悲運(アンラック)
「えっぐ、えっぐっ、ぐすん……」
嗚咽が響き渡る。
ミラは涙を拭うこともせず、膝を抱えて泣き続けた。
(どうして私がこんな目に合わなくちゃいけないの。私が何をしたっていうの……)
ミラは己の膝を強く抱きしめる。
脳裏を過るのは、もう何度目か数えられないほど繰り返した自問だ。
(あぁ神様、どうして私にこんな試練をお与えになったのですか。私には到底耐えられません……)
ミラは顔を膝に埋めながら、そっと目線だけを前に向ける。
薄暗がりの牢の中、鉄格子とその奥の壁だけがうっすらと見えた。
「ぐぅ〜」
腹の虫が鳴った。ミラは間抜けな音だと思った。
空腹を自覚すると、我に帰る錯覚を覚える。
「えっぐっ……お腹減ったよぅ……」
ミラが最後に食事をしたのは、あの日の朝だった。
そう、ミラの平凡な日常が終焉を迎えたあの日だ。
☆
「おはようございます!」
席に座っていたミラは、立ち上がってそう言った。
「ああ、おはよう」
応えたのはセウスという名の壮年の男。
ミラの上司にあたる人物だ。
ここは王都、冒険者ギルド。
早朝の空気はどこか張り詰めている。
冒険者の朝は早い。
しかし、冒険者ギルド職員の朝はもっと早い。
「そう固くせんでもよかろう、肩の力を抜きなさい」
セウスは優し気な口調でミラに声を掛けた。
「いえいえ、ギルマスの御配慮でいつも楽しく働かせてもらっていますから」
ミラは微笑みながら言う。
(魔法学校を卒業して最初の配属先が王都ギルドなんて、最初はどうなることかと思ったけど……)
「はっはっはっ、そうかそうか。ならばこれ以上言うまい。まったく、いつも朝一番に来て色々と用意をしてくれて……ミラには頭が上がらんのう」
「あはは、まだ新米ですから当然じゃないですか」
(その分給金も待遇も良くって、何より優しい上司がいてくれて最高の職場だわ)
ミラは茶の用意のために席を立ち、奥の給湯室へと足を運ぶ。
「おはようございます!」
給湯室で茶の用意していると、ミラの遠くの背後から快活な青年の声が聞こえた。
ミラは手元の作業を続けながら、学生時代から聴き慣れたその声に口元を緩ませる。
「おおアレン君か、おはよう。今日は早いのう」
ミラが給茶器を持って戻ると、セウスは、窓口のカウンターを隔ててアレンと話をしていた。
まだ職員以外にギルドを開けていない時間だ。それなのに、堂々と乗り込んで挨拶をしているこの男、名はアレンと言う。
ミラとは魔法学校時代からの同級生であり、超一流の冒険者たる『A級』の称号を持つ男だ。
「おはよう、アレン。まだ表の入り口は開けてないのに、どうやって入ったわけ?勝手に入っちゃダメじゃない」
「おはよう、ミラ。どうやって入ったかって? 裏口からだよ、普通に」
「それは普通とは言わないの!もう、バカ!」
セウスは二人のやり取りに頬を緩め、邪魔をせぬよう静かに席に戻った。
セウスにとって、彼らは二人とも孫のようなものだ。
ミラとは彼女が教会の孤児院にいた頃からの付き合いであり、アレンはギルド期待の超大型新人だった。
二人とも非の打ちどころがないほど優秀であり、そんな二人が少しぐらい無駄話をしていようが、小言を言う気にはならない。
「ねえ、今日は何でこんな早いの?」
「ああ、聞いてくれよ。今やってるダンジョンの攻略がうまくいっててさ、今日にも完全攻略できるかもしれないんだ」
「そうなんだ!アレンってば、ホントにすごいね。私も同級生として鼻が高いよ」
ミラは、はにかみながら言った。
「ミラだって、冒険者になってれば同じぐらい活躍してたと思うけどな」
「あははっ、まさか。それに私、今の仕事好きだし」
「まあたしかに、ミラは冒険者って性格じゃないからな……」
アレンは顎に手をやってミラを見つめる。
「ん?なに?」
「いや、相変わらずだなって」
アレンは笑って答える。
軽薄な印象は感じない、むしろ親密さを感じる笑い方だ。
「なにそれ、変なの」
「悪い悪い。でさ、もし今日中にダンジョンが攻略できたら、絶対祝勝会やるから。だから、その…… あれだ、そん時はミラも来いよ」
「えっ?もしかして……わざわざそれを言いに?」
「違っ…いや、違わないけど。ただ、なんかさ……ちょっと変な胸騒ぎがしてさ……」
アレンの声は尻すぼみとなった。それはまるで、気になる女の子の前で上がってしまう年相応の男の子のようで、とても史上最年少で「A級」となった伝説的冒険者と同一人物とは思えない。
「へえ〜、ふ〜ん。胸騒ぎ?アレンの"固有技能"ってそんなだっけ?」
アレンの態度に気分を良くしたミラは、つい軽口を叩く。
固有技能とは、魔法とは似て非なるものであり、その者の魂に宿る特殊能力である。
発現者の少なさ故に一般に広くは存在を知られていないが、魔法学校で高等教育を受けた二人にとっては共通認識だ。
「そんなんじゃないさ!あーもう、心配して損した」
「ふふふ、ごめん」
「まあいいや、それじゃあ行ってくる!祝勝会はここの酒場でやるから、仕事終わらせとけよな。じゃあ!」
「あ、うん。いってらっしゃい!」
ミラに別れを告げて、アレンは出発していった。
アレンを見送ると、ミラは一呼吸おいてから、朝の準備を再開する。
まもなくギルドは開業時間を迎えた。
ミラは書類仕事に窓口業務に、今日も忙しなく働いていく。
☆
それは、日が最も高く上がる時間のことだった。
ギルドには酒場も併設しており、ミラ達のいる窓口の向こう側では、どのテーブルにも肉と酒が置かれている。
一気に人口密度が高くなる時間帯、今日も今日とてギルドは賑わいを見せていた。
「チリン」
焼けた肉の油と麦酒の香りがごった返す室内、冒険者達の喧騒の中、窓口カウンターの卓上ベルが鳴る。
「はい、ただいま!」
昼休憩のために奥の休憩スペースに入ろうとしていたミラだが、そんなことはおくびにも出さず、窓口へと急いだ。
「……遅い!」
窓口に来ていたのは、まだ少年と言って差し支えない年齢の若い男だった。
「お待たせ致しました。お客様、本日はどうされましたか?」
(見ない顔、冒険者登録?)
ミラは経験から、なんとなくあたりをつける。
「冒険者に登録したいんだ。どうすればいい?」
「なるほど、それでしたら登録料の銀貨1枚と契約書にサインが必要です」
「……ああ」
少年は、懐から取り出した袋から金貨を取り出し、窓口のカウンターの上へと置く。
それを見て、ミラはギョッとした。
ここ王都において、金貨は銀貨の約二十倍の価値を持つ。
そして、金貨1枚の価値は、高級取りとされる「冒険者ギルド職員」であるミラの月給よりも高い。
「お客様、登録料は金貨ではなく、銀貨です!」
「これしか手持ちが無い。釣りは要らないから取っておけ」
「そういうわけにはいきません」
「いいから!」
少年の口調には苛立ちが混ざっていた。
さらに、「金貨」という単語が聞こえて、周囲の注目を集めていた。
これに少年は、余計腹を立てているようだ。
ミラは一連のやり取りで、一つの仮説を立てた。
(顔もかなり整ってるし、服も上等なもの。たぶんこの子、「商人」か「貴族」の子だ!でも、商人の子が釣りは要らないなんて言うわけないし……金貨をぽんと出せるあたり、ひょっとして「大貴族」の子なんじゃ?でも、どうしよう……)
ギルドの業務には、禁止事項が存在していた。
その一つが、貴族の身分を持つ者の登録を認めることだった。
「冒険者ギルド組合」は、既得権益とは異なる枠組みにある超国家組織だ。
権力の象徴たる貴族と、容易に交わるべきでは無い。
「分かりました、そうおっしゃるならこれは一旦お預かり致します」
少年が金貨を引っ込める気配は無く、金貨をいつまでも窓口カウンターに置いておくわけにはいかないため、ミラは一旦預かって、話を進めることにする。
「では手続きの前に、失礼ですが確認させていただきます。お客様は貴族様でしょうか?」
「ちっ、違うぞ!」
ミラの言葉に少年はひるむ。しかし、すぐに否定した。
ミラは少年の目を見つめる。
「分かってるさ、貴族は冒険者になれない。そんなこと子供でも知ってる。馬鹿にするな」
(こんなにハッキリ否定されたら断れないよ!どうしよう?ギルマスを呼ぶ?でも、なるべくならギルマスの手を煩わせたくないし……)
ミラは躊躇したものの、もう少し自分一人で対応することに決めた。
「分かりました。では、こちらが契約書になります。契約書の内容を説明させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「ああ」
ミラは通常の対応どおり契約書を読みながら、この少年にどうすれば諦めてもらえるのか、思考を巡らせる。
「--と、このように冒険者にはA、B、C、D、Eの5つのランクがあり、最初はEランクから始まります」
「知っているぞ」
少年の冷たい口調は今までどおりだが、よく見ると僅かに口角が吊り上がっている。
その表情は年相応で、まるで「憧れの冒険者になれる」という高揚を、隠しきれないかのようだ。
「ええ、そして次の条項は最も大切なところですので、よく聞いてくださいね」
ミラは一つ呼吸を置いて、最終確認を行う。
「冒険者は、命の保証の無い死と隣り合わせの職業です。しかし、ギルドの方では事故や死亡時の保証は一切できかねます。したがって、ギルド登録後の冒険活動は全て冒険者様自らの責任において行うことを約束いただけますでしょうか?」
「無論だ」
少年の不遜な態度にミラは心の内で溜息を吐く。そして、小さな覚悟を決めた。
「これで契約事項の確認は全てです。しかしですね……率直に申しますと、あなた様が冒険者登録されることはおすすめしかねます」
「は……?何だと?もう一度言ってみろ」
少年の高圧的な物言いに屈することなく、ミラはハッキリと言った。
「はい。あなた様が冒険者登録されることは、おすすめしかねます、と申し上げました」
ミラの言葉に、少年は暫く何も答えず茫然としていた。
まるで、生まれてから一度も否定されたことがなかった子供が、初めて否定の言葉を聞いたような顔をしている。
少年のあまりのショックの受けぶりに、ミラは一瞬たじろいだ。
しかし、もはや引き返すことなどできない。
「冒険者は、怪我や死と隣り合わせの職業です。クエストの最中に魔物に殺されることも、実はよくあることなんです。どうか、もう一度お考え直し下さい」
実は、ミラの対応は冒険者ギルド職員の受付マニュアルどおりのものだった。
新人冒険者の死亡率は高い。無駄な命を散らさぬため、ギルドとしては、登録の段階で振るいにかけたい思惑があった。
そのため、冒険者登録に来たのが年端もいかぬ若者だった場合、一旦は断ることが慣習化していた。
一度断られた程度で諦めるならその程度、ということだ。
「なんと、無礼な…… 」
それは、聞き取れない程のか細い声だ。
少年は俯き、目を閉じる。肩も微かに震えているようだ。
(もしかして、泣いてる?言い過ぎちゃったかな、でも…… )
「ごめんなさいね。でも、危険に身を晒すということは、あなただけの問題じゃないわ。もしもあなたの身に何かあったとき、悲しむ人がいないか、もう一度考えてみて」
ミラは親心から、少年を諭すように語る。
思い返せば、これが一番の引き金だったのかもしれない。
ミラの一連の窓口対応は、決して悪いものではなかっただろう。
ただし、決定的に、相手が悪かった。
「僕を、愚弄したな?」
「え?」
「僕を誰だか分かっての狼藉か?」
「は、はい?」
ミラにしては珍しく、とぼけた声が漏れた。
そんなことを言われたのは初めてで、一瞬戸惑ってしまった。
冒険者ギルド組合は、権力に縛られない超国家組織だ。
本来、そこらの貴族のお坊っちゃんに、我儘を通されるような筋合いは無い。
「お言葉ですが、冒険者ギルドは権力には干渉されません。仮にあなた様が貴族だったとしても、ここでは身分は通用しませんよ?」
少年の怒りは、さらに激しさを増し、怒髪天を衝く。
平民に反論されるなど、彼には到底理解できなかった。
「黙れ、平民風情が!もういい!ギルドマスターを呼べ!」
「申し訳ありませんが、ギルドマスターに即時面会出来ますのは、A級冒険者以上となってますので」
「おい、僕が命令しているんだぞ? 二度は言わない。命令だ、呼んでこい!」
「規則ですから」
忠実に職務を真っ当するミラ。
しかし、それはこの場において見事なほど裏目だった。
「くっ……そが!……だ」
「え?今なんと?」
「不敬罪だ!お前を、不敬罪に、処す!」
少年が声を荒げる。
この時、ミラは大きな違和感を感じた。
(まるで、話が噛み合わないわ。いくら貴族様でも、冒険者ギルドに権力が通用しないことぐらい知ってるはずなのに……)
目の前の青年の類い稀な容姿。
やけに不遜な態度。
そして、「不敬罪」という発言。
ミラの中で、パズルのピースが次第に組み合わされていく。
(まさか!? でも、そんなことって?)
「そこまでだ」
後ろで野次馬していたベテラン冒険者が、尋常でない様子の少年に声を掛けた。
「あんまりミラちゃんを困らせるもんじゃねえ。頭を冷やせ、男の癇癪は見苦しいぜ。な!」
そう言ったベテラン冒険者が、少年の肩に手を置いた刹那、
「ブワッッッ」
ミラが聞いたそれは、幻聴だったのだろうか。
「ドサッ」
ベテラン冒険者が床に崩れ落ちる。
次の瞬間、ミラは強烈な吐き気を催し、その場に座り込んだ。
それは、意識を失いそうになるほどの不快感だった。
顔を上げずとも、ミラには分かった。
この不快感の正体は、とてつもない魔力のプレッシャーだ。
そして、その発生源は、窓口カウンター1枚を隔てて、ミラの目の前に立つ少年だった。
カウンターに這い蹲るようにして、ミラはかろうじて顔を上げる。
少年の両の瞳が、黄金色に輝いていた。
少年の背後には、もはや立っている者すらおらず、ギルド内の全員が気絶しているのか、まさに死屍累々といった有様だ。
ミラは己を睨む黄金色の瞳の少年に恐怖を感じながらも、臥せた姿勢のまま、最優先で確認すべきことを問うた。
「も、もしや、あなた様は王子殿下でございますか?」
「今頃気付いたというのか! ふざけるなっ、僕を侮辱した罪は重いぞ。無礼打ちにされても文句はあるまい。もういい、お前の処分は後回しだ! ギルドマスターを呼んでこいっ!」
「は、はい!ただいまっ!」
未だ立つことすらままならないが、ミラは反射的に返事をする。
理不尽という言葉がミラの脳裏を過った。
その時、
「ただいま参上致しました。その必要はございません。私が当ギルドマスターのセウスと申します。この度はどのようなご用件でしょうか?」
ミラが呼ぶより早く、異常な魔力の放出を感じ取ったセウスが、ミラの隣に駆け付けた。
大きなその背中に、ミラは少しだけ安堵する。
「お前がギルドマスターか。ここの職員の教育はどうなっている!不敬千万である!」
「ご不快な思いをさせてしまって、誠に申し訳ございません。ですが全ては、私の不徳の致すところでございます。この者の処分につきましては、何卒ご寛大な措置を」
「ならん!影よ、やってしまえ!」
次の瞬間、首筋の裏へ鋭い痛みが走り、ミラはそのまま意識を失った。