婚約破棄されましたが、私がいなくなった後の図書室が大変なことになっているそうですわ――三年間で四十九回の無礼を許しましたが、五十回目はございません
「今日この場をもって、君との婚約を破棄する」
アルベルト様の声が、古城の大広間に高らかに響き渡った。
(ああ、ようやく)
私、リリアーナ・フォン・グリモワールは、三年間待ち望んだその言葉を、ついに聞くことができた。
燭台の炎が揺れる大広間には、公爵家の重臣たちが居並んでいる。その視線が一斉に私へと注がれた。哀れみ、嘲笑、そして僅かな好奇心。どれも見慣れたものだった。
「君のような地味で陰気な女より、聖女様の方が公爵家の嫁にふさわしい。わかるだろう?」
アルベルト様は自信に満ちた笑みを浮かべながら、傍らに立つ蜂蜜色の髪の令嬢——聖女エステル様の肩を抱き寄せた。白い軍服に身を包んだその姿は、確かに絵画のように美しい。
(でも、その美しさの中身が空っぽだということを、三年間で嫌というほど思い知りましたわ)
「私、リリアーナ様のお立場を奪うつもりなんてなかったの。でも、神託には逆らえなくて……」
エステル様が翡翠の瞳に涙を浮かべ、いかにも心苦しそうに俯く。その仕草の一つ一つが計算されていることなど、私にはお見通しだった。
(四十七回目の無礼と、二十三回目の被害者ムーブですわね。きちんと数えておりますわ)
「……かしこまりました、アルベルト様」
私は深く頭を下げた。銀縁の眼鏡が僅かにずれるのも構わず。
「え?」
アルベルト様が目を瞬かせる。どうやら、泣いて縋りつくとでも思っていたらしい。
「三年間のご厚情、感謝いたします。本日中に荷物をまとめ、城を出ますわ」
「ま、待て。そんなにあっさりと……」
「あっさりと?」
私は静かに微笑んだ。三年間磨き上げた、完璧な令嬢の微笑みを。
「アルベルト様のご決断を、私ごときが覆せるはずもございません」
(本当は今すぐスキップしながら図書室に戻りたいのですが、それは我慢いたしますわ)
大広間がざわめく。重臣たちが顔を見合わせている。彼らの中には、私が何をしてきたか知る者もいるはずだ。だが、誰も口を開かない。
「リリアーナ様、恨まないでくださいね?」
エステル様がわざとらしく私の手を取る。その翡翠の瞳が、一瞬だけ冷たく光ったのを——私は見逃さなかった。
(ああ、この方。私を憐れむふりをしながら、その実、勝ち誇っていらっしゃるのですわね)
「恨むなど。聖女様のお力があれば、公爵領は安泰でございましょう」
(私がいなくなれば、来月には図書室の封印が緩み始めますわ。三ヶ月後には禁書から瘴気が漏れ出し、半年後には……ええ、楽しみですわね)
もちろん、そんなことは口にしない。
「では、最後にひとつだけ」
「何だ?」
「図書室の第七書架には決して近づかないでくださいませ。あそこの書物は少々……気難しいものですから」
アルベルト様は鼻で笑った。
「本が気難しい? 相変わらず君は変わったことを言う」
「ええ、私は変わり者の地味な女ですから」
最後まで敬語は崩さない。それが私の矜持。
踵を返し、大広間を後にする。背中に感じるエステル様の視線が、妙に熱を帯びていた。
(あの方、図書室の禁書を狙っていますわね。その勘の良さだけは褒めて差し上げますわ)
だが、私がいなくなった後で禁書に近づけば——。
「お嬢様」
廊下で待っていたのは、栗色の髪をきっちりとまとめた侍女頭のマルガレーテ。厳格な表情の奥に、怒りの炎が揺れている。
「見ていたの?」
「はい。あの方には鉄槌が必要でございます」
「マルガレーテ、物騒よ」
「お嬢様ほどではございません」
私は思わず小さく笑った。三十年仕えてくれたこの人には、私の本性などお見通しなのだろう。
「荷造りを。今夜中に発ちますわ」
「畏まりました。……お嬢様、本当によろしいのですか?」
「ええ」
私は眼鏡を押し上げ、古城の天井を見上げた。
「三年間で四十九回、あの方の無礼を許しましたわ。五十回目は——ございませんの」
月明かりが廊下に差し込む。今夜も、封印の儀式をしなければ。
——これが最後の。
◇ ◇ ◇
深夜、古城の図書室。
私は銀縁の眼鏡を外し、蝋燭の灯りの中で古代語の詠唱を紡いでいた。
「——第七の封印よ、我が血をもって眠りを継続せよ」
指先を小さく切り、一滴の血を古びた魔法陣に落とす。床に刻まれた紋様が淡く紫に輝き、そして静まった。
「今月分の封印、完了ですわ」
三年間、毎夜欠かさず続けてきた儀式。この古城の図書室には、世界を滅ぼしうる七つの禁書が封印されている。そしてその封印を維持できるのは——グリモワール家の血を引く者だけ。
「お嬢様、お体に障ります」
マルガレーテが温かい紅茶を差し出してくれる。私はありがたく受け取り、一口含んだ。カモミールの香りが、張り詰めた神経を僅かに緩める。
「ありがとう。……ねえ、マルガレーテ」
「はい」
「私がこの三年間で公爵領にしたこと、覚えているかしら」
「もちろんでございます」
侍女頭は指を折り始めた。
「税制改革で領地の収入を三倍に。新しい農法の導入で飢饉を回避。商会との交渉で港の使用権を獲得。隣国との国境紛争を外交文書で解決。そして——」
「もういいわ」
私は苦笑した。
「アルベルト様は、その全てを『聖女の加護のおかげ』だと思っているのよ」
「……あの方には鉄槌が」
「マルガレーテ」
「失礼いたしました」
だが、彼女の言葉は正しい。
アルベルト様は、私が毎晩図書室に籠もっていたのを「地味で陰気な趣味」だと思っていた。財政報告書を作成していたのを「婚約者として当然の義務」だと思っていた。
(四十八回目の無礼は、昨日の晩餐会でしたわね。『リリアーナは本ばかり読んでいて会話がつまらない』と、聖女様の前で仰っていましたもの)
窓の外を見る。月明かりに照らされた中庭で、聖女エステル様が何やら使用人と話している。
(あら、あの方向は……第七書架への隠し通路ですわね)
「マルガレーテ、明日の朝までに荷物をまとめて。そうそう、この城の設計図と隠し通路の地図は、全て処分しておいて」
「畏まりました」
聖女様が禁書を手に入れようとしている。それは明白だった。
だが、私が去った後の封印されていない禁書に触れれば——。
「あの方、神託の力を失うどころでは済みませんわ」
私は静かに微笑んだ。
三年間、耐えてきた。三年間、全てを飲み込んできた。
でも、もう終わり。
「さようなら、アルベルト様。どうか聖女様と——お幸せに」
皮肉ではない。本心からそう思う。
幸せになれるものなら、なってみせてほしい。
私の代わりに。
◇ ◇ ◇
翌朝、城門の前。
「リリアーナ様、本当に行ってしまわれるのですか」
見送りに来たのは、厨房の料理長と数人の使用人だけだった。アルベルト様もエステル様も、姿を見せない。
(まあ、期待していたわけではありませんけれど)
「ええ。皆様、どうかお元気で」
「私どもは……あなた様のご恩を忘れません」
料理長が涙ぐんでいる。この三年間、私が密かに賃金改善を進めていたことを、彼らは知っている。
「ご恩など。私は何もしておりませんわ」
(公式には、ね)
小さな馬車に乗り込もうとした、その時だった。
蹄の音が響く。
「お待ちください」
漆黒の軍馬を駆って現れたのは、黒髪に琥珀色の瞳を持つ騎士。その胸には——王家直属を示す紋章。
「守護者殿。あなたをお迎えに参りました」
私は息を呑んだ。
「クロード……様?」
「覚えていてくださいましたか」
騎士——クロード・フォン・シュヴァルツァーは、馬から降りて膝をついた。鍛え上げられた長身、古傷が刻まれた精悍な顔立ち。無表情だが、その琥珀の瞳には誠実さが宿っている。
「王家の命により、グリモワール家のリリアーナ嬢を王都へお連れするよう仰せつかっております」
周囲の使用人たちがざわめく。王家直属騎士団長が、直々に?
「十年ぶりですわね」
私は静かに言った。
「はい。あの時、あなたは一人で封印の儀式を行っていた。まだ十二歳だった」
「覚えていらっしゃるの」
「忘れたことはありません」
クロード様の琥珀の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
(この方だけですわ。私の一族の使命を知り、そして——私を『地味で陰気な女』ではなく見てくださったのは)
「国王陛下があなたを王立図書館の特別顧問に任命されました。正式な辞令は王都で」
「特別顧問……」
「あなたの能力と功績を、陛下は正当に評価しておられます」
功績。
三年間、誰にも認められなかった功績を、王家は知っていた。
「お嬢様」
マルガレーテが私の手を握る。その目には、安堵の涙が浮かんでいた。
「行きましょう、マルガレーテ」
「はい、お嬢様」
私は馬車を降り、クロード様の差し出す手を取った。
「クロード様、ひとつお聞きしてもよろしいですか」
「何なりと」
「この三年間、なぜ助けに来てくださらなかったの?」
皮肉ではない。純粋な疑問だった。
クロード様の表情が、僅かに曇る。
「あなたが公爵家嫡男の婚約者となった時、私は……近づく資格がないと思いました」
「資格?」
「私は辺境伯家の三男です。公爵家の婚約者に声をかけることすら、無礼にあたる」
(この方も、身分に縛られていらしたのですわね)
「最大の不覚でした」
クロード様が低く呟く。
「もっと早く、陛下に進言すべきだった。あなたを公爵家から引き離すよう」
「過ぎたことですわ」
私は微笑んだ。今度は、本心からの。
「さあ、参りましょう。王都へ」
古城を振り返る。図書室の窓から、誰かがこちらを見ているのが見えた。
——聖女エステル様。
(せいぜい、禁書を探し回ってくださいませ。私がいなくなった後の封印がどうなるか、すぐにおわかりになりますわ)
馬が歩き出す。
三年間の牢獄だった古城が、少しずつ遠ざかっていく。
「クロード様」
「はい」
「私、生まれて初めて——自由というものを感じておりますわ」
騎士団長は何も言わなかった。
ただ、その琥珀の瞳が、僅かに優しく細められた。
◇ ◇ ◇
リリアーナが去って、三日目の夜。
「何だ、これは……!」
アルベルトは図書室の扉の前で立ち尽くしていた。
扉の隙間から、黒い霧のようなものが漏れ出している。それに触れた蝋燭の炎が、一瞬で消えた。
「エステル、これは一体」
「わ、わかりません……私の浄化の力が、全く効かないの」
聖女エステルが震える声で答える。彼女が放った聖なる光は、黒い霧に触れた途端に掻き消された。
「リリアーナが何かしたのか!?」
「違いますわ、アルベルト様」
古参の侍女が青ざめた顔で進み出る。
「リリアーナ様が毎夜なさっていたのは、この霧を……抑えることだったのです」
「何?」
「グリモワール家は代々『書物の守護者』。この図書室に封印された禁書の力を抑えられるのは、あの方の血筋だけ……」
「馬鹿な! そんな話、聞いたことがない!」
「あなた様が聞こうとなさらなかっただけでございます」
侍女の言葉に、アルベルトは絶句した。
「リリアーナを呼び戻せ。今すぐだ!」
「それが……リリアーナ様は既に王都に。王立図書館の特別顧問に就任されたと」
「王立図書館の……特別顧問?」
アルベルトの顔から血の気が引く。それは王家直轄の要職。公爵家の権限が及ぶ場所ではない。
「嘘よ!」
エステルが叫んだ。
「あんな地味で陰気な女が、王家に認められるはずがない!」
「エステル、落ち着いて——」
「私は聖女よ!? 神に選ばれた存在なの! なのに、なぜ……」
その時、図書室の奥から低い唸り声が響いた。
禁書が、目覚めようとしている。
「王都に使者を送れ! リリアーナに戻ってくれと——」
「お言葉ですが、アルベルト様」
侍女頭が冷たく告げる。
「婚約を破棄なさったのは、あなた様でございます」
◇ ◇ ◇
同じ頃、王都の王立図書館。
「リリアーナ嬢、報告書を拝見しました。実に見事だ」
国王レオンハルト三世は、満足げに頷いた。白髪交じりの金髪と威厳ある碧眼を持つ五十代後半の王は、穏やかな笑みの奥に鋭い洞察力を隠している。
「恐れ入ります、陛下」
私は深く頭を下げる。
「公爵領の財政改革、農政改革、外交文書……全てあなたの手によるものだったとは。あの若造は何も知らなかったようだな」
「アルベルト様は、お忙しい方でしたので」
(無能を忙しいと表現する私の語彙力、褒めてほしいですわ)
「フォローせんでいい。あやつは救いようのない愚か者だ」
陛下が苦笑する。
「そなたの祖父とは親友だった。グリモワール家の使命も、そなたの価値も、余はよく知っておる」
「……ありがとうございます」
生まれて初めて、正当に評価された。
それだけで、三年間の全てが報われた気がした。
「報告がある」
傍らに控えていたクロード様が口を開く。
「公爵家の古城で異変が起きています。図書室から瘴気が漏れ出し、聖女の浄化では対処できないと」
「ほう」
陛下が私を見る。
「リリアーナ嬢、心当たりは?」
「ございます」
私は淡々と答えた。
「私が去れば、遅くとも一週間で封印が緩み始めると申し上げておりましたわ。もっとも、アルベルト様はお聞きになりませんでしたけれど」
「聖女エステルはどうした」
「あの方の力では、禁書には触れることすらできません。触れようとすれば……」
私は言葉を切った。
「どうなる?」
「神託の力を失うでしょう。禁書は偽りの聖性を許しませんから」
陛下とクロード様が顔を見合わせる。
「偽りの聖性とは?」
「陛下、エステル・ルミエールという名をお調べになれば、すぐにおわかりになりますわ」
私は微笑んだ。
「あの方は聖女ではございません。隣国から送り込まれた——」
「スパイか」
「ご明察でございます」
三年間、ずっと気づいていた。聖女の仮面の下に隠された、冷たい野心を。
「なぜ今まで黙っていた」
「誰も、私の言葉など信じませんでしたもの」
地味で陰気な、本ばかり読んでいる婚約者の言葉など。
「……そうか」
陛下は深く息をついた。
「余の不明だった。もっと早く、そなたを呼び寄せるべきだった」
「いいえ、陛下。全ては必要な時間でした」
私は窓の外を見た。王都の夜空に、星が瞬いている。
「三年間で、私は多くを学びました。そして——」
クロード様と目が合う。琥珀の瞳が、静かに私を見つめていた。
「自分の価値を知る人に、出会えましたから」
◇ ◇ ◇
一ヶ月後、王宮の謁見の間。
「リリアーナ! 頼む、戻ってきてくれ!」
アルベルト・フォン・ヴァイスシュタインは、かつての傲慢さなど微塵も感じさせない様子で床に膝をついていた。
金髪は乱れ、白い軍服には皺が寄り、碧眼は焦燥に濁っている。
(まあ、随分とやつれていらっしゃること)
私は王立図書館特別顧問の正装——深い紫のドレスに身を包み、玉座の傍らに立っていた。銀縁の眼鏡は外している。
「アルベルト殿」
国王陛下が冷たく告げる。
「そなたが何をしに来たか、余は知っておる。だが、リリアーナ嬢は既に王家の臣。そなたの要求に応じる義理はない」
「しかし、陛下! 古城の図書室が——」
「そなたが『地味で陰気な女』と追い出した者の力がなければ、維持できぬ代物だろう?」
陛下の言葉に、アルベルト様が青ざめる。
「そ、それは……」
「リリアーナ嬢」
陛下が私を促す。
「何かあれば申せ」
「畏まりました」
私は一歩前に出た。
「アルベルト様」
「リリアーナ……!」
彼の瞳に希望の光が灯る。愚かな人。
「この三年間、私は四十九回、あなた様の無礼を許しました」
「無礼……?」
「覚えていらっしゃらないのですね」
私は微笑んだ。慈悲深い、けれど完璧に冷たい微笑みを。
「深夜の封印作業を『陰気な趣味』と嘲笑されたこと。財政報告書を『婚約者の義務』と片付けられたこと。私の提案を聖女様の手柄にされたこと。晩餐会で『会話がつまらない』と公言されたこと——」
「そ、それは」
「四十九回、全て記録しております」
私は懐から小さな手帳を取り出した。
「日付、場所、状況、発言内容。証人の名前も添えて」
(几帳面な性格で良かったですわ)
「そして本日、あなた様は五十回目の無礼をなさいました」
「五十回目……?」
「『戻ってきてくれ』と仰いましたね」
私は手帳を閉じた。
「三年間の献身を『当然の義務』と踏みにじっておきながら、困った時だけ私を頼る。それが五十回目の無礼でございます」
「リリアーナ、私は——」
「五十回目は、ございません」
静かに、けれど毅然と。
「お帰りください、アルベルト様。あなた様の領地のことは、あなた様がお考えになることです」
「待ってくれ! エステルは——聖女は——」
「聖女エステル様でしたら」
傍らからクロード様が口を開いた。
「先刻、王都の牢に収監されました。隣国のスパイであることが発覚いたしましたので」
「な……」
「禁書に近づこうとした代償で、神託の力を失いました。その際に自白した内容から、王国転覆の企てが明らかになっています」
アルベルト様が崩れ落ちる。
「そんな……私は……」
「アルベルト・フォン・ヴァイスシュタイン」
陛下の声が、謁見の間に響き渡った。
「そなたはスパイを聖女と崇め、真の功労者を追放した。公爵家の信頼は地に落ちた。よって——」
「お、お待ちください、陛下……!」
「そなたの爵位継承権を剥奪する」
「そんな……!」
「異議があるなら、リリアーナ嬢の功績を一つでも挙げてみよ」
沈黙。
彼は——何一つ知らないのだ。私が三年間、何をしてきたのか。
「……知りません」
「それが答えだ。下がれ」
衛兵に引きずられていくアルベルト様を、私は静かに見送った。
(四十九回の無礼、本日をもって精算完了ですわ)
「リリアーナ嬢」
陛下が穏やかに声をかける。
「よく耐えた。そなたは見事だ」
「恐れ入ります」
「して、クロード」
「はっ」
「そなた、何か言いたいことがあるのではないか?」
陛下の目が笑っている。クロード様が珍しく狼狽した表情を見せた。
「陛下、今は……」
「いつまで待つつもりだ。十年では足りぬか」
「……」
クロード様が私の前に進み出る。
「リリアーナ嬢」
琥珀の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「私は十年前からあなたを見てきた。あなたの強さを、聡明さを、そして——美しさを」
(眼鏡を外しているから、ではありませんわよね……?)
「今さら不躾だとは思う。だが、もう黙っていられない」
騎士団長が膝をついた。
「私と共に歩んでくれないか。あなたの価値を、誰よりも知る者として」
謁見の間が静まり返る。
私は——。
「クロード様」
「はい」
「十年は、長すぎましたわ」
彼の表情が曇る。
「だから——」
私は微笑んだ。今度こそ、心からの。
「これからは、傍にいてくださいませ」
クロード様の瞳が大きく見開かれ、そして——柔らかく緩んだ。
「必ず」
◇ ◇ ◇
王宮の庭園に、春の陽射しが降り注いでいた。
「姉上、お美しいです」
フェリクスが感慨深げに呟く。病弱な弟が王都まで来られたのは、陛下の計らいで最高の医師団がついたからだ。黒髪紫眼を持つ美少年は、年齢に似合わぬ落ち着きで私を見つめている。
「あなたも随分顔色が良くなったわね」
「姉上が幸せそうだと、僕も元気になります」
「相変わらず姉馬鹿ね」
「姉上の弟ですから」
私たちは笑い合った。
「お嬢様、そろそろお時間でございます」
マルガレーテが声をかける。彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「マルガレーテ、泣かないで」
「泣いておりません。目にゴミが入っただけでございます」
「三十年仕えてきて、嘘が下手なままですわね」
「お嬢様に似たのでございます」
正面から、黒い正装に身を包んだクロード様が歩いてくる。
「リリアーナ」
「はい」
「——美しい」
言葉少なな彼の、その一言に全てが込められていた。
「参りましょう、クロード様」
私は差し出された手を取る。
◇ ◇ ◇
古城の図書室は、今では王家直轄となっている。
禁書の封印は、私とフェリクスで交代で維持することになった。一人で背負う必要は、もうない。
「リリアーナ・フォン・グリモワール」
国王陛下の声が、王宮の大広間に響き渡る。
「そなたを正式に『禁書の守護者』に任ずる。その名を歴史に刻め」
「謹んでお受けいたします」
私は深く頭を下げた。
傍らにはクロード様。後ろにはマルガレーテとフェリクス。
三年間、誰にも認められなかった。誰にも理解されなかった。
でも今は——。
「リリアーナ」
クロード様が小声で囁く。
「幸せか?」
「ええ」
私は微笑んだ。銀縁の眼鏡の奥で、紫水晶の瞳が潤む。
「今度は、私の価値を知る人と歩めますから」
◇ ◇ ◇
後日談。
爵位継承権を剥奪されたアルベルト・フォン・ヴァイスシュタインは、辺境の小領地で隠居生活を送ることになった。
かつての公爵家は王家の信頼を完全に失い、所領の大半を没収された。
「なぜだ……なぜこうなった……」
彼は今も理解していないという。
自分が何を失ったのか。自分が何をしたのか。
「あの愚物は一生気づきませんわ」
私は王立図書館の窓辺で、紅茶を啜りながら呟いた。
「気づく必要もございません。もう、私には関係のない方ですもの」
「リリアーナ」
クロード様が執務室に入ってくる。
「今夜の封印の儀式、付き添おう」
「まあ、護衛してくださるの?」
「護衛ではない」
彼は真面目な顔で言った。
「夫として、妻の仕事を見届けたいだけだ」
「……クロード様」
「何度言えばいい。様はいらない」
「では——クロード」
私は眼鏡を外し、微笑んだ。
「今夜もよろしくお願いいたしますわ、私の騎士様」
琥珀の瞳が、優しく細められる。
「ああ。これからも、ずっと」
◇ ◇ ◇
『グリモワール家史記』より抜粋——
「第十七代守護者リリアーナは、王立図書館特別顧問として数々の功績を残した。また、騎士団長クロードとの間に三人の子を儲け、グリモワールの血統を絶やすことなく次代へと繋いだ。彼女は晩年、こう語ったという。
『私の人生で最も幸福だったのは、自分の価値を知る人々に囲まれた日々でした。そして最も愚かだったのは、それに気づかない人のために三年も費やしたこと。若い守護者たちに伝えたい——あなたの価値を認めない場所に、留まる必要はないのです』」
——完——




