巨壁(グレート・ウォール)
「くっ。ラム、無事でいて」
ミラは、身を引き裂かれる思いでラムと別れた。
しかし同時に、どこか安堵している自分がいる。その葛藤に、ミラは自己嫌悪を感じていた。
そんな感情を振り切るかのように、ミラは夢中で逃げた。
看守の休憩室の扉を飛び出したミラは、脇目も振らず廊下を駆けて行く。
とにかく、戦場から少しでも、1メートルでも遠くへ。
ノアの強さは、ミラも肌で感じていたところだ。
冒険者ギルドに勤務する仕事柄、人の強さを見抜く力は確かだ。
それでなくても、剣の達人のラムに、あそこまで言わせるほどだ。ひょっとすれば、英雄クラスの実力者かもしれないと、ミラは推測していた。
もしもミラがそんな人間と戦えば、どうなるか。
想像するまでもなく、秒殺されるのは自明の理だった。
廊下を行く途中、ミラは窓を発見した。
このまま廊下を進んで看守と遭遇すれば、やり過ごすことは困難。戦闘に突入する可能性が高い。
それは望むところではない。
ミラはそう結論づけ、窓を開けて屋外へと飛び降りた。
外は既に日が沈み、夜が始まろうとしていた。
空気はひんやりとしている。
走り続けて火照った頬に風が優しい。
監獄の構造など知る由もないミラは、窓を飛び降りてから、ずっと真っ直ぐに走った。
ミラの目の前に広がるのは夜の闇。
どこまで走ればいいのか、目的地も定まらない。
知らない場所で、ただただ暗闇をひた走る。
闇への恐怖を感じていないと言えば嘘だろう。
しかしそれ以上に、何者かに追いかけられる恐怖から逃げ出すように、ミラは走り続けた。
恐怖から連想して、ミラは先刻の出来事を思い出す。
(ラム……。私、ラムを置いて逃げた……。本当に、これでよかったの?……駄目だ、考えがまとまらないよぅ)
一瞬、周囲への警戒を解いて考え込んだミラだが、幸運にも人目はなかった。
ラムとノアの戦いに看守全員が注目し、ミラから注意が外れていたのだ。
というのも、この監獄の敷地における出入り口は西側の大門唯一つ。
ノアを倒し、その後ろに勢揃いした看守らをも倒さなければ、突破は不可能だ。
ラムより格段に戦力の劣るミラを追って、わざわざ戦力を分散させる必要はないのだ。
月夜の中、ミラは走る。
右手の短刀だけをギュッと握りながら、とにかく監獄の外へ出ようと、必死で出口を探した。
呼吸は乱れ、汗が滲んだ。
脹脛の筋肉がプルプルと震え、痙攣を起こす前兆を知らせている。
ミラは限界間近の体に鞭打つように、一歩ずつ、懸命に進んだ。
そして、ミラは辿り着いた。
そこはラムとノアが剣撃を交わす戦場とちょうど反対、東端の壁だった。
「はぁ、はぁ、はぁ…… 」
ミラは息を整え、気を落ち着かせる。
碌に運動できなかったブランクが祟り、肉体への負担も想像以上だった。
「はぁ、はぁ…… 」
ミラは目の前には、巨大な壁があった。
日が沈まぬ内に一度見ていなければ、それが壁だと認識することすら困難だっただろう。
それは監獄からの脱獄者にとって、最後の砦にして最大の難関。監獄を監獄足らしめる巨壁だ。
夜の闇と相まって、見上げてもどれだけ高いのかわからないほどだった。
ミラは左手で壁に触れる。
ひんやりしていて、表面は滑らかだ。
拳を作ってと叩いてみても、ビクともしない。
むしろ叩いた音から、その堅牢さがわかった。
「ふぅー」
ミラは大きく息を吐いた。
(……ラムが心配だけど、これは偽善?だって、ラムとは出会ってからまだ短いし、顔を見たのだってさっきが初めて。でも、ラムのおかげで私は牢を脱出できた。それなのに、我が身可愛さに逃げ出して……私はラムを裏切った。だけど!ラムはあの時、逃げろって言ってた……。あぁもう!やっぱり考えがまとまらない。そうだ、だったら考えるな!考えても何もできないんだから、今は考えちゃ駄目だ。自分のことだけ考える。うん、そうよ。私が今考えるべきなのは、私自身のこと!)
ミラは、右手の短剣を強く握りしめた。
(建設的なことを考えましょ。ラムと別れたあの時、窓の外には人が集まってた。これまで看守と遭遇しなかったことは、偶然じゃなくて、あそこに集まってたと考えるのが自然。ということは、出口は塞がれてると考えた方がいい)
ミラは目の前の巨壁を見つめる。
高い壁だ。表面は滑らかで、人が手を掛けて登ることは現実的ではない。
ミラは目を瞑った。
(たとえ出口が塞がれてても、脱獄できる可能性はゼロじゃない!だって、私には固有技能がある!)
そのまま神経を集中させていく。
ミラは、自らの固有技能を”複製”と呼んでいた。
それは、自分の掌に乗る程の小さなものを複製するという固有技能。
ミラの認識では、便利ではあるが、戦闘面においては役には立たない固有技能だった。
しかしミラはもう、この固有技能の可能性を知っている。
この固有技能と共に、死線を潜り抜けた。
その経験が、ミラに新たな道を示す。
ミラは最後に大きく深呼吸をする。
漲る思いがあった。
(絶対成功させて、脱獄しよう。自由になるんだ!もう一度、みんなに会いたい!私は、こんなところで死ねない!)
ミラは固有技能を発動した。
「複製!」