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サイレンの魔女

サイレンは海に哭く ~レルケ~

作者: 笹門 優
掲載日:2026/10/11

 サイレンの魔女シリーズ。 今回はローファンです。



 デンマークの首都コペンハーゲンでは人魚姫の像が悲しげにこちらを見つめている。


 コペンハーゲン港の海岸沿い、ランゲリニエ公園の近くで見られるそれはかの有名なアンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフにしたブロンズ像だ。

 アンデルセンが『人魚姫』を発表したのは1837年。

 そのお話の元になったのは14世紀頃から何処からともなく流布しだしたハヴマン――今で言うマーマン――伝説『アウネーテと人魚』であった。


 もっとも、人魚という存在はそれよりずっと以前から知られていた。


 人間は全ての生物を産みだした母なる海への畏敬(いけい)と憧憬(どうけい)から、自らと魚を融合させた「人魚」という存在をその内面に欲していたのだから。



     <*)) >=< <*)) >=< <*)) >=<



 川浪(かわなみ) 翡翠(ひすい)は二十歳になったばかりの青年だ。

 このデンマークの地で勉学に務める留学生である。

 その専攻は環境学。 日本だけではなく世界にも必要なこの学問を学びに来た好青年なのだ。

 真面目な性格だが、机にべったり貼り付くタイプではなく自らの目で確認するフィールドワークを好む質(たち)であり、今日も今日とてタブレットを片手にコペンハーゲンの地を歩き回っていた。


 もう何度も来たコペンハーゲン港、その海岸沿いにあるのはランゲリニエ公園。

 そこへ南側から入ると北欧神話の女神と四頭の雄牛を象った巨大噴水『ゲフィオンの噴水』が、続く道には日本から寄贈された二百本の桜並木があり、そしてその先にアンデルセンの童話をモチーフにした『人魚姫の像』がある。

 しかしこの『人魚姫の像』、実は世界三大がっかりのひとつに挙げられてしまう様な、そんながっかりさんなのだが。


 そんな場所へ翡翠が来るのはここからいくつかの施設が見られるからだ。

 陸側から人魚姫の像を見ていると、その背後に20基の洋上風力発電の風車『ミデルグルンデン』や、ゴミ焼却発電所『コペンヒル』が一緒に見えてくるのだ。

 彼の様な人間は、ここへ来るという行動を外せない。


 翡翠は公式データを参照にしながら20基の風車(ミデルグルンデン)の動きを見ている。


 デンマークは風の強い国だ。

 それだけなら日本でも直ぐに運用出来そうだが、それは災害大国でそのまま使える技術ではないという。

 落雷、地震、風の不安定さ、海の深さなど解決しなくてはいけない問題はとても多い。

 とは言っても『そのままでは使えない』だけだ。 間違いなくその礎(いしずえ)になる技術ではある。

 まだ学生である彼は、今は考えるだけだがいずれはそれを成し遂げるつもりでそう言った施設を巡り、考え、仲間たちと討論していた。


 彼は今までそうしてきた様に人魚像の向こう側に見える施設を写す。 今は気づけなくても後に気づけるかも知れない『何か』を記録する事も、彼にとっては必要な事だ。


 そんな彼がタブレットをかざす先にふと施設じゃないモノが映り込んだ。


 それは青。

 鮮やかとしか言い表しようのない色彩(いろ)は空よりも海よりも輝いて見える。


 それは瑠璃(るり)。

 グラデーション掛かった瑠璃色(コバルトブルー)に髪を染めた、恐らく同い年くらいの女性だった。


 艶(つや)やかなそれは宝石の様な輝きと鮮やかさを持っており、染めた様な人工的な彩色を感じさせない。

 そこへ風に踊る桜色の花びらが混じり、より幻想的な光景を完成させた。

 澄んだ色調(いろ)に翡翠は一瞬で心を奪われる。

 呼吸すら忘れ、タブレットに映る彼女を注視する。 してしまう。


「…………?」


 その視線を感じたのか、タブレット内の彼女がこちらを見た。


 ――棚引(たなび)く髪が風に舞う。 その背景には舞い散る桜の雨。


 ふわり、と。

 言葉にするならそれだけの穏やかすぎる舞い。

 なのに目は釘付けにされたかの様に動けない、魅惑の碧(あお)。 背景にある青空よりも深く見える青は空色ではなく海色でもない、鉱物的でいて動物的な青だ。


「……あっ!」


 彼女の、高い声が耳に浸透する。

 川辺に唄う小鳥の様な声だ。


 耳にしたその声に「ああ、そうだ」と翡翠は思う。


 自身の名前「翡翠(ひすい)」と同じ漢字を使う小鳥「翡翠(かわせみ)」。 彼女の色彩(いろ)はとてもそれを思わせるのだ。

 光を含み輝かせる、透き通る様な自然色。


「ごめんなさい、邪魔をしてしまったかしら?」


 高く、澄んだ声。

 それは心が震える程の声だった。


 見た目も声も、綺麗すぎる『異質』に翡翠の視線は動かない。

 呆けた様に動かせない。


(人魚っていうのはこんな感じの存在なのかな?)


 視界内に入っていた人魚姫を認識し、停止した思考を何とか取り戻した彼は、慌てて彼女の言葉を否定する。


「いやいや、邪魔なんてしていないよ!? むしろボクが邪魔をしていた! ごめん!」


 慌てすぎて半分以上日本語混じりでの謝罪だったりする翡翠だ。


 ちなみにデンマークの公用語はデンマーク語だが、英語の識字率が非常に高いという。 だからという訳でもないが、翡翠もこちらではデンマーク語と英語を合わせて話していた。


「……でもそれを撮っていたんでしょう?」


 はっきりと聞き取れずとも彼の言いたい事は把握できたのだろう。

 彼女の指さすのは恐らく人魚姫の像だ。 と言っても像も20基の風車(ミデルグルンデン)もゴミ焼却発電所(コペンヒル)もある方向は大体同じでほぼ直線上に並んでいる。

 指し示すだけでははっきりとは判らない三者であった。 間違いないのは海の方向を指している事くらいだろう。


「ボクが撮っていたのはミデルグルンデンとコペンヒルだよ」


 このふたつの巨大施設が被写体であるなら、タブレットの隅に映り込んだ彼女なんて邪魔と言える様なモノではない。

 むしろ翡翠的には入り込んでくれてありがとうと感謝したいくらいだろう。

 それ程までに彼女の存在は彼に強い衝撃を与えていた。


「あれを?」


 そう言われて彼女は不思議そうな顔をする。

 風車も発電所も観光名所というには微妙なモノだ。 もっとも、ここにある人魚姫も内情は同じ様なモノなのだが。


 何せ『彼女』、全長が80㎝程しかない、超小柄な人魚さんなのだ。 80㎝となれば鰤(ぶり)や鮭(さけ)と同等のサイズである。 鮪(まぐろ)は言うに及ばず場合によっては鱈(たら)よりも小さい。

 愁(うれ)いを帯びた視線で海ではなくこちら側――陸を見つめる、膝程の高さの人魚姫。

 人魚の姿であるから、陸地にいる王子さまへ思いを馳(は)せるシーンなのだろうが、如何(いかん)せん小さく、何故か既に足を持っている。

 干潮時には触れる事の出来る距離まで近づけるが、このサイズはむしろ近づけるからこそ残念感を増す。

 彼女は人間で言うなら1歳半から2歳程度の、そんな子どもの身長しかないのだから。


 それでもこの人魚姫を含むランゲリニエ公園周辺はコペンハーゲンの観光スポットだ。

 観光客も多く、彼らを乗せたバスも引っ切りなしに移動している。


「ボクは環境学を学びに来た学生だからね」


 少し早口になっているのを自覚しつつも翡翠はそう答えた。

 見つめるのは濃いグレーの瞳。 吸い込み、飲み込まれてしまいそうな『それ』から視線を逸(そ)らせない。


「なるほど、学生さんだったのね」


「キミも、同じくらいの年齢に見えるけど」


 逸らせない瞳との間に再びタブレットを翳(かざ)す。

 だが画面越しでもその魅力は健在だ。

 いや、元より画面越しの魅了だったのだ。 それはまるで見るだけで心を囚われるエルフの民(エルフェンフォルク)のエルフの乙女(エルヴェピーゲ)か。


「ふふふ、どうかしら? 貴方がそう言うならそうなのかも知れないわね」


 踊る様にその身を翻(ひるがえ)す彼女に、思わず翡翠の手が伸びた。 その手は空(くう)を切るが、それに気づいた彼女は足を止めて囁(ささや)き言葉を綴(つづ)る。


「わたしはレルケ。

 ねえ、貴方の名前は?」


「――翡翠。 ボクは川浪 翡翠だ」


「そう、ヒスイ。 素敵な響きね」


 レルケは微笑みながらも恰(あたか)も飛ぶ様に翡翠から距離を取る。

 その速さはまるで警戒心の強い小鳥だ。 一方でそんな速さを感じさせないのは微笑みと動きの優雅(ゆうが)さ故(ゆえ)か。

 いつの間にか離れていた、そんな感覚が強く感じられる踊る様な動き。


「またね、ヒスイ。 きっと直(す)ぐに会えるわ」


 そう言いながら、レルケは最初から居なかったかの様に雑踏の中へその姿を消した。

 それを認識した途端に聞こえてくる人々の喧噪(けんそう)と車音たち。 お陰で我を取り戻した翡翠は漸(ようや)く彼女――レルケの言葉を反芻(はんすう)した。


「……雲雀(レルケ)?」


 それはデンマーク語の雲雀(ひばり)を意味する言葉。


 翡翠(カワセミ)の様な色合いだと思っていた彼女の名が雲雀だとは、洒落(しゃれ)が利いているというか皮肉というか。

 むしろ雲雀的な色彩は自分の方なのにと、翡翠は可笑(おか)しくなった。


 彼は茶褐色(ちゃかっしょく)の髪色をしているがこれは地毛なのだ。

 翡翠(ひすい)という美しい青を含む名であり、煌(きら)めく色彩を持つ翡翠(カワセミ)と同じ漢字を充(あ)てられているというのに、自身は雲雀の様な茶褐色で、彼女は逆に「翡翠」の様な外見と雲雀の名を持っている。

 そう思うと彼女は濃いグレーの瞳をしていた気がするがそれもカワセミと同じ色彩だ。

 いや、髪は染めているのだろうから敢えてカワセミをイメージした色調にしたのかも知れないが。


 そんな彼女を想いつつ翡翠も人魚姫の像へ背を向ける。


 約束もせずに、直ぐに会えると言った彼女の言葉を、何の根拠もなく信じ、胸の奥へ大切に仕舞い込んで。



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「翡翠(イェーザ)なのに氷の鳥(アイスフュイル)?」


 翌日、早速再会したふたりはカフェ(カフィ)で向かい合っていた。

 翡翠は彼女の名が雲雀である事を確認し、自身の名がふたつの意味を持つ言葉である事を語っていた。

 イェーザは宝石の翡翠、アイスフュイルはカワセミのデンマーク訳である。


「ああ、初めて翡翠(イェーザ)を見た人がカワセミ(アイスフュイル)みたいな色だって言ったのが由来らしいよ」


「ふふ、詳しいのね」


 微笑む彼女の表情はまるで母だ。 子どもを微笑ましく見る母性の様相である。


「だって気になるじゃないか。

 漢字――表記は同じなのに表音文字――読みは違うなんて」


「それで『ヒスイ』と言う事は宝石の方から取った名前なのね」


「うん。 翡翠ってダイヤモンド(ディアマント)みたいに硬い訳じゃないんだけど、靱性(じんせい)が高くて割れにくい性質を持ってるんだって。

 だから割れない様に、砕けない様に『不屈(ウーアヴァンデリ)』である事を願って、だってさ」


 話す内に、徐々に口が滑らかになっていくのが翡翠には判った。

 昨日の様に珍妙な程早口にはならずに話せるし、ちゃんと彼女の目を見ていられる。 もっともそれは見惚れないという意味ではないけれど。


「良いご両親なのね」


 レルケのグレーの瞳が微笑みに細められる。 その魅惑的な笑みに自身の顔の熱を感じながらも翡翠は彼女に応えた。


「そうだね。 良い両親だよ。

 本人たちにはとても言えないけれど」


「言ってあげたら良いのに。

 喜ぶわよ、きっと」


「言えないっての」


 翡翠の大袈裟(おおげさ)に嫌がる様子が余程琴線(きんせん)に触れたのか、微笑みを浮かべていた彼女は口元を押さえてくすくすと、より一層その笑みを溢れさせた。


「笑うなよ」


 少し憮然(ぶぜん)と、しかしこれで感情を高ぶらせる程ではない彼は苦笑しつつもそっぽを向いた。 といっても彼女から視線を離し難い彼は、チラッチラッとそちらを見てしまうのだが。

 その様子はまるで警戒心の強い小動物だ。

 今の姿だけを見るなら、目を離してはいけない強者の存在を常に視界の端に入れ続ける小鳥の様な本能で動いているようにも見える。

 もっともその内情は恐れではなく憧憬(どうけい)や敬慕(けいぼ)に近い想いだ。

 美しすぎる彼女から目を逸らしてしまう時間が、今の彼には耐え難い。


「笑ってないわ。 ちょっと愛おしさが漏れ出しただけよ」


「揶揄(からか)うなよ」


「別に揶揄ってはいないわ。 本心よ?」


 そう言われ翡翠は顔を真っ赤にし、それを見たレルケは益々笑みを深くした。


「やっぱり揶揄ってるよな!?」


「揶揄ってないってば」


 そんなやり取りをする彼と彼女は、出逢って二度目のふたりには決して見えず、それからも長い時間を過ごす様になる。



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「今の日本はエネルギーが火力に偏りすぎているからね。 それに比べてこのデンマークのエネルギー事情は圧倒的だ。

 エネルギー自給率100%超の国はそれなりにあるけど、火力依存じゃない国はそう多くない。

 中でもこの国の風力発電は芸術的だと思うよ」


 熱く語る翡翠の瞳はキラキラと輝いている。

 それは未来に夢を馳(は)せる少年の瞳だ。

 黒に近い瞳なのに、それこそ翡翠(イェーザ)の様に。 陽を受けて、夢と希望を煌(きら)めかせていた。


 彼は目の前のレルケがにこやかに聴いているのをいい事に、各国のエネルギー自給率の話からそれらの割合の話、そんなエネルギーを輸入に頼りすぎる日本の事情を大きく批判しつつも、こうしたらいい、ああしたらいい、いやこうしてみせる、と熱弁を振るっている。

 話は現状と将来の夢から、彼の想いの発端(ほったん)に達しようとして、


「………………」


 翡翠はふと我に返った。

 眼前に、美しい顔(かんばせ)。 それに気づき、見とれつつも自身を取り戻し、その距離の近さに内心狼狽(うろた)えつつそっと距離を取った。

 その間、彼女の表情は微笑みのままだ。


「………………」


「……どうしたの? 急に黙ってしまって」


 そういう問い掛けの時も、浮かべるのは笑み。

 翡翠と同年代に見える彼女。 なのにそこにあるのは母にも祖母にも似た、深い深い慈(いつく)しみだ。

 その包容力に彼は内心の動悸(どうき)を隠せない。


 女性は精神年齢が高いとは言うが、こんなにも包み込む様な慈愛を向けられると、まるで自分だけがずっとずっと年下になった様な錯覚(さっかく)すら覚えてしまう。


 彼は動揺と照れくささで何をどう語ったかすら忘れ、すっと目を逸らした。


「いや、なんだか熱くなり過ぎたかなあ、と」


 ポリっと頬を掻く。 指先に熱さを感じるのはきっと気のせいじゃない。


「いいじゃない。 夢を熱く語れるのは若さの特権よ?」


 にこやかに、しかし何処か諦観(ていかん)の念にも思えそうな、そんな声色を心の何処かで感じつつ翡翠は反抗するかの様に口を開く。


「年なんてそんなに変わらないだろ?」


 実際、彼は二十歳だ。 彼女だってそのくらいに見える。

 年齢を尋(たず)ねた事はないが、精々が二十五歳前後。 どんなに上に見ても四十を超えるという事はないだろう。

 なのに、レルケはその言葉を噛(か)み締める様に、微笑みをそっと閉じ込めた。 ほんの一瞬ではあったけれど。


「どうかしら?

 でもわたしにそういう考え方は難しいわ。 熱く夢を語るのも、ね。

 保守的、なのかな。 考え方が古いの」


 レルケはそう言って微笑んでいた。 ただその笑みが何処か寂しげなのは翡翠にも解る。


「どのくらい古いのさ」


 苦笑する様に、呆(あき)れる様に斜に構えた笑みを浮かべ、彼女の考えなど取るに足らないと一笑する。 その為の布石(ふせき)を打つ。


「そうね…………。 ん~、200年くらい?」


 予想外の答えに一瞬、笑みが消える。

 言葉への違和感と妙に現実味を帯びた響きが、彼の中に小さな痼(しこ)りを残した。

 だが彼の言うべき事は変わらない。


「そんな今時の髪色をしていて200年前の価値観とか有り得ないよ」


 鮮やかなコバルトブルーの髪をした彼女。

 とは言っても街歩く老女がファッションで染める白髪染めとはまるで違う、自然で、でも何処か鉱石染みた色合いの髪色ではあるが、何にせよ200年も昔のファッションセンスであれば考えもしない色であろう。


「……ぷ。 そうね、そうかもね」


 翡翠の思いがけない言葉に屈託(くったく)のない笑みを少しだけ溢(こぼ)す。 先程までの微笑みとはまた違う別の表情に、彼は数瞬以上見惚れてからそれを誤魔化す為か、コーヒーを呷(あお)る様に飲んだ。


「――熱っ!?」


「ちょっと、ヒスイっ!?」



 その様な感じで『地元の女の子と仲良くなった』翡翠であったが、勉学が疎(おろそ)かになる事はなかった。

 むしろ、より真面目に行う様になったと言えるだろう。

 夢を叶える為、彼女へその姿を見せる(アピールの)為、勉学と彼女に使う時間を兎に角優先する。 それでも体調を崩しては本末転倒と、削っていったのは自身の余暇(よか)であった。


 自分の僅(わず)かな遊興(ゆうきょう)の時間を殆ど全て彼女の為に使い、だからこそふたりの距離は急速に近づいていった。



     <*)) >=< <*)) >=< <*)) >=<



 それは最初から決まっていた。


 翡翠の留学期間は1年間。

 開始時期は去年の8月。 帰国は今年の7月。

 レルケとの出逢いは春だった。 日本より少し遅くに咲き乱れる4月末の桜の中。


 別れは当然で必然だ。

 必然ではないと、そう言うのは簡単だが翡翠は日本ですべき事がある。 夢であり悲願であり、一族の望みでもある。

 簡単には捨てられないし、捨てたいとは思わない。 その為に日本を離れここまで来たのだから。



 6月の半(なか)ば。

 デンマークは白夜(びゃくや)に近い幻想的な景色に包まれる。

 この時期の日照時間は17時間以上に達し、夜中の22時を過ぎても空には夕焼けの色彩が残っていた。

 だからこそこの時間帯のコペンハーゲンはまだ賑(にぎ)やかだ。

 朝の活動が遅くなる代わりに長い昼間と夕方を満喫(まんきつ)するのである。


 反面、明け方に人々は居ない。

 賑やかだった夕刻が嘘の様に静まりかえる早朝。


 朝の4時を回った程度の、無人のランゲリニエ公園の遊歩道をふたりは歩いていた。


 共に夜を過ごす事に慣れないまま、迫る別れの予感を胸に誰もいない遊歩道を歩く。


 聞こえてくるのは小鳥の囀(さえず)りと波の音。

 フルートの様に澄(す)んだ音色は黒歌鳥(ソルソート)だろうか? 内海(うちうみ)の潮騒(しおさい)は騒(さわ)ぐと言う程、大きくはなく、そんな小鳥たちの声の方が余程響いている。

 何処か悲しげにも聞こえる黒歌鳥(クロウタドリ)の唄を、引き立てる様な小波(さざなみ)の音。


 だから、だろうか?

 翡翠は半ば思い詰めた様に、それでも決意の表情で、レルケはほんの少しだけ悲しげに、それでも笑みを浮かべて歩いていた。


 やがてふたりの視線の先で、人魚姫の像が朝陽を受けて輝き出す。

 黄金の光を浴び、また自らも光を放つ様に見える人魚姫は、微笑んでいる様にも悲しんでいる様にも見えた。


「ほらヒスイ、綺麗でしょう?」


 まるで黄金で出来ているかの様な人魚姫を指し示しレルケは微笑んだ。


 この時間の『彼女』は特別だ。

 輝く空と煌(きら)めく海に囲まれた人魚姫はこの舞台のヒロインである事を殊更(ことさら)に主張している。

 地元民は居らず、偶(たま)にいるほんの僅(わず)かな観光客も陽が高くなれば去ってしまう、そんな無人の舞台を飾る、悲劇のヒロイン。


 そんな『彼女』を見て貰おうと、レルケが連れてきた早朝のランゲリニエ公園だった。 今日は全くの無人。

 この舞台に立つのは翡翠とレルケと、小さな人魚姫だけだった。


 翡翠はそんな彼女の言葉を受け止めながらも返事をせずに、それでも真摯(しんし)な瞳で彼女を見つめた。


 一際(ひときわ)高く黒歌鳥が鳴く。

 空へ――遠く、高く、鳴く。


「レルケ……日本へ、来ないか?」


 翡翠の言葉に、しかし彼女はすぐには口を開かない。

 ただ少しだけ悲しげなまま、目の前の青年を見つめた。


「今すぐなんて言わない。 でも、考えてみてくれないか?」


 少しだけ見開く濃い灰色の瞳に陽が射し、黄金色(こがねいろ)の様相(ようそう)を見せる。 しかし少し伏(ふ)せたそこからは黄金(きん)が消え、鈍色(にびいろ)の艶(つや)を魅(み)せた。


「ヒスイ……貴方こそ、ここで暮らさない?

 慌(あわ)ただしい生活を離れて、他人の束縛(そくばく)も煩(わず)わしいルールも自身の柵(しがら)みも捨てて、ずっとここで暮らさない?」


 それは酷く魅力的な提案だ。

 彼が彼の生活を経ていなかったら、乗ったかも知れない言葉。 抗(あらが)えなかっただろう、言葉。

 だが、彼は川浪 翡翠だ。

 そう生きてきたし、そう生き続けてきた。

 それは彼の矜持(きょうじ)であり、彼そのものでもあった。


「……ボクの故郷は……発電所になったんだ」


 真っ直ぐに彼女を見て、翡翠は自身の『発端』を明かす。

 それを聞く彼女は先程とは別の理由でその目を見開き、彼の言葉に耳を傾けた。


「それ以前にもボクの一族は……家族はそんな風に土地を追われたよ。 でもそんな風に土地を追われるのはボク達だけじゃないんだ」


 真剣な眼差(まなざ)し、真摯な想い。

 だからこそ捨てられない夢、希望。


「そんな事をする人が憎くない訳じゃない。 でもそれだって生きる為だ。 今の人間は電気がなければ真面(まとも)に生活が成り立たないくらい依存している。

 だから、ボクはこの地へ来たんだ、レルケ。

 だからこそボクはそんな柵みを捨てられないよ」


 漆黒(しっこく)の瞳がレルケを捉(とら)える。

 真っ直ぐに彼女を捉える。 真っ直ぐに、逃がすまいとするように彼女を捉える。

 その強い輝きに、レルケは一瞬その身を囚(とら)われた。

 身体だけでなく心までも引き寄せられそうになる。


 囚われてしまえばきっと楽で、そして幸せな道筋すら見えてしまう――そんな優しい輝線(きせん)。


 それでも彼女はその身を震わせ、そっと目を伏せた。


「でもわたしはここを離れられない。 この海を離れられない。

 この海は日本まで繋がっているけど、それでもここを離れられないの」


 伏せる目から涙が落ちる。

 睫毛(まつげ)の影から零(こぼ)れ落ちたそれは早朝の空に溶ける月の様に、それでも陽の光を受け小さく輝きながら落ちていった。


 雫(しずく)が――地面(アスファルト)に弾ける。


 翡翠がそう認識した時、目の前に瑠璃が舞った。


 ――唇に、冷えた彼女の感触。


「ごめんなさい、ヒスイ……。

 わたしは終わりが決まっているのに我慢出来る程、強くないの……」


 それは、翡翠への答え。

 ついて行けず、また残ってもくれないのなら別れは必然なのだ。


 その言葉の意味を理解しきる前に彼の身体は反応した。

 しかし伸ばす手は空を切り、彼女は身を翻(ひるがえ)すと、



 ――そのまま海へ飛び込んだ。


「レル――!?」


 驚き駆け寄る翡翠の視界に、鮮やかな青い鱗をした魚の尾が映った。

 続いて見える翡翠(カワセミ)の様な色の一対の翼と、その間に見えるのは悲しげな顔の彼女(レルケ)。


 彼女は後ろ髪を引かれる様に、時折彼に視線を向けながらも沖へ泳いでいく。


 黒歌鳥の、哀歌(あいか)にも聞こえる様な鳴き声と、まるで輪唱するかの様に澄んだ氷の鳥(アイスフュイル)の歌声を響かせながら。


 翡翠は、彼女を追う事が出来なかった。


 元より彼の領域は山や空であり、海は勝手が違う。


 とは言え、


「…………同族(セイレーン)かよ、レルケ」


 正確には同族ではないが、人ではない魔物同士(ファンタズマ)という意味での同族。

 彼はそっと顔だけを素顔――『雀』のそれに戻すと思いっ切り息を吸い込んで、


「ぴ――――――――――――――――――っ!!」


 鳴いた。


 彼女に聞こえたかはわからない。

 彼女に届いたかはわからない。


 だからこれは一方的な約束だ。


 夢は叶える。

 山の中、森の中で、ダムに沈み潰されて、または伐採されそのままなくなってしまった『雀のお宿』を再建するのだ。


 その後はきっとこの地へ戻ってこよう。

 その後は、ずっと彼女と一緒にいよう。


「ぴ――――――――――――――――――っ!!」


 もう一度、鳴く。

 黒歌鳥の唄に負けないくらい大きく、海の底まで届けと言わんばかりに。


 サイレン(セイレーン)は海に哭く。


 だが、雲雀(レルケ)に囚われた雀(ヒスイ)は海へ、空へ鳴くのだ。



 世界観は『夜の彼方の裏側で』や『現の狭間で祈りを込めて』と同じです。

 今と同じ様な現実世界に、密かに魔物が入り込んでいたり、実は魔法・魔術が存在していたりする感じですね。


○レルケ……御年二百歳程のセイレーン。 海底にある隠れ里への『門』の守護者でもあります。

 一人称はわたし。

・ヘレティック……マギ、タリスマン、

・ミュータント……なし

・クラス……セイレーン、マーメイド、ウォーターリーパー、セドナ、ウィッチ、

・ハイランダー……アポストル


○川浪(かわなみ) 翡翠(ひすい)……隠れ里で『雀のお宿』を切り盛りしていた一族で若手の化け雀。 大規模開発で隠れ里が『門』ごと破壊された事で、本編の様な夢を持つ事となりました。

 一人称はボク。

・ヘレティック……バルバルス、マギ、

・ミュータント……ザ・ジーニアス、

・クラス……化け雀、エンジニア、研究者、

・ハイランダー……なし

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― 新着の感想 ―
描かれる異国の街並み、素敵だなぁと思いながら拝読しました。 名と姿を交換したようなふたり。同じものに惹かれるような、足りぬものを求めるような、そんな抗えぬ引力があったのかもしれませんね。 そして、…
 人魚像80センチなのですね!  日本の妖怪人魚だと本当にその位かもですね〜〜。    有翼勇尾セイレーンって良いですよね〜〜。  雀……、雲雀にもスズメの文字は入っているから……、上手いこと行って…
先日、訳あってグー〇ルアースでコペンハーゲンの街並みを散策したばかりだったので、 情景が目に浮かぶようでした。 人魚姫、世界三大がっかり名所のひとつですよね(笑) 美しい街を舞台に、童話のような詩情…
感想一覧
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