第36話 夕暮れの逃避行
『銀灰の掠夜彗星』、シーズン1最終話です。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
嵐を越えた二人の、再会の景色です。
嵐が、遠ざかっていく。
『黒鳶』が分厚い雲海を突き抜けた瞬間、コクピットを満たしていた轟音と振動が、嘘のように消え失せた。
そこに広がっていたのは、突き抜けるような群青色の空だった。
『白夜航路』の澱んだ空とは違う。太陽の光が直接降り注ぎ、空気さえも澄んで見える高高度の世界。
眼下には、さきほどまで死闘を繰り広げていた『嵐の壁』が、巨大な灰色の絨毯のように広がっている。
「……眩しすぎらあ」
サクヤは目を細め、バイザーを上げた。
燃料計の針は「E」を指して震えている。エンジンの排気温度は限界を超え、冷却システムも焼き切れる寸前だ。
文字通り、最後の一滴まで絞り尽くしての帰還だった。
『こちらオリエンス号、ブリッジ。……サクヤさん、聞こえますか?』
ノイズ混じりの通信機から、震える声が響く。
アリアの声だ。
「ああ、感度良好だ。……そっちはどうだ、お姫様。船酔いはしてないか?」
『ふふっ……ええ。おかげさまで。……道を作ってくれて、ありがとうございました』
彼女の泣き笑いのような声を聞いて、サクヤはようやく肩の力を抜いた。
生き残ったのだ。
あの絶対的な死の領域である「夜」を突き抜け、嵐をこじ開けて。
『サクヤ殿。……見事だった』
右翼へ、深紅の機体『緋蜂』が並ぶ。
右翼を失い、装甲はボロボロだが、その飛び方は威厳に満ちていた。ヴィグナだ。
『貴公がいなければ、我々は全滅していた。……騎士として、いや一人のパイロットとして、心からの敬意を』
「よしてくれ。俺はただ、生き汚く逃げ回っただけだ」
サクヤは苦笑し、操縦桿を軽く倒した。
『黒鳶』がゆっくりと高度を下げる。
その先には、傷つきながらも悠然と航行する、白き箱船――オリエンス号の広大な甲板が待っていた。
†
ズゥゥゥン……
降着装置が甲板に接地し、機体の重量が鋼鉄の床に沈み込む。
サクヤはエンジンのカットオフ・スイッチを弾いた。
キィィィン……ヒュゥゥゥ……と、タービンの回転音が下がり、やがて完全な静寂が訪れる。
後に残ったのは、過熱した装甲が収縮するキン、キン、という金属音だけ。
サクヤはヘルメットを脱ぎ、身を乗り出してタラップを降りた。
そこには、多くの整備員や船員たちが集まっていた。
そして、人垣が割れる。
その向こうから、一人の少女が駆け寄ってきた。
「サクヤさん!」
アリアだ。
純白のドレスは煤で汚れ、綺麗に整えられていた銀髪も乱れている。
王女としての威厳などかなぐり捨てて、彼女は息を切らせてサクヤの目の前で立ち止まった。
「……よう。ひどい顔だぜ、お姫様」
サクヤは憎まれ口を叩きながら、自分の頬についた油を拭った。
「あなたこそ……。真っ黒じゃないですか」
アリアは涙を堪えて笑った。
サクヤの姿は酷いものだった。フライトスーツは汗と油で汚れ、顔にはゴーグルの跡がくっきりと残り、髪はボサボサだ。
けれど、アリアにとって、それはどんな王子様よりも輝いて見えた。
「……どうして」
アリアが一歩近づく。
「どうして、戻ってきてくれたんですか? あなたは自由になれたのに。安全な街で、生きていけたのに」
その問いに、サクヤは視線を逸らした。
なんと答えるべきか。
「……忘れ物があったんだよ」
「忘れ物?」
「ああ。……あんたに貰ったコーヒーの味が、忘れられなくてな」
それは、あまりにも下手な言い訳だった。
だが、アリアにはその意味が痛いほど伝わった。
あの不味い、泥水のようなコーヒー。それを「美味しい」と笑い合った時間。
彼は、その「温度」を取り戻すために、世界を一周して帰ってきたのだ。
「……馬鹿な人」
アリアの瞳から、ついに涙が溢れ出した。
彼女は衝動のままに、サクヤの胸に飛び込んだ。
油の匂いと、微かな香水の香りが混じり合う。サクヤは困ったように両手を泳がせたが、やがて観念したように、少女の華奢な背中に手を回した。
†
数時間後。オリエンス号、大食堂。
そこは、ささやかながらも熱気のある「祝勝会」の会場となっていた。
長テーブルには、備蓄されていた食料や酒が並べられ、生き残ったクルーたちが互いの無事を祝って杯を交わしている。
「……なんだこりゃ。夢か?」
サクヤは、目の前に置かれた皿を見て目を丸くした。
そこにあるのは、合成肉のパテではなく、本物の「肉」のステーキ。そして、新鮮な野菜のサラダ。
ルーストのドブ板横丁で食べていたネズミ肉のシチューとは、次元が違う。
「オリエンス号の冷凍保存庫にあった特級品だ。……遠慮なく食え、英雄殿」
隣に座ったヴィグナが、ワイングラスを傾けながら言った。
彼女も戦闘服を脱ぎ、騎士団の制服に着替えている。右腕には包帯が巻かれているが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「英雄なんて柄じゃねえよ。……いただきます」
サクヤはナイフを入れた。肉汁が溢れる。口に運ぶと、暴力的なまでの旨味が脳を揺さぶった。
生きている。
その実感が、胃袋から湧き上がってくる。
「サクヤ! ちょっと、これどうなってんのさ!」
背後から、油汚れのついたツナギを着た少女が飛び込んできた。
オリエンス号の整備班長、リベットだ。
彼女は挨拶もそこそこに、興奮した様子で一枚のデータパッドをサクヤの目の前に突き出した。
「飯くらいゆっくり食わせろよ。……で、何が壊れてた? 全部か?」
「壊れてるどころじゃないよ! あんたの機体……『黒鳶』の心臓部を見て腰抜かしたんだ!」
リベットは目をキラキラさせながら、データパッドの数値を指差した。
「通常、炉心温度があそこまで上がれば、斥力制御装置がドロドロに溶け落ちてオシャカだ。でも、あんたの機体の『星の石』を見てみなよ。……真っ赤だった石が、透き通るような『青銀色』に変色してるんだ」
「あぁ? 焦げたのか?」
「違うってば! 『変質』したんだよ! 極限の冷却と、限界突破した熱量。相反する負荷を同時にかけ続けたせいで、石の分子構造が組み変わって、『覚醒状態』になってる!」
リベットの鼻息が荒い。周囲の整備兵たちも、伝説の聖剣でも見るような目で頷いている。
「いわば、あんたの無茶な操縦に機体が適応進化したんだ。今の『黒鳶』なら、以前より少ない燃料で、倍以上の斥力を引き出せる。……こんな現象、理論書の中でしか見たことないよ」
「へぇ、高く売れそうだな」
「馬鹿! 売ってたまるかい! こいつはもう、世界に一つだけのエンジンだ。あたし以外に触らせないからね!」
リベットはサクヤの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「オリエンス号の備蓄パーツと工作機械、全部使っていい許可はもらった。あたしに任せな。……やるからには、徹底的にやるよ。歪んだフレームはオリエンス特製の高張力鋼で補強する。焼きついた伝導パイプは、全部クリスタル・ファイバーに交換だ。それに、装甲の表面には耐熱コーティングを三重に施して……ああもう、考えただけで涎が出そう! あんたの『黒鳶』を、風さえも置き去りにする化け物に作り変えてやるから覚悟しな!」
「……へっ、頼もしいねえ」
サクヤがニヤリと笑うと、リベットも油まみれの顔でニカっと笑い返した。
かつては「野良犬」と蔑まれていた機体が、今や宝石のような輝きを放ち、最高の整備士に愛されている。
その光景を、ヴィグナは眩しそうに見つめていた。
「……変わるものだな。空も、人も、機械さえも」
ヴィグナはそう言うと、手にしたグラスをサクヤに向けた。
中に入っているのは、オリエンス王家秘蔵の年代物の赤ワインだ。その芳醇な香りが、オイルと火薬の匂いに満ちたサクヤの鼻腔をくすぐる。
「……乾杯だ、英雄殿。我々の勝利と、これからの航海に」
「ああ。……あんたのその堅苦しい挨拶も、悪くないツマミだ」
カチン、と澄んだ音が鳴り、二人はグラスを合わせた。
†
宴もたけなわとなった頃。
サクヤは喧騒を抜け出し、一人で上甲板へと出た。
夜風が心地よい。
頭上には満天の星空。そして眼下には、見渡す限りの雲海が月光に照らされて輝いている。
「……ここにいましたか」
鈴を転がすような声。
アリアだ。彼女は二つのマグカップを手に、歩み寄ってきた。
湯気が、甘く香ばしい香りを漂わせている。
「コーヒーです。……今度は、ちゃんとした豆ですよ」
差し出されたカップを受け取る。
一口啜る。
苦味の中に、深いコクと酸味が広がる。あの時の泥水とは大違いだ。
だが、不思議とあの時の味も悪くなかったと思えるのは、隣に彼女がいるからだろうか。
「……美味いな」
「ええ。とても」
二人は並んで手すりに寄りかかり、同じ空を見上げた。
「これから、どうするつもりだ?」
サクヤが尋ねた。
フェリオンは退けたが、オリエンス号の旅は終わっていない。
「目指します。『約束の地』を」
アリアは真っ直ぐに北の空を指差した。
「この『白夜航路』を抜けた先、北極点に近い場所に、かつて人類が住んでいたという伝説の大地があるそうです。そこなら、『夜』の影響を受けずに、太陽が沈まない『常若』の世界が広がっていると」
「……おとぎ話だな」
「ええ。でも、信じる価値はあると思いませんか?」
アリアはサクヤを見つめた。その瞳には、星の光よりも強い意志が宿っていた。
「私、思うんです。夜は怖いけれど、夜があるからこそ、私たちはこうして寄り添い、前に進もうと思えるんじゃないかって」
アリアの視線は、満天の星空から、その下にある漆黒の雲海へと注がれていた。
そこは死の世界だ。けれど、今は月光を受けて、静かな銀色の海原のように見えた。
「夜は、ただ怖いだけじゃない。こうして見ていると、世界を優しく包み込んでいるようにも見えます。……私たちは必死に逃げるあまり、暗闇の隣にある美しさを忘れていたのかもしれません」
「……ロマンチストだな、お姫様は」
サクヤは苦笑し、カップの中の黒い液体を見つめた。
約束の地。常若の世界。
スカベンジャーとして生きてきた自分には、縁のない話だと思っていた。
だが。
「……悪くねえかもな」
「え?」
「俺の『黒鳶』はボロボロだ。修理代だけで、今回の報酬が吹っ飛ぶ計算だ。……それに、借金もある」
サクヤは空になったカップを置き、アリアに向き直った。
「雇ってくれよ、お姫様。……その『約束の地』まで、あんたを送り届けてやる」
アリアは目を丸くし、やがて花が咲くように破顔した。
「……高いですよ? 私の護衛は」
「知ってるさ。命がけだからな」
アリアは右手を差し出した。
サクヤはその手を取り、強く握り返した。
華奢で、柔らかい手。だが、その中には確かな熱があった。
「よろしくお願いします。……私の、騎士様」
「よせよ。俺はただの『掠夜彗星』だ」
二人の笑い声が、星空に溶けていく。
オリエンス号は進む。
夜を越え、嵐を抜け、まだ見ぬ明日へ。
逃避行は終わらない。
だが、もう孤独な逃走ではない。
夜を恐れず、夜を掠めて飛ぶ翼がある限り、彼らはどこまでも飛んでいける。
サクヤは大きく背伸びをした。
心地よい風が、新しい旅の始まりを告げていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
これにて、サクヤとアリアの「ルースト脱出編」は完結となります。
ただの逃避行だった旅が、信頼できる仲間との旅に変わりました。
彼らの空の旅はまだまだ続きますが、まずはここで幕を下ろしたいと思います。
もし「楽しかった!」「サクヤかっこよかった!」と思っていただけましたら、
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感想もお待ちしております。
それでは、また次の空でお会いしましょう。




