日傘の使用が増えてるけど、日傘で誤って誰かを傷つけたとき、雨傘ほど理解は得れるの?罪が重くなったりしない?
雨が降っているから、あなたは傘を差す。道には、傘で顔を覆われたキノコの大群が歩いている。すると、あなたの傘は誰かを傷つけたようで、相手は顔から血を流している。
日差しが強いから、あなたは傘を差す。道には、まばらに傘をさしたキノコの大群が歩いている。すると、あなたの傘は誰かを傷つけたようで、相手は顔から血を流している。
雨が降っているときに雨傘を使うのは、一般的に広く理解されている。
日が照っているときに日傘を使うのは、一般的に広く理解されてない。
この「雨傘への理解」と「日傘への不理解」の差が、冒頭で想定した「傘で誰かを傷つけた」という状況の罪の重さを変えてしまうのではないかと、私は心配している。
私は法律には詳しくないのだが、好奇心から法律や判例、裁判例を見ていると「そうである必要があったのか?」というのが大事っぽい。
たとえば、あなたは道端で全身にパンツを履いた変質者に絡まれた。あなたはしつこい相手をとっさに突き飛ばした。相手は転倒して軽度のケガを負った。
このような場合、突き飛ばしたことで相手がケガを負ってしまったわけだから、「そもそも、突き飛ばす必要性があったのか?」というのが大事になるっぽい。
⋯⋯ちょっと理不尽だよね。
わたしもそう思う。
この「そうである必要があったのか?」というのを重視する法律の性格(?)は、冒頭の「雨傘で人を傷つけた場合」と「日傘で人を傷つけた場合」でも、当然のように発揮されると思う。
雨が降っているときに雨傘を差すのは、「そうする必要があった」と判断されると思う。人類と雨の戦いの歴史は古く、「雨が降ると傘を差す」という行動は、もはや人の習性として定着しつつあるからだ。
その一方で、日が照っているときに日傘を差すかは、個人の美意識や日光への耐性など、いわゆる「個人の裁量」に強く依存する。
だから、もし日傘で誰かを傷つけて裁判になったときには、「本当に差す必要があったのか⋯?」とやや理解されにくい性質が日傘にはある、と私は思う。
つまり、同じ「傘」である雨傘にくらべて、日傘を差すことの正当性の理解し辛さが罪の重さを強くしてしまうのかもしれない。
そんなことを思った。
感想欄は封鎖してるんだけど、
この話をみんなはどう感じる?
【あとがき】
そもそも、「道を歩くときは周囲に気を配らないといけない」といった裁判例があるみたい。
道には、高齢者や小学生、見た目では分からない視力の悪い人などの「交通弱者」がいるから、気をつける必要があるんだってー。
雨傘を差しているときは、周囲の人々も気をつけてくれるだろうし、相手の傘が顔を守るシェルターの役割を果たすだろうから、自分の傘が人を傷つけることは少ないと思う。
日傘を差しているときは、折りたた式の平たく広い形状や使っていない人との距離感、差していない人は顔が守られていないことなどから、一方的な危害になりやすいと私は感じる。
つまり、道を歩くときにはみんな気をつけよう。




