ある晴れた日のこと
「私、晴れ女なのよ」
彼女は言った。
「私がいる場所には絶対に雨が降らない。
だからこうして、旅をして暮らしているわけ。
みんな、雨が降らない時期が続いたら、困るでしょ?」
そう言った彼女は、馬車の荷台からぶら下げた足を楽しげに揺らしていた。
僕は、それが気になって尋ねた。
「どうしてそんなに楽しそうなの? ひとつの場所に居続けられないなんて、きっとさびしいよ」
彼女は少しの沈黙の後、答えた。
「だって私、旅が好きだもの。好きなことができて、悲しい人はいないわ」
僕はなぜだか物悲しい気持ちがして、それが彼女に伝わってしまわぬよう、空を見上げた。
雲ひとつなく、混じりっ気のない青一色の空高くに、点となった一羽の鳥が飛んでいる。
広い空を悠然と飛ぶその鳥は、仲間の影がないその空に、孤独を感じてはいないだろうかと、ふと気になった。
「さびしくないとは、言わないんだね……」
ぽつりと呟いた僕の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、彼女はなおもぶらぶらと足を揺らす。
「私さ、雨は生まれてこのかた、一度も見たことがないんだ」
唐突にそう言った彼女を、少し顔を横に向けて見やる。
頭の後ろでひとつに束ねた薄茶色の髪の毛が、荷台の揺れに合わせてその身を躍らせる。
若干の憂いを帯びた、日に焼けた横顔はとても綺麗で、わずかに高鳴る心臓に戸惑いながら僕は彼女の声に耳を傾けた。
「不思議だよね。このなんにもない広ーい空からさ、水が落ちてくるんだよ。
やっぱりあの白い雲の上には誰か住んでるのかなって、ときどき思うんだよね」
腰の後ろに手を突き空を見上げながら彼女は言う。
僕もつられて空を見上げると、先ほどの鳥はもう見えなくて、ただただ青い空が広がっていた。
雲ひとつない空は、この季節には珍しいくらい透き通っていて高く、地上のすべての想いをその胸に受け止めてくれそうに思えた。
荷台がガタゴトと音をたてて揺れる。
「見てみたい?」
「え?」
彼女はきょとんとした顔でこちらを向いた。
空をそのまま閉じ込めたみたいに澄んだ青い瞳が僕を見ている。
なんだか落ち着かない気分になった僕は、彼女から目を逸らし、視界を流れる地面を睨みつけて言った。
「雨だよ。見てみたいって思わない?」
彼女は息を漏らすように笑った。
「そりゃあ、見てみたいけどさ。私が少しでも近付くと、すぐ消えていっちゃうんだよ。
さすがに雲を捕まえられるような人は、いないでしょ?」
冗談じみた響きを持たせてそう言った彼女は、それに、と続けた。
「いくら願っても、叶わないことはあるからね。こればっかりは自分にはどうしようもないんだ。
だから、最初からそんなに願わないようにしてるんだ。雨が見たい、だなんて」
悲しくなるだけじゃない、と呟くように言った言葉は、ぽろりと荷台からこぼれ落ちて、流れゆく景色に置き去りにされるかのように消えていった。
僕はそれを聞いて、決心が揺るがぬように手のひらをぐっと握りしめた。
「見せてあげる」
そう言って立ち上がった僕を、彼女は目をぱちくりとさせながら見ている。
彼女の視線を身に受けて、思わず赤くなる顔を空に向ける。
僕は大きく脈打つ心臓を、深呼吸をしておさめると、両手を空にかざした。
両手の先、はるか遠くに意識を集中させる。
つと額を一筋の汗が這うが、それを無視して続ける。
一点に集まった意識は、次の瞬間には見えない手にかき乱され、なかなか形にならない。
滝のように流れ出る汗はつるりとした顎の先にたまり、滴となって落ちていく。
見上げる先には小さく雲が浮かんでいた。
もう少しだ。もう少しで……。
「えっ、ちょっと! なにしてるの!? 震えてるじゃない、やめなってば!」
思わず力んで震える両手を見て、あたふたと慌てた様子を見せている彼女を横目で見ると、不思議と力がわいてきた。
いけるぞ。こい、こい!
強く念じながら意識を送り続ける。
額からは汗が吹き出すが、それが目に入るのも気にせず続ける。
するとどうだろう、先ほどまで青く澄んでいた大空のなかに小ぢんまりと浮かんでいた雲は、徐々にその大きさを増し、真っ青だった大空に白い穴を広げていった。
その様子を目を丸くして見ている彼女を見て、思わず口角が上がる。
あと一押し……!
「やめなさいってば! ああもう!
おじさん、御者のおじさん! すみません! 少しだけ馬車を止めてください!」
すぐそばで叫ぶ彼女の声を意識の端で耳にしながら、空に浮かぶ雲に力を込める。
空に一つ浮かぶ雲は、少しずつ形を変えながらどんどんと膨らんでいく。
ポタリ。
静かな水音を立てて落ちてくるそれに気付いた時には、僕は既に汗でびしょぬれだった。
すぐに勢いを増し、荷台で空を見上げる僕たちに降り注ぐ雨は、火照った体を心地よく濡らした。
先ほどまで騒ぎ立てていた彼女がしんと静かなことに気付き、腕で汗だか雨だかわからないものをぬぐいながらそちらを向くと、いつのまにやら僕の腕をつかんでいたらしい彼女は空を見上げ、その顔に水のしずくを受けながら、ワニのような大口を開けていた。
「はは」
その顔がおかしくてつい笑ってしまった僕に、彼女は顔を赤くすると、軽く握ったこぶしで僕の頭をこつんと叩き、笑った。
「ふふ」
「あっはは!」
「ふふ、ちょっと、笑わないでよ! ふふふ!」
「いや、はは! だってさ! あははは!」
それを見て愉快な気持ちになった僕が笑うと、彼女もまたつられて笑いだす。
急に降りだした雨に慌てた御者が、慌ただしく馬車を再び動かすのを荷台の揺れで感じながら、僕たちは笑い続けた。
ずぶ濡れになった顔を拭きながら、雨の止んだ空を見上げると、色鮮やかな虹が、青い空を優しく彩っていた。
それを見て子どものようにはしゃぐ彼女は太陽のように眩しくて、僕は思わず目を細めた。




