0-4.状況は極めて厳しいと弓兵は顔をしかめる
首尾よく森の民との交易で商品を仕入れる事に成功した私は、街へと続く道を馬で意気揚々と進んでいた。
彼らとの取引に使った麦や芋といった各種穀物類を満載していたために、行きは随分と時間が掛かってしまったが、帰りは積み荷が軽い品ばかりに変わったので、おおよそで半分の日数で街へと帰る事が出来るはずだった。
道中にこれといって大きなトラブルもなかったし、これまでにないほどに取引の方も順調だったし、今回の商いが上手く行けば、いよいよ街に自分の店を開くための目標額にも手が届くはずだった。
そんな明るく開けた未来にだけ思いを馳せながら、何ら不安もなく笑っていられる程に順風満帆だったはずの私の最後の行商の旅は、最後の最後で大きなトラブルに見舞われようとしていた……。
「くそっ! なんだってこんなことに!」
私は決して短気ではなかったはずだし、そんなに口が悪い方でもなかったと思う。
むしろ臆病かつ用心深い方で、安心と丁寧いった評判と信用だけを武器に、これまでほそぼそと商売をしてきたという自覚があるほどだった。
そんな私の口からも思わず悪態が漏れてしまう程のトラブルが、私の駆る馬車のすぐ後ろを追いかけて来ていた。……具体的には、無数の魔物達の姿をとって。
──これがせめて山賊などであったなら、あるいは命までは取られないで済むかもしれないのに!
無論、そんなことになったら街に店を開く事など、夢のまた夢。仕入れた商品もろとも商売の種銭さえも奪われれば、下手をすれば廃業しなくてはならなくなるかもしれない……。
だが、それでも、まだマシだった。
せめて命さえあれば。多少なりとも服のあちこちに縫いこんで隠してある金子などが、多少なりとも手元に残ってくれたなら、まだ幾らでもやり直せる道はあるはずだったのだ。
……そう、生きてさえいれば。
──ちくしょう……。せめて……。せめて、魔物でさえなければ……!
脳裏に荷台に積んでいる美しい装飾品類などには目もくれずに、餌である私や馬に飛びかかってくる魔物の群れが脳裏に浮かんだ。
──くっそぅ……。こんなところで……。こんな所で死んでたまるかぁあ!
必死に荷馬に鞭を入れるも、荷としてそこそこの重量物を積んでいるし、荷台そのものが逃げる馬の足かせになってしまっていた。……駄目だ、このままでは……。
「おお、神よ……。我を救い給え……。もしお救いくださった暁には……」
無意識のうちに、必死に神へと祈りながら。おそらくは真っ青になりながら手綱を力いっぱい握りしめていた事だろう。
そんな私の目に、その異様は……。いや、それは紛れも無く人の形をした影であったのだと思うのだが。だが、それは明らかに異形の影でもあったのだ。
左右を深い森に囲まれた道の道側から……。惑いの森と名付けられた深い森へとつながる雑木林の中から、その影はこつ然と現われていた。
フラリといった様子で、足取りもひどく妖しく。そして、特に気負いも、焦りもなく。私が気がついた時には、既に森から道へと現れていて。そして、その真横を掠めるようにして私の駆る荷馬車が駆け抜けていく。……その影は、そんな私へと、一瞥をくれながら……。
紛れもなく、その口に、笑みを浮かべていたのだ。
『そのまま疾走れ』
見た目はエルフだった。……恐らくは、エルフだったのだと思う。
赤黒い血に汚れた髪の隙間から覗くのは、ひどく特徴的な形をした長い耳。そして、やけに耳慣れない響きをもった、独特のフラットな……。癖が全くないことが返って強烈な個性として感じられる、そんな不思議なイントネーションでもって口にされた言葉は、それでも聞き間違えるはずもない妖精族の主流言葉のひとつであるエルフ語で……。
一瞬しか見えなかったが、それだけは、間違いなかった。だが、その異様は……。その見る者を威圧するあらゆる要素が、それを否定したがっていたのだと感じられた。
全身を返り血で赤黒いマダラ模様に染めた血まみれの姿は。そして、服に覆われていない露出した部分に禍々しく絡みつくようにして刻まれた無数の刺青は。そして、その手にした赤茶けた……。まるで錆びついたナタかマチェットのようにも見える、短剣にしては随分と長い刃渡りをもつショートショード並の長さを持つ短剣は……。
それを手にしたまま、そのエルフらしき人物は駆け出していた。
私の背後に向かって。私を追いかけてきた無数の魔物どもに向かって。
──無茶だ……。
いくら腕に覚えがあったとしても、所詮は多勢に無勢。
一人で十匹近い魔物や魔獣を同時に相手をして、勝てるはずもない。
ましてや、武器こそ持っていたようだったが、防具は明らかに単なる平服しか着ていなかったし、その上に皮鎧すらも着ていなかったのだ。そんな状態で、一撃でもまともに攻撃を食らおうものなら……。
ズドム。
その瞬間。腹の底に響く、地響きにも似た振動音が響く。
それは魔物の群れの先頭を走っていた大柄な豚顔の魔物、オークの頭が吹き飛ばされた攻撃によるものだった。
馬車の車輪ですらめり込むことを許さない程に、固く踏み固められている地面に深く刻み込まれたひび割れの中に浮かぶ足あとが、その踏み込みの凄まじさを物語っていた。
『ひとつ』
そんな声と共に、ビューと何かが盛大に吹き出すような奇妙な音を立てながら、まるで噴水か何かのように首のあたりから血を吹き出させて。ゆっくりと自分の方に向かって倒れこんでくる、頭部を失ったオークの死骸。それをブライドに使いながら素早く立ち位置を変えて。死体に押しつぶされる寸前に、その影から駆け出すようにして飛び出していって。すれ違いざまに、手にした短剣を一閃、二閃、三閃、と振り抜く。
『ふたつ、みっつ』
先頭のオークの後ろに付いてきていた二匹の類似した体型のオークが思わず手にしていた武器を取り落とし、空いた手で首筋や手首をおさえながら、わめき声を上げてのけぞっているのが見えていた。
「あっ、あぶない!」
段々と距離が離れていこうとしている中、それでもエルフの少女が無数の魔物に取り囲まれて、その分厚い肉の壁に覆い隠されていくのだけは、やけにハッキリと見えていた。……が、見えたのは、そこまでだった。
……果たして、そこで何が起きたというのか。
吹き上がる血しぶき。怒声。そして悲鳴。次から次へと沸き上がってくるわめき声と叫び声と甲高い悲鳴が、やけに長く聞こえた気がした。
……それらが、次第に収まっていく中で。一匹、また一匹と魔物たちが地面に力尽きて崩れ落ちていきながら……。その死骸の山の中の中から。恐らくは、最初の位置からほとんど動いていない状態のままに。その全身に返り血を浴びた血みどろのエルフは、ただ、そこに立ち尽くしていたのだった。
◆◇◆◇◆
「……本当に助かった。ありがとう」
そうおずおずと、戸惑いながら話しかけてきた優男(あんまり認めたくはないのだけど、かなりのイケメンで、しかも優しげでエエ声ェ~な兄ちゃんだった)は、ナッシュと名乗って、自らのことを行商人だとか言っていた。
なんでも、この道をず~っと先にいった所にある取引所とやらで、森の奥で生活しているエルフとかドワーフとかの商人達と、穀物と引き換えに色んな装飾品とか薬品とかを仕入れた帰り道だったんだそうな。
そんなイケメン兄ちゃんことナッシュに「貴方は誰なのか」と聞かれたから、素直に「アルシェ。旅のエルフ。貴方が襲われているのを見かけたから助けに入った」とできるだけ嘘を交えずに答えておいた。
「旅の……」
チラチラとこちらを見てくる視線を追いかけてみると、あっちこっちが引き裂かれてる上に返り血でどろどろに汚れてしまっている服があって。……う~ん。ダガーでの戦闘って、爽快感あるし、すっごく楽なんだけど、これがネックだよなぁ、とか。
「水、ない?」
「多少なら」
「譲ってくれない? あと、商人ならボロ布とかも持ってるんじゃない?」
「売ってくれと言われれば、そういった細々とした物も売れますが……」
何か言いにくい言葉を口にするような素振りを見せながら、イケメンが何やら「それよりも魔法で綺麗にしたほうが簡単だと思いますよ」とか訳の分からない事を言い出した。
「マホウ?」
攻撃魔法とか補助魔法とか回復魔法とかで、このばっちぃ肉片までへばりついてる有り様な、血みどろボディがどうにか出来るとでも思ってるのだろうか。
「生活魔法の【洗浄】ですよ。……まあ、それくらい汚れてると流石に【浄化】でないと綺麗にならないと思いますが」
旅をする者には必須のスキルでしょう、とか当たり前みたいな顔をされて言われても困るんだけどね……。つーか、そもそも、そのセーカツマホウって何だ……。
「ん~……。良く分かんないけど、そのセンジョウとかいうの、かけてくれる?」
「……もしかして使えないんですか?」
「うん」
それを聞いたイケメン……。ああ、ナッシュだったっけ? あからさまに警戒心を浮かべて、私から一歩遠ざかっていた。
「……つかぬことをお伺いしますが、これまではどのように旅を?」
「さあ?」
「さあって……。これまでどうやって旅をしてたんですか」
「旅ねぇ……。私の旅は、まだ始まったばかりだったからねぇ」
具体的には、今日から。この森の奥にある惑いの森からスタートして、いきなりコレに遭遇した訳だから……。まあ、間違っちゃいない。
「……今日、森から出てきたということでしょうか」
「そういう事になるね」
さほど間違えてもないし、そう大きく意味が違ってる訳でもない。
そんなニュアンスでうなづきながら、ホレ、ホレ。そのセンジョーとかいう便利そうな魔法かけてクレクレ。ほら、どーんどこい、どーんと。かもーんって、仕草でやってみせると、ナッシュはようやく納得したのか、それとも諦めただけなのか。仕方ないなぁって感じの顔で近寄ってくると、私にオデコの辺りに手のひらを向けて……。
「洗浄」
その魔法(なんだよね?)らしき代物によって、私の汚れきっていた全身が、まるで洗い流されたみたいに綺麗になっていくのが分かった。オデコの辺りから、何かが剥ぎ取られるようにして、足元にボタボタボトボト~て盛大に音を立てながら、表面部分の汚れ(血とか肉片とかの)が流れ落ちていったから。
「……なにこれ、すごい。っていうか便利過ぎ」
なんっていうか、冗談みたいに汚れが落ちたっていうか、表面を洗い流されたって感じ?
撥水処理した布の上を汚れた水がトゥルンって落ちていったって感じの。
う~ん……。これ、すごいなぁ……。
「やっぱり染みになった部分の酷い汚れは落ちていませんね。……浄化」
今度はなにー!?
なんか全身を頭のてっぺんから足の先の方までツツーってでっかい線?(としか言い様がない感覚の何か)にべろーって舐められたみたいな気持ち悪い、奇妙な感触がした。
そのせいでゾワワワワ~って肌が粟立ってたんだけど、気がついた時にはなんか綺麗になっちゃってたんだよね。
具体的には、汚れがべったり下着の方にまで染みちゃって黒ずんでたトコとか、汚れが落ちきってなかったトコとか。全身、綺麗さっぱり、汚れが落ちちゃってた……。
「なんか変な感じ」
なにしろ服をペラってめくってみたら、下着の方まで綺麗になってたんだから。これって、服を着たまま丸洗いされたってことだよね……? そら、違和感感じるはずだわ。
そんな私の感想にナッシュは苦笑いを浮かべていた。
「確かに初めて経験するとびっくりするでしょうね。でも、見ての通り、とても便利ですし、旅をする者には特に必須になる魔法です。できるだけ早く覚えた方がいいですよ。……特に、貴方は女性なんですから。旅の間に身を清めたりするのは、色々と難しいでしょう?」
特に一人旅とかだと、湖でのんびり水浴びという訳にもいかないでしょうし。そう言いながらゴソゴソ荷物を漁っていたと思ったら。
「ああ。こんな所にあった。……助けて貰ったお礼という程の物ではありませんが、生活魔法の入門書です。私のお古になりますが、よかったら差し上げます」
そう言って荷台から取り出してくれたのは、本の横の方とか手垢で黒く汚れてる上に窪んだ形になるほどに擦り切れてる、やたらめったらに年季の入った、随分と読み込まれた形跡の目立つ一冊の本だった。
「……ほんとに、お古って感じだね」
「すでに何十人もの手を渡ってきた年代物の本ですからね」
近頃は紙の値段も上がって、本の値段も上がってきていますからね。へ~。そうなんだ~。とか何とか、適当に話を聞き流しながら、ペラリとめくってみたが。
「……ねえ」
「はい?」
「これ、何語で書いてんの?」
「ちょっと形式は古い物になりますが、一応、大陸の共通語ですよ」
ミミズが這ってるような線で書かれた文字らしき物の羅列。一応、文字らしき物だというのは分かるけど、ぶっちゃけアラビア文字か象形文字にしか見えない。
「これが、きょーつーご、ですか……」
「そうです。……読めませんか?」
「全く」
そんな私の困惑顔を見て「やはり、そうでしたか」とか、一人で変に納得している風なナッシュを横目に、私の表情はだんだんと険しくなっていたんだと思う。
「えーと……アルシェさんでしたか。貴方は……」
「アルシェでいいよ」
「ではアルシェ。貴方は、先程からずっとエルフ語で話していますね」
「そうなんだ」
「そうなんですよ」
自分の話せる言葉で話してるだけなんだけど、どうやら私の使っている言葉はエルフ語だったらしい。まあ、エルフなんだからエルフ語を話しているのは、むしろ当たり前なんだろうと思うけどね……。
「共通語は話せないのですか?」
「私が話せるのは、コレだけだよ」
「やはりそうですか。となると、ちょっと困ったことになるかもしれませんね」
実は出会った時に私がエルフ語で話しかけた事もあって、ナッシュはず~っと、私にエルフ語で話かけてくれていたらしい。何でも仕事をする上でどうしても必要になったからって理由で、エルフ語とドワーフ語を覚えたのだとか……。
トライリンガルかよ。このイケメン、超パネェ。
「では、今から共通語で話してみますね」
なんとなくドイツ語っぽく聞こえる感じがするけど、意味の方はさっぱり分からない。
「今、何って言ったの?」
「貴方は惑いの森で育ったのですか、と聞きました」
「うん、さっぱり分からない」
どうやら私はエルフ語しか聞き取れないし、喋れないらしい。
「どうやらエルフ語しか駄目なようですね。……まあ、大森林の民はみんな自分達の固有言語でしか意思疎通が出来ないようですから、貴方が特別に珍しい訳じゃありませんが」
そう、前置きをして。
「アルシェ。貴方が何故、森から出てきたのか知りませんが、私は貴方に、このまま森に帰るように勧めることしか出来ません」
なぜなら“壁”のコチラ側は人間の世界であり、そこで使われている言葉は人間族の共通言語である共通語であるからだそうだ。そんな世界で生きていくためには、どうしても共通語を話せる必要があるらしいのだ。
ナッシュみたいなエルフ族と商売をしている商人であれば、エルフ語を使いこなせるが、それ以外の大多数の人間たちはエルフ語など使いこなせる者は殆どおらず、なおかつ……。
「貴方は、まだ知らないと思いますが……。壁のこっち側、いわゆる人間の領域では、貴方のような亜人種は、基本的には迫害される立場にあるのですよ」
ジンマタイセンとかいう大きな戦争が終わって、まださほど経っていない事もあって、その時に人間と敵対していたマゾクを筆頭としたダイシンリンに住むアジンジュ達やマジュウゾクなどは未だに根深い対立関係にあるし、こっちの世界では基本的に亜人種は存在そのものが忌避されているし、色んな意味で迫害されているとか何とか……。
「正直、言葉の意味とか、まだよく分かってない部分も多いんだけどね。でも、私が人間の世界で生きていくのは、いろんな意味で難しいんだってことだけは良くわかった気がする」
「それじゃあ、森に帰ってくれますか?」
「いや、そうしたいのはやまやまなんだけどね……」
>クエストが追加されました。
>助けた旅の商人に助力を願い、人間の街に行こう!
そんな楽をさせる訳がねぇだろうがとばかりに、雲の上から小憎たらしいあんにゃろうの指示が届いていたりするんだな、これが。
「それが出来ない事情ってものがあるんだよ」
「……そうですか。しかし、貴方が人間の街に行っても、多分、ろくなことにはならないと思いますよ」
「私もそう思うんだけどね……」
前途多難というか、何というか……。私の旅は、出だしからいきなり難易度ベリーハード臭かったのだった。