたが、プライドに賭けて涙を流すまいと我慢する。
「大人しく監獄の中で朽ち果てればよいものを、愚かさもここに極まれり。お前が脱獄などしようものなら、今までお前に関わった者たち全員が罪を負うだろう。お前という罪深き人間を野放しにしていたという罪をな。お前のせいで、皆が不幸になるのだ。お前のせいで!お前など、死んだ方が世のためだ。死ね、今すぐ死んで詫びるがいい」
(私のせいで皆が罪に問われる?嘘よ、そんな横暴が許されるわけ!……でも、もし本当だったら?ギルドの皆が……アレンが……駄目、そんなのってあんまりよ……)
クリフの放つ"黄金の魔力"のプレッシャーと傲岸不遜な物言いは、ミラに不安な感情を呼び起こす。
「死ね!このままくたばれ!」
クリフは気勢を上げてミラに迫った。
ミラは目蓋を堅く閉じて、その口撃に耐えるしかない。
もう駄目だと、ミラの心中に諦観が過った時、
「ミラには『脱獄しなきゃならない理由』があるんじゃねえのか?」
低くて重厚な声が、ミラの脳裏を通過した。
ミラは、己の信念に懸けて誓った、あの脱獄の決意を思い出す。
今なら声に出して言い返せる気がした。
「そうだ!私はこんな監獄さっさと脱獄けて、自由になるんだ!皆に、アレンに、いつかまた会うんだ!いつか必ず、王子の化けの皮を剥いで、私と同じ目にあわせてやるんだ!だから絶対、ここで死んだりしない!負けてたまるか、私は脱獄するんだ!」
そして、ミラは目を見開いた。
☆
蘇生して目を開けたミラは、見慣れぬ部屋の天井を見た。
(ここは?牢の外?うぅ……まだ胸が気持ち悪い……)
まだ意識は鮮明に働かない。
半覚醒状態で辺りを見渡したミラは、側に立つ一人の人物の存在に気付く。
その人物は、ミラを運んできた看守の男だった。
ミラは、看守と目が合った。