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婚約者が「真実の愛」グループで浮気を実況していたので、その場で花嫁を替えました

作者: 熾星
掲載日:2026/09/07



 結婚式まで、あと七日。


 婚約者の藤森彩香の初恋相手、早川亮介が出所した。


 彩香とは五年間付き合い、この日のために二人で準備を重ねてきた。


 亮介が戻ってきたと知った時、もしまだ気持ちが残っているなら、今のうちに別れてもいいと俺の方から切り出したくらいだ。


 結婚してから三人とも不幸になるより、その方がずっとましだと思っていた。


 けれど、彩香の父親はわざわざ俺のところまで来て、


「あの子はもう過去を引きずっていない」


と言った。


 たった一人の妹、久我莉子も泣きながら腕にしがみついてきた。


「彩香さん、お兄ちゃんが一番苦しかった時もずっとそばにいてくれたじゃん」


 親友の三浦拓也まで胸を張った。


「五年一緒にいたんだぞ。今さら昔の男が出てきたくらいで、何が変わるんだよ」


 その言葉を信じた。


 結婚式当日までは。


 ホテルへ向かう途中、拓也が煙草を吸うために車を降りた。


 直前まで触っていたサブ端末を助手席に置きっぱなしにしている。


 画面もロックされていなかった。


 そこへLINEの通知が入った。


 グループ名は、


【彩香&亮介 復縁作戦】


 次々と写真や動画が投稿されていた。


 月ノ森迎賓館。


 ウェディングドレス姿の彩香。


 その向かいには、五年前に服役した亮介がいる。


 二人は指輪を交換し、抱き合い、最後には唇を重ねた。


 その周りで拍手しているのは、莉子、拓也、彩香の父親。


 そして本来なら今日、俺の結婚式に来るはずだった友人たちだった。


 少しして、彩香からメッセージが届いた。


【今日くらいは、亮介との約束を守りたいの】


 続けて、もう一件。


【でも明日は予定通り颯人と凪原市役所に行く。株の契約もあるから、それまでは絶対にバレないようにして】


 最後まで読んでも、誰にも問いたださなかった。


 ただ画面を消し、端末を元の場所へ戻した。


 あれだけ楽しそうに芝居をしているのだ。


 最後まで付き合ってやろうと思った。



1



 人前式の開始まで、あと二時間。


 グランド・ナギハラホテルへ向かう車は、事故渋滞に巻き込まれてほとんど動かなかった。


 助手席に残された拓也の端末には、その間も新しい通知が入り続けている。


 一枚の写真が表示された。


 彩香だった。


 端末を手に取り、投稿されたばかりの動画を開く。


 月ノ森迎賓館の小さな式場。


 彩香の向かいに立つ亮介は髪を短く刈り、腕には昔入れていたタトゥーを消した跡が薄く残っていた。


 五年前よりずいぶん痩せていたが、見間違えるはずもない。


「キス! キス!」


 一番大きな声で囃し立てていたのは、莉子だった。


 両親が亡くなった時、莉子はまだ五歳だった。


 俺は大学を諦め、働きながら妹を育てた。


 その後、起業して金に困っていた時期ですら、莉子にだけは不自由をさせたくなかった。


 一週間前。


 結婚を取りやめようとした俺を、一番必死に止めたのも莉子だった。


「彩香さんはお兄ちゃんのこと、本当に好きだよ」


「……」


「五年も一緒にいたんだよ? 亮介さんが戻ってきたくらいで変わったりしないって」


 そう言っていた妹が今、笑顔で亮介の襟元を整えている。


 カメラが動いた。


 次に映ったのは彩香の父親だった。


「亮介くん」


 手にしていた鍵を差し出す。


「これ、少し早いけど俺からのお祝いだ」


 高級マンションの鍵。


 贈与関係の書類。


 さらに、スポーツカーのキーまで置かれた。


「彩香と仲良くやってくれ」


 凪原市中心部のマンションは、数年前、彩香の父親が老後を心配していた時に俺が購入したものだ。


 名義はすでに彩香の父親へ移してある。


 スポーツカーは、先月彩香へ贈った誕生日プレゼント。


 どちらも今、亮介への「結婚祝い」になっていた。


 動画が終わると、亮介のボイスメッセージが再生された。


『久我のやつ、今頃ホテルに向かってんだろ?』


 向こうで誰かが笑う。


『結婚式に何千万もかけて、車もマンションも出して、それで嫁は俺と先に式挙げてんの。笑えるよな』


 さらに笑い声が重なった。


『しかも、あいつの可愛い妹まで今じゃこっち側だ』


 少し間が空く。


『会社も上場するんだろ? これからも頑張って稼いでもらわないとな』


 グループはすぐに笑いのスタンプで埋まった。


 彩香からもメッセージが入る。


【言いすぎ。颯人はこの五年、本当によくしてくれたよ】


 そのすぐ後。


【でも今日は亮介との約束だから】


【明日はちゃんと颯人と婚姻届を出す。株の契約も済ませたいし】


 拓也がすぐ返した。


【大丈夫。颯人なら気づかないって】


【適当に理由作れば信じるよ】


 さらに亮介。


【今夜はここにいろよ】


 少しして、彩香。


【今日は約束通り式を挙げたでしょ】


【明日は予定があるから、あと一日だけ我慢して】


 端末を元の位置へ戻した。


 胸の奥は重かった。


 それなのに、頭だけは妙に冴えていた。


 彩香と過ごした五年間まで嘘だったとは思わない。


 少なくとも俺は、本気で愛していた。


 だからこそ、彼女が初恋の男を選んだことよりも、信じてきた人間たち全員が俺だけを蚊帳の外にして笑っていたことの方が堪えた。


 その時、自分のスマートフォンが鳴った。


 拓也だった。


「颯人、大変だ!」


「どうした」


「彩香のお父さんが急に胸の痛みを訴えて、病院に運ばれたらしい」


 わざと息を切らしている。


「彩香もかなり混乱してる。式、少し遅れるかもしれない」


「そう」


「お前は先にホテル行って、招待客の対応しててくれ」


 知らなければ、本気で心配していただろう。


 十秒ほど前。


 拓也はLINEでこう送っていた。


【今から颯人に電話する。適当に言っとけば大丈夫】


 背もたれへ身体を預けた。


「彩香から直接電話させて」


「今は病院でバタバタしてるだろうし――」


「本人から電話させて」


 一分も経たずに、彩香から電話が来た。


「颯人、ごめん」


 声が震えている。


「お父さんが急に救急搬送されて、私も頭が真っ白で……」


「うん」


「怒らないでね。とりあえずホテルに行って、みんなのことお願い」


 向こうで、小さく笑う声がした。


『お前、女優になれるんじゃねえの?』


 亮介だ。


 少しして、彩香の声が遠くなる。


「ちょっと、やめて」


 それから、また甘い声に戻った。


「颯人なら分かってくれるよね? こっちが落ち着いたら、すぐ向かうから」


 その言葉には乗らなかった。


「彩香」


「何?」


「式まで、あと一時間だ」


「うん」


「一時間以内に来なかったら、新婦を替える」


 数秒の沈黙。


 そして彩香が笑った。


「颯人、今日どうしたの?」


 拗ねた子どもを宥めるような口調だった。


「そんな子どもみたいなこと言って」


「……」


「この結婚式、かなり話題になってるでしょ? 今さら新婦を替えるなんて、できるわけないじゃない」


 一度息を吐く。


「KUGA NEXTだって、ここ数年実際に回してきたのは私なんだから」


「そうだな」


「もう変なこと言わないで。病院の方が落ち着いたら行くから」


 そのまま電話は切れた。


 拓也の端末に、また通知が入る。


【颯人、あと一時間で来なかったら新婦替えるって(笑)】


 亮介。


【誰に替えるんだよ。コンビニでくじ引きでもするのか?】


 拓也。


【今から戻る。あいつなら二、三言言っとけば大人しくなるって】


 自分のスマートフォンを開いた。


 五年間、一度も自分から連絡しなかった番号。


【五年前の約束、まだ覚えてる?】


 既読がついた。


 続けて送る。


【覚えてるなら、グランド・ナギハラホテルに来てほしい】


 一分近く返事はなかった。


 やがて、短い返信が届く。


【待ってて】



2



 拓也が車へ戻ってきた頃には、額に汗が浮かんでいた。


「颯人、やっと流れ始めたぞ。急ごう」


「うん」


「彩香もかなり参ってるみたいでさ」


 運転席へ座りながら続ける。


「俺に『颯人のことお願い』って何回も言ってた」


 話しながら、拓也は端末を手に取った。


 横目に画面を見る。


【合流した。全然気づいてない】


 何も言わなかった。


 グランド・ナギハラホテルへ到着すると、入口にはすでに多くの経済誌やネットメディアの記者が集まっていた。


 KUGA NEXTは上場準備の真っ最中。


 俺自身もここ数年、スタートアップ業界で名前を知られるようになっていた。


 そのせいで、結婚式の発表後から一部メディアに追われていたのだ。


 車から俺一人だけが降りる。


 すぐにマイクが向けられた。


「久我さん、藤森さんはご一緒ではないんですか?」


「本日午前、月ノ森迎賓館で藤森さんによく似た女性が挙式していたとの情報がありますが、ご存じでしょうか?」


 拓也の顔色が変わった。


「デタラメ言わないでください!」


 前へ出ようとする。


「藤森家で急な事情があっただけです。新婦は後から来ますから!」


 片手を上げ、拓也を下がらせた。


「彩香のお父さんが急に体調を崩したと聞いています」


 記者たちを見る。


「娘として、今はそばにいたいと思うのは当然でしょう」


「では別の結婚式については?」


「こちらでは確認できていません」


 一度言葉を切った。


「今の段階で憶測だけ広げるのは控えてください」


 拓也が、ほっと息を吐いた。


 どうやら完全に信じ込んでいると思ったらしい。


 ホテルに入っても、すぐ披露宴会場へは向かわなかった。


 廊下の奥にある喫煙室の前を通った時、中から押し殺した笑い声が聞こえてきた。


 受付や余興を手伝う予定の友人たちだ。


「さっきの動画見た?」


「彩香と亮介、もう完全に夫婦みたいだったぞ」


「久我のやつ、今頃外で藤森家かばってんだろ?」


「明日まで何も気づかなかったら笑えるよな」


 扉を開けた。


 笑い声が一瞬で消える。


「は……颯人?」


「なんでここに」


 時計を見る。


「もう受付始まってるだろ」


「……」


「何やってるんだ?」


 何人かが顔を見合わせた。


「彩香の家で急なことがあって、式は少し遅れるかもしれない」


 何も知らないふりをした。


「でも招待客は来てる。自分の持ち場に戻って」


 全員、ほっとした顔をした。


「わ、分かった」


「すぐ戻る」


 慌てて部屋を出ていく。


 しばらく歩くと、背後からまた小さな笑い声が聞こえた。


「死ぬかと思った」


「聞かれたかと思ったぞ」


「聞いてるわけないって。まだ彩香のことかばってるくらいだし」


「新婦来なかったら、あいつどうする気なんだろ」


 新郎控室へ入ったところで、スマートフォンが光った。


【凪原に着いた】


 しばらくして会場へ戻ると、拓也が少し離れたところでビデオ通話をしていた。


 相手は彩香らしい。


『どう? 颯人、まだ怒ってる?』


 スピーカーから聞こえた声に、足を止める。


「それどころじゃない」


 拓也が声を落とした。


「彩香、ちょっと見て」


 カメラを会場の方へ向ける。


 ちょうどその先に、ウェディングドレス姿の雪乃が立っていた。


 通話の向こうから、彩香の声が消えた。


『……誰、その人』


「御堂雪乃」


 数秒、沈黙が続いた。


『冗談でしょ』


「俺もそう思いたいけど」


『颯人が御堂家の人と知り合いなわけないじゃない』


 拓也が周囲を気にしながら声を落とす。


「御堂キャピタルの役員が直接挨拶に来た」


『……』


「白嶺銀行の取締役もだ」


 さらに声を落とす。


「これ、仕込みじゃない」


 電話の向こうで誰かが何か言った。


 亮介らしい。


 やがて彩香の声が戻る。


『拓也』


「うん」


『颯人から目を離さないで』


「分かった」


『今から行く』


 通話が切れた。



3



 披露宴会場中央。


 人前式のために用意された場所に、俺は立っていた。


 隣には、御堂雪乃。


 ベールはなく、長い髪をシンプルにまとめている。


 ホテルのブライダルサロンが急きょサイズを調整したウェディングドレスは、不思議なくらいよく似合っていた。


 五年ぶりだった。


 顔立ちも、纏う空気も以前とはずいぶん変わった。


 それでも、差し出された手を見た瞬間、あの頃の雪乃だと思った。


 五年前。


 俺と雪乃は、本気で結婚を考えていた。


 当時の御堂家は、グループ内部の主導権争いの真っただ中にいた。


 まだ会社すら持っていなかった俺が、創業家の娘の相手として歓迎されるはずもない。


 雪乃の父親から五千万円を提示されたこともある。


 娘から離れてほしい、と。


 受け取らなかった。


 それでも、結局俺たちは別れた。


 金に負けたわけではない。


 あの頃の俺たちには、何も変える力がなかっただけだ。


 その後、彩香と出会った。


 彼女との五年間も、本物だった。


 結婚するつもりでいた。


 だから今朝LINEを見た時に感じたのは、昔の男に負けた悔しさなんかではない。


 信じていた人間全員が、自分だけを笑いものにしていたという事実だった。


 雪乃は、その日たまたま凪原にいた。


 午前中、長く続いていた御堂グループの経営権争いに、ようやく決着がついたばかりだった。


 俺からのメッセージを見た雪乃は、最初にこう聞いた。


「颯人」


「うん」


「今さら私を呼ぶのは、誰かに仕返ししたいから?」


 まっすぐこちらを見る。


「それとも、本当に私に会いたいから?」


 すぐには答えられなかった。


「まず会いに来て」


「……」


「残りは、顔を見て話したい」


 それでも雪乃は来た。


 会場には、すでに雪乃に気づいた人間が何人もいた。


 御堂グループ創業家の一人娘。


 次代の経営を担う人物として、経済誌にもたびたび名前が載っている。


 御堂キャピタルの役員や、KUGA NEXTのメインバンクである白嶺銀行の取締役まで、わざわざ雪乃のもとへ挨拶に来た。


 会場の隅にいた拓也は、そのたびに顔色を悪くしていった。


 二十分ほどして、数台の車がホテル前に停まった。


 ウェディングドレス姿の彩香を先頭に、亮介と莉子が車から降りてきた。


 入口で警備員が止めた。


「申し訳ありません。本日は貸切です。招待者以外の方はお入りいただけません」


 彩香が信じられないという顔をする。


「招待者以外?」


 自分のドレスを指す。


「私が今日の新婦なんだけど」


 亮介が苛立ったように警備員の肩を押した。


「どけよ」


 すぐに腕を取られ、動きを封じられる。


「離せ!」


「何するの!」


 莉子が慌てて近づいた。


「亮介さんを離して!」


 その時、会場の扉が開いた。


 俺と雪乃が並んで出る。


 彩香の表情が一瞬で変わった。


「颯人」


 こちらへ歩いてくる。


「何してるの?」


「……」


「お父さんが救急搬送されたって言ってるのに」


 声が震える。


「私のこと心配もしないで、別の女にウェディングドレス着せてるの?」


 莉子もすぐに口を挟んだ。


「お兄ちゃん、ひどいよ」


「莉子」


「彩香さんがお兄ちゃんのためにどれだけ頑張ってきたと思ってるの?」


 何も言わなかった。


 代わりに雪乃が小さく笑った。


「藤森さん」


 彩香が睨む。


「お父様は今、救急搬送されているんじゃなかったんですか?」


 視線を彩香のドレスへ落とす。


「それなのに、ずいぶんきれいな格好で来られたんですね」


 周囲のカメラが一斉に彩香へ向いた。


 顔が引きつる。


「これは私と颯人の問題です」


「そうですか」


「あなたには関係ありません」


「あるよ」


 ようやく口を開いた。


 亮介を見る。


「月ノ森迎賓館で」


 亮介の表情が変わる。


「俺が買った車と、藤森家のマンションを結婚祝いでもらった気分はどうだった?」


 彩香の顔から血の気が引いた。


「……何の話?」


 もう付き合う必要はなかった。


 会場の大型スクリーンが点く。


 映し出されたのは、彼ら自身がLINEに投稿していた動画や写真だった。


 彩香と亮介が指輪を交換する場面。


 キスをする場面。


 彩香の父親が鍵と書類を渡す場面。


 その横で莉子が笑っている姿。


 最後に、亮介自身が録音した音声が流れた。


『久我のやつ、今頃ホテルに向かってんだろ?』


 数秒間、会場が静まり返る。


 その直後、空気が一気に変わった。


 記者のカメラが彩香へ向く。


「止めて!」


 彩香が顔を歪める。


「颯人、今すぐ止めて!」


 スクリーンへ向かおうとしたが、すぐに警備員に止められた。


「こんなことして、私に恥かかせたいの?」


 スクリーンを一度見た。


「そこに映ってるのは」


 彩香を見る。


「全部お前がやったことだろ」


 亮介の表情も変わっていた。


「だから何だよ」


「亮介」


「彩香は五年前だって――」


「黙って!」


 彩香が鋭く遮る。


 彩香が亮介を遮ったその言葉が、妙に引っかかった。


 五年前の事件には、まだ何かある。


 そう思った。



4



 莉子は、それでも俺の袖を掴んだ。


「お兄ちゃん」


「離して」


「彩香さんだって、亮介さんのことずっと引きずってたんだよ」


「だから?」


「今日だけは、ちゃんと区切りをつけたかったって……」


 俺の袖を握る力が強くなる。


「それくらい分かってあげてもいいじゃん」


 手を外した。


「最初から知ってたんだな」


 莉子は何か言おうとしたが、声にならなかった。


「今日から、自分のことは自分でやって」


 その一言で、莉子の顔が強張る。


「お兄ちゃん……?」


「俺が借りてる部屋も、契約が切れたら更新しない」


「待って」


「毎月渡してた生活費も終わり」


 目に涙が溜まる。


「亮介をそこまで信じてるなら、今後は亮介に頼ればいい」


「お兄ちゃん……私、妹だよ?」


「だから余計に分からないんだよ」


 莉子を見る。


「なんで俺だけ、みんなに騙されて当然だと思えたんだ」


 そこで、彩香は急に余裕を取り戻したように笑った。


「颯人」


「何?」


「全部知ったからって、何ができるの?」


 周囲の視線が集まる。


「KUGA NEXTをここまで回してきたのは私でしょ」


「……」


「今さら私を外して、上場準備がまともに進むと思ってるの?」


 雪乃を見る。


「それに、颯人は結婚後、上場前の株を私に譲るって約束してる」


 口元を上げる。


「そこまで全部ひっくり返せると思ってるの?」


 雪乃が小さく息を吐いた。


「藤森さん」


「何?」


「その株式譲渡契約、まだ成立してませんよ」


 彩香の表情が止まった。


「……何?」


「サイン前でしょう?」


「でも約束は――」


「それだけじゃありません」


 雪乃が近くにいた弁護士を見る。


 弁護士が一歩前へ出た。


「内部監査で、F.A. Partnersへの送金に複数の不審な点が見つかっています」


 彩香の眉が動いた。


「全部、正当な投資よ」


「その点は現在調査中です」


 書類を一枚開く。


「今夜の臨時取締役会では、藤森さんの代表取締役解職も含めて協議する予定です」


「解職?」


 彩香が俺を見る。


「颯人、どういうこと?」


 弁護士は続けた。


「F.A. Partnersには現在、およそ三億円の債務があります」


 彩香の唇が動いた。


「……三億?」


「複数の融資には、藤森さん個人の保証もついています」


 さっきまで余裕のあった顔から、完全に血の気が消えた。


「不正流用の疑いがある取引についても、すでに調査を始めています」


「待って」


 彩香が俺を見る。


「颯人……最初から私を疑ってたの?」


 首を振った。


「最初から疑ってたなら、五年も会社を任せてない」


 それだけは事実だ。


「ただ、会社そのものを一人に全部渡すつもりはなかった」


 三億円という数字を聞いた瞬間、亮介の顔色も変わった。


「お前の会社、三億も借金あんの?」


 彩香が慌てて腕を掴む。


「大丈夫」


「何が大丈夫なんだよ」


「マンションも車もあるし、少しずつ整理すれば――」


 亮介が乱暴に振り払った。


「出てきたばっかりの俺に、三億の借金まで背負えっていうのかよ」


「亮介?」


「お前、何も心配いらないって言ったよな?」


 亮介はそのまま出口へ向かった。


 しかしホテルの外には、二人の私服警察官が待っていた。


 一人が前へ出る。


「早川亮介さんですね」


 身分を確認した後、逮捕状を示した。


「五年前の保険金詐欺事件について、詐欺容疑で逮捕します」


 亮介の顔が変わる。


「待てよ」


「……」


「あの件ならもう終わっただろ!」


「前の事件とは別件です」


 手錠がかかった瞬間、亮介は本気で慌て始めた。


「彩香も知ってた!」


「亮介!」


「俺だけじゃない!」


 彩香が叫ぶ。


「黙って!」


「お前が黙れよ!」


 亮介が声を荒らげる。


「出てきたら金を出すって言ったの、お前だろ!」


「亮介!」


「何も心配いらないって言ったじゃねえか!」


 二人は、ついさっきまで月ノ森迎賓館で指輪を交換していた。


 今は警察官を挟み、相手へ罪を押しつける言葉しか出てこない。


 その光景を少し離れたところから眺めていた。


 五年間の後悔を埋めるための結婚式。


 ずいぶん短い「夫婦」だった。



5



 亮介が連れていかれた後、莉子がまた俺のところへ来た。


「お兄ちゃん」


 泣きながら服の袖を掴む。


「私、本当にこんなことになるなんて思ってなかった」


「……」


「亮介さん、五年も刑務所にいて可哀想だったし」


「うん」


「彩香さんも、一回だけ埋め合わせしたいって……」


 声が震える。


「一回だけ許して。お願い」


 動かなかった。


「本当に何も知らなかった?」


 莉子の泣き声が止まった。


 スマートフォンを取り出した。


 前夜のLINE通話記録を再生する。


 最初に莉子の声。


『トークン持ってきたよ』


 続いて亮介。


『ログインできそう?』


『昨日は最後のところで止まった』


『じゃあ今日もう一回やるか』


『式が終わってからね』


 亮介が笑った。


『やっぱ莉子は気が利くな』


 莉子の顔から、さっと血の気が引いた。


「お兄ちゃん……」


「昨日、会社の口座に不審なアクセスがあった」


「……」


「銀行から連絡も来てる」


 莉子の唇が震える。


「トークンは今朝の時点で無効にした」


「違うの」


「何が?」


「私、本当にお金を盗むつもりまでは――」


「実際にログインしたんだろ」


 莉子は黙った。


「送金も試した」


「……」


「もう、俺が許せば済む話じゃない」


 そこで、とうとう莉子は泣き崩れた。


 両親が亡くなった時、莉子は五歳だった。


 あの日から、兄であると同時に、莉子にとって唯一頼れる大人でもあった。


 大人になった莉子が、俺とは違う価値観を持ち、いつか俺より誰かを優先するようになることは受け入れられる。


 けれど、俺が渡した金で生活しながら、その裏で会社の口座にまで手を出したことだけは、もう元には戻せなかった。


 雪乃を見る。


「行こう」


 雪乃は何も聞かず、ただ手を差し出した。


 その手を握った。


 背後ではまだ怒鳴り声と泣き声が続いていた。


 けれど俺の中では、ようやく今日の結婚式が終わったような気がした。


 その夜、KUGA NEXTでは臨時取締役会が開かれた。


 藤森彩香は代表取締役を解職され、会社は内部調査のため彼女を経営の第一線から外したことを公表した。


 亮介は五年前の保険金詐欺事件に関連する容疑で正式に逮捕。


 莉子も、認証トークンの持ち出しと実際の送金操作について警察から事情を聴かれた。


 LINEグループで彩香たちに協力していた連中の中には、その後の捜査で違法なオンライン賭博や無登録貸金に関わっていたことまで発覚した者もいた。


 翌朝。


 拓也はKUGA NEXTのエントランスで待っていた。


 俺の姿を見るなり、深く頭を下げる。


「颯人」


「何?」


「俺、本気でお前を潰そうなんて思ってなかった」


 顔を上げられないまま続ける。


「みんなに合わせてただけなんだ」


 以前、拓也が最初の事業に失敗した時、立て直すための資金を出したのは俺だった。


「昨日」


「……」


「俺があの端末を見てなかったら、いつ教えるつもりだった?」


 拓也は答えなかった。


 それで十分だった。


 その日のうちに、俺個人と関係会社が予定していた追加出資を、すべて白紙にした。


 数か月後。


 拓也の会社は新たな資金調達に失敗し、破産手続に入った。


 それ以来、拓也と連絡を取ることはなかった。



6



 翌朝。


 俺と雪乃は、凪原市役所へ向かった。


 昨夜のうちに、婚姻届の準備はすべて済ませていた。


 市役所へ入る直前。


 雪乃が立ち止まった。


「颯人」


「うん」


「最後に一回だけ聞くね」


 俺も足を止めた。


「もし今、私と結婚する理由が彩香への仕返しだけなら」


 まっすぐ俺を見る。


「私はここから先には行かない」


 前の晩、俺たちは何時間も話した。雪乃と別れた後のことも、彩香と出会い、本気で結婚しようとしていたことも、全部話した。


 雪乃は怒らなかった。


「それならよかった」


「何が?」


「この五年間」


 少しだけ笑った。


「私を待ちながら、別の人を身代わりにしてたわけじゃないってこと」


 その言葉を聞いた時、少しだけ救われた。


 雪乃の手を取る。


「五年前、本気で雪乃と結婚したかった」


「うん」


「その後は、もう終わったことだと思ってた」


「……」


「でも昨日、実際に雪乃が目の前に来たら」


 一度言葉を探す。


「忘れたんじゃなくて、話す機会がなくなっただけだったんだって分かった」


 雪乃はしばらく俺を見ていた。


 やがて笑う。


「じゃあ、行こっか」


 婚姻届は問題なく受理された。


 受理証明書を受け取り、市役所を出る。


 その直後だった。


「颯人!」


 彩香が駆けてきた。


 一睡もしていないのだろう。


 髪は乱れ、目の周りは赤い。


「昨日のこと、もう一回ちゃんと話そう」


 息を切らしている。


「亮介は警察に連れていかれた」


「知ってる」


「やっと分かったの。あの人がどういう人だったのか」


 こちらへ手を伸ばした。


 一歩下がる。


 彩香の手が空中で止まる。


「今日、本当は私と婚姻届を出す予定だったでしょ?」


 雪乃が持っていた書類を静かにまとめた。


 彩香の目が、婚姻届受理証明書へ向く。


 顔から血の気が引いた。


「……本当に出したの?」


「奇遇だな」


「え?」


「昨日、そっちにも『運命の相手』が戻ってきたんだろ」


 雪乃の手を握る。


「俺の方にも、戻ってきた」


 彩香の目に涙が溜まった。


「颯人」


「何?」


「そんなのおかしいよ」


「……」


「私、五年もあなたと一緒にいたんだよ?」


「うん」


「昨日一日のことで、全部なかったことにするの?」


「一日?」


 思わず笑った。


「俺は、本気で家族になるつもりだった」


「私だって――」


「でもお前は昨日、亮介と式を挙げた」


 彩香が黙る。


「その翌日に俺と婚姻届を出すつもりだったんだろ?」


「それは……」


「株の契約も含めて」


 彩香の目が揺れた。


「私は……ただ、亮介に借りがあっただけ」


「そう」


「颯人と別れようなんて、本当に思ってなかった」


「つまり」


 一歩近づく。


「亮介とは結婚式をする」


「……」


「でも俺とも結婚する」


 彩香は何も言えない。


「それが予定だった?」


 沈黙。


 その顔を見る。


「俺を選びたかったんじゃない」


「違う」


「どっちも手放したくなかっただけだろ」


「颯人――」


 そこへ二人の刑事が近づいてきた。


 一人が彩香の前で止まる。


「藤森彩香さんですね」


 逮捕状を示した。


「五年前の保険金詐欺事件について、詐欺容疑で逮捕します」


 彩香の顔が固まる。


「KUGA NEXTの資金に関する件についても、あわせて捜査中です」


 彩香が俺を見る。


「颯人!」


 動かなかった。


 車へ乗せられる直前まで、彩香は何度もこちらを振り返った。


 ドアが閉まる。


 隣の雪乃は何も言わなかった。


 こちらから手を伸ばす。


「帰ろう」


「どこに?」


「家」


 雪乃が少しだけ笑った。


「どの家?」


「これから探す」


 今度は、雪乃が声を上げて笑った。



7



 捜査が進むにつれ、五年前の事件の全体像も少しずつ見えてきた。


 最初に弁護士から知らされたのは、高城航という男の存在だった。


 彩香と亮介、そして高城。


 三人は事故を偽装し、高城が死亡したように見せかけて高額な保険金をだまし取っていた。


 当時は誰もが、高城は事故で死んだものと信じていた。


 けれど実際には生きていた。


 亮介が五年間服役することになった直接の原因は、保険金詐欺そのものではなかった。


 計画を知った人物が警察へ行こうとした際、彩香と揉み合いになって重傷を負った。


 亮介は彩香を守るため、その後の責任を大きく引き受け、証拠隠しにも関わった。


 その結果、実刑判決を受けた。


 一方で、保険金詐欺の全貌までは当時明らかになっていなかった。


 少なくとも彩香は、亮介が自分を守るために五年も刑務所に入ったのだと信じていたのだろう。


 亮介自身も何度も、


「出たら、今度こそやり直そう」


と言っていたらしい。


 だからこそ、出所した亮介のために、あの時できなかった結婚式を今度こそしてあげたいと思ったのかもしれない。


 ところが、捜査で確認された金の流れは、彩香が思っていたものとは違っていた。


 保険金が入った後、高城が亮介に渡した金はごく一部。


 残りは亮介の出所後に分ける約束だったという。


 しかし亮介が刑務所にいる五年の間に、高城は金を持って海外へ消えていた。


 出所した亮介は高城と連絡が取れず、まともな収入もなかった。


 そこで再び彩香の前に現れた。


「俺はお前のために五年入った」


 その言葉で、彩香の罪悪感を利用したらしい。


 会社側の調査報告では、彩香の不正も次々と見つかった。


 代表取締役の立場を利用し、KUGA NEXTから自分が支配するF.A. Partnersへ、関連取引を装って何度も資金を移していた。


 一部は亮介へ流れ、別の一部は高リスクの投資や私的な支出に使われていた。


 F.A. Partnersには約三億円の債務が残った。


 複数の融資には、彩香自身の個人保証がついていた。


 彩香の父親も、娘のために「急病で搬送された」という嘘へ協力した件で事情を聴かれた。


 彩香名義のスポーツカーは、その後の債務処理に伴い差押えの対象になった。


 莉子についても、やがて裁判の結果が出た。


 銀行の記録には、認証トークンを使って会社口座へログインし、実際に送金操作をした履歴が残っていた。


 送金そのものは成立しなかった。


 それでも後に有罪判決を受け、執行猶予がついた。


 ある日、莉子から長い手紙が届いた。


 最初の一行だけ読んだ。


『お兄ちゃん、ごめんなさい。』


 そこで手紙を閉じた。


 それきり返事はしなかった。



8



 翌年。


 一連の事件について、判決が出始めた。


 亮介には、保険金詐欺や証拠隠し、その他新たに明らかになった犯罪について実刑判決が下った。


 彩香も、保険金詐欺への関与と会社資金の不正流用などで実刑となった。


 秘密のLINEグループにいた人間たち全員が罪に問われたわけではない。


 後に別件で違法な賭博や無登録貸金への関与まで見つかった者だけが、それぞれ捜査や処分を受けた。


 その頃には、KUGA NEXTの上場準備も再開していた。


 雪乃も御堂グループの経営中枢へ正式に入り、お互い忙しくなった。


 彩香たちのことを話題にする機会も、ほとんどなくなっていた。


 それでも、一度だけ刑務所へ面会に行った。


 ガラスの向こうに現れた彩香は、以前より髪が短く、頬もかなり痩せていた。


 俺を見ると、目にわずかな光が戻る。


「颯人……」


 受話器を取る。


「来てくれたんだ」


「一つだけ、伝えに来た」


 彩香の表情が固まる。


「高城航は死んでない」


 指先が震えた。


「……何?」


「五年前の事故は偽装だった」


 しばらくこちらを見たまま動かない。


「じゃあ……亮介は?」


「知ってた」


「嘘」


「出所したら、高城から金を受け取る約束だったらしい」


 彩香の唇が震えた。


「でも亮介は、私のために……」


「高城は待ってなかった」


「……」


「金を持って、もう海外に消えてた」


 彩香から力が抜けた。


 しばらくして、ようやく口を開く。


「じゃあ……」


「うん」


「亮介が出てきて、私のところに来たのは……」


「金が必要だったからだろ」


 彩香は動かなかった。


 やがて、ぽつりと言った。


「私のこと、愛してるって言ってた」


「昔は、本当に愛してたのかもしれない」


 否定はしなかった。


「でも出所した後」


 一度言葉を切る。


「一番必要だったのは金だった」


 彩香は突然笑い出した。


 そのまま泣き始める。


「じゃあ……私の五年って、何だったの?」


 答えなかった。


 俺が答えることではない。


 面会を終えようとした時、呼び止められた。


「颯人」


「何?」


「もしあの日」


 涙を拭う。


「私が本当に一時間以内にホテルへ戻ってたら……」


「……」


「それでも私と結婚してくれた?」


 少し考えた。


「うん」


 彩香の目が見開かれる。


 嘘ではない。


 もしあの日、最後に俺のところへ戻ってきて、全部を話していたなら。


 結婚式は中止にしたとしても、話くらいは聞いただろう。


 五年の気持ちは、一時間で完全に消えるほど軽くはなかった。


 でも彩香は来なかった。


 亮介のそばに残った。


 そして皆と一緒に、何も知らない俺を笑うことを選んだ。


 俺たちを終わらせたのは、LINEを見つけたことじゃない。


 彩香自身が、あの日何を選んだかだ。


 受話器を戻した。


 もう振り返らなかった。



9



 刑務所を出ると、外はよく晴れていた。


 雪乃の車が路肩に停まっている。


 俺に気づくと窓を下げ、コーヒーを差し出した。


「終わった?」


「終わった」


 助手席へ乗り込む。


 彩香には、もう一つ話していないことがある。


 亮介の出所を知った頃から、高城航について少しずつ調べ始めていた。


 最初から保険金詐欺の全貌を知っていたわけではない。


 KUGA NEXTの上場準備の過程で行った内部調査で、彩香の過去につながる不自然な資金記録が出てきたのがきっかけだった。


 当初は、上場審査へ影響が出ないか確認したかっただけだ。


 ところが資金を追ううちに、高城が本当に死亡したのかという点にも不自然な部分があると分かった。


 さらに亮介が出所し、過去の関係者へ接触し始めたことで、警察も再び事件を追うようになった。


 結婚式の前には、こちらで集めた資料を弁護士と警察へ渡していた。


 だから亮介があの日ホテルへ来た時点で、警察はすでに彼を調べていた。


 それでも、まさか全部が一気に表へ出るきっかけになるのが、拓也の置き忘れた一台の端末だとは思わなかった。


 雪乃が車を出す。


 しばらくして、横から声がした。


「今でも後悔してる?」


「何を?」


「五年前」


 前を向いたまま聞く。


「私を選ばなかったこと」


 思わず笑った。


「後悔してない」


 雪乃がちらりとこちらを見る。


「どうして?」


「もしあの五年がなかったら」


「うん」


「たぶん分からなかったから」


「何が?」


 窓の外を見る。


「長く一緒にいたからって、その人がずっと同じ気持ちでいてくれるとは限らないってこと」


 雪乃は少し黙った。


「じゃあ、今は何が分かったの?」


 センターコンソールの横にあった手を握る。


「結婚しても、会社口座の認証トークンは家に置かない方がいい」


 一秒遅れて、雪乃が吹き出した。


「颯人、少しは真面目に話せないの?」


 俺も笑った。


 あの日まで隣に立つはずだった相手とは、まったく違う人と人生を歩くことになった。


 それでも今は、誰かの嘘を信じているわけでもない。


 秘密のLINEグループで、いつ真実に気づくのかと笑われているわけでもない。


 雪乃の手を少し強く握った。


「帰ろう」


「うん」


 車は午後の街へ走り出した。




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犯罪者連中がみんな頭悪くて草wwwww
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