2. イタさを伴う大いなる幻影
ここは嘘八百の世界である。
────とは、わたしの世界の史実(真実かは定かでない)を知っているわたしの個人的意見に他ならないが、それでも、わたしからしたならそうなのである。
「おっせーぞ、六天!」
「悪かった。いろいろあってね」
わたしを保護してくれた第六天魔王はすまなそうに、しかし、にこやかにそう言った。
そうか、第六天魔王は自称からすでに呼称になっているのか……誰も何も突っ込まなかったのだろうか。
しかし、いろいろあったのは間違いなく、寧ろわたしからしたなら“遭った”と言っても過言でないのだが、それを目の前の彼が知る由もない。
その彼が、よりによって“六天”と略したこともまた、わたしの知る由もないように……もう一度言うが、そこについても誰か突っ込まなかったのだろうか。
「ああ、紹介しておこう。彼女は……」
第六天魔王がわたしを見て、そして首を傾げた。
「大塚信乃です」
「そう、大塚信乃さんだ」
件の喫茶店には一時間はいたと思うが、そういえばお互い名乗りを上げていなかったなと思い至る。
戦国的……いや、JAPON的にそれはアリだったのだろうか。
「僕は織田信長と言います。こちらの単細胞はこう見えて明智光秀なんですよ。意外でしょう?」
「今名乗ったのかよ!つか、後付けいらねぇし!単細胞じゃねぇし!」
光秀の言うことは最もだったが、それより彼が単細胞であるという告白の方が衝撃的だった。
確かに意外性は抜群だ。
あちらでは知将と名高かったのだけど……そうか、これがパラレルワールド。
第六天魔王の名前については言わずもがなである。
とりあえず名乗りを上げたところで「仕事があんだよ、早く来い!」と信長は連れ去られてしまった。
……で、わたしはどうしたら。
現在、何となく織田信長に連れられSHINJUKU(こちらは表記が何故かカタカナらしい。途中、看板や住所表記板が全てそうだった)ど真ん中に位置する超高層ビルの最上階にいるわけだが、彼がいなければ、どこからどう見てもわたしは不審者そのものである。
そもそも戸籍もないだろうに、行く宛てなぞあるはずもない。
ようやく、ここがパラレルワールドなのだと実感した。
「あの、お客様?」
途方に暮れた背中におずおずと声が掛けられる。
これぞメシアか!と勢いよく振り返れば、男性にしては小柄な猿顔の青年が人好きしそうなくりっとした目でこちらを見ていた。
そして考える。
お客様として返事をしていいものだろうか。
過程を考えると決して招かれたとは言えない。
何故なら信長とは、わたしの行く宛てや今後のことを相談したわけでもなく、オスカー・ワイルドの作品について、あちらとこちらの相違点を話しながら何となくここまで来てしまっただけなのだ。
しかし、あれは実に実のある話題だった。
まさか幸福の王子がこちらでは本当に幸福になっていたとは恐れ入る。
それでは何の捻りもないと言われればそれまでだが、わたしとしては結構な衝撃だった────何て面白味のない話に成り下がってしまったのか、と。
幸福の王子はああいったエンディングだからこそ物語が輝くのに……そう、あの話は“馬鹿正直は本当に馬鹿を見る”という教訓を含んでいるのだ────と、少なくともわたしは考えているが、いち個人の見解であってオスカー・ワイルドが意図したものであるかは、また別の話でもある。
おそらく違うだろう。
「あの、お客様?」
はっと我に返る。
目の前に人がいたというに、視線も思考も完全に天井を向いていた。
伺うような猿顔の青年に申し訳なく、苦笑いで応える。
「すみません。わたし、お客様じゃないんです」
「あちらにお部屋を用意しましたので、ぜひ」
伺うような視線は一瞬にして晴れやかな笑顔になった。
くりっとした目は弓なりに細められ、人好きしそうな雰囲気が一気にグレードアップする。
が、彼は全くわたしの言葉を聞いていないようだった。
「あの、違います。お暇します」
「信長様に留め置かれるよう言付かっております」
いつ言付かったのか。
「明智より、お電話にてそう仰られたと伺っております」
「電話?」
いつ、そんな電話を……信長と出会ってから今までを回想する。
一つ、思い至ったのは件の喫茶店でのことだが、人の電話を盗み聞く趣味はないので、結局わからず仕舞いだった。
しかしだ。
ここはお客様としてありがたく部屋に通されるべきかもしれない。
わたしが知らないだけで、パラレルワールドでは落ちてきた(と表現するのが正しいかはわからないが)人間を保護する条例でもあるのかもしれないではないか。
現に信長はその存在を認識していた。
それは、稀なのかよくあるのかは別として、そういう事象がこちらでは肯定されているということでもある。
人好きしそうな青年を見やる。
彼は今だにこっと笑顔を浮かべ、わたしの答えを待っていた。
「お世話になります」
やることは決まった。
ここはおそらくパラレルワールド。
全てはファンタジーに見せかけた立派な現実である。
さきほど少しだけ寛いだ喫茶店の名を思い出す。
La Grande Illusion────大いなる幻影。
そうであればと願ったが、すぐ思い知ることになった。
何故なら、一歩踏み出した先でうっかり滑って転んだ際、打ち付けた額はしっかりと痛みを主張したのである。
痛いし、イタい。