第29話 灰色の残り火
お待たせしました、サクヤ視点です。
別れたはずの日常。しかし、飯は不味く、空は狭い。
男が再び空へ還るには、少しのきっかけと、手痛い「一撃」が必要なようです。
中立浮遊都市『錆びた止まり木』、第五居住区画。
配管が迷路のように絡み合う天井からは、絶え間なく汚れた水滴が滴り落ちている。路地裏には、正体不明の露店が立ち並び、人工タンパク質を焼く香ばしい匂いと、粗悪なエタノール燃料の刺激臭が混じり合っていた。
そこは、世界から見捨てられた者たちが集う吹き溜まりであり、サクヤにとっては勝手知ったる「庭」だった。
はずだった。
「……味がしねえな」
サクヤは、馴染みの酒場のカウンターで、スプーンを皿に投げ出した。
琥珀色のどろりとした液体――「特製ラット・シチュー」が、半分以上残ったまま冷え固まっている。普段なら、この塩気の強いスープと、決して柔らかくはない合成肉を流し込み、安酒で喉を焼くのが至福の時間だった。
だが、今日はまるで砂を噛んでいるようだ。
「あぁ? 文句あるなら食うなよ。今日の肉は上等だぞ。昨日捕れたばかりの新鮮なやつだ」
義眼の店主が、磨いていたグラスを置いて不機嫌そうに言った。
「文句じゃねえよ。……ただ、腹が減ってねえだけだ」
サクヤは気のない返事をし、胸ポケットから煙草を取り出した。火をつけるが、その紫煙さえもどこか苦く感じる。
数日前、あの巨大な都市艦のハンガーで飲んだコーヒーを思い出した。泥水のように濁っていて、酸味が強く、粉っぽかった。
けれど、隣には不釣り合いなドレスを着た少女がいて、彼女はそれを「美味しい」と言って笑った。
あの時の温度。
オイルの匂いと、彼女のかすかな香水の香り。
それが今も、鼻腔の奥にこびりついて離れない。
「……重症ね」
隣の席から、呆れたような、それでいて艶のある声が響いた。
紫煙をくゆらせていたのは、レイファだ。
彼女は深いスリットの入ったチャイナドレスの上に、豪奢な毛皮のコートを羽織っている。薄暗い酒場の中で、彼女の周りだけ空気が華やいで見えた。
『赤道』軍の襲撃による被害の算定と、復興指揮。その激務の合間の、束の間の休息なのだろう。
「何がだ」
「あなたよ。……体はここにあるけど、魂はどっかに置き忘れてきたみたい」
レイファは長いキセルを指先で回しながら、サクヤの横顔を覗き込んだ。その鋭い視線は、サクヤの心の奥底にある空洞を完全に見透かしていた。
「スカベンジャーが空を見上げるのは商売上の癖だろ」
「いいえ。あなたが探しているのは『獲物』じゃないわ。……西の空に消えた、白い船を探しているんでしょう?」
図星だった。
仕事に出ても、瓦礫の山を漁っていても、ふとした瞬間に西の空を見てしまう。そこにあるのは、茜色の夕暮れと、迫りくる漆黒の夜だけだ。もう、あの船の影はない。
契約は終わった。報酬は受け取った。
俺は部外者だ。そう何度も自分に言い聞かせているのに、胸のざわめきが収まらない。まるで、重要なパーツを一つ付け忘れたまま離陸してしまったような、致命的な欠落感。
「……くだらねえ。俺は、いつもの日常に戻っただけだ」
サクヤは吐き捨てるように言い、冷めたシチューを無理やり口に運んだ。
その時だった。
酒場の重い鉄扉が、静かに、しかし重々しく開かれた。
「――邪魔するぜ」
入ってきたのは、情報屋のジンだ。
いつもの気だるげな様子はない。その目は鋭く、手には一枚のデータパッドが握られている。
「ジンか。珍しいな、お前がここに来るなんて」
「緊急ネタだ。……サクヤ、お前の『忘れ物』がピンチらしいぞ」
ジンは黙ってデータパッドをカウンターに滑らせた。
空中にホログラムが展開される。映し出されたのは、広域気象図だ。ルーストから遥か西、オリエンス号が進んでいるはずの『白夜航路』上に、どす黒い渦が壁のように立ち塞がっていた。
「……なんだこりゃ。嵐か?」
「ただの嵐じゃない。『磁気嵐の壁』だ。寒暖差による気流の衝突に、地磁気の乱れが重なって発生する、物理的な断絶壁だよ」
ジンの説明に、サクヤの目が険しくなった。
風速一五〇メートル。雷雲の厚さは一万メートル以上。
そんなものが航路上に居座っている。それはもはや気象現象ではない。
「オリエンス号の現在位置はここだ。このままだと、真正面から嵐にぶつかる。……あんな老朽艦じゃ、突入した瞬間に空中分解だ」
「迂回は?」
「無理だ。壁の範囲が広すぎる。南へ逃げれば『夜』に追いつかれて凍結するし、北へ逃げれば『赤道』の防衛圏だ。……完全に詰んでる」
サクヤの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に、あのブリッジで指揮を執る老艦長と、不安げに窓の外を見つめるアリアの顔が浮かぶ。
彼らは今、逃げ場のない死の檻に閉じ込められている。
「……でも、一つだけ道がある」
ジンが指先で地図を拡大した。
「『天の梯子』だ。上昇気流を利用して高度を一気に上げ、嵐の壁を飛び越えて『赤道航路』へ合流するルート。……そこしか生き残る道はない」
「なら、そこを通ればいいじゃねえか」
「それが罠だと言っているんだ、サクヤ」
ジンは愛用の大型拳銃を取り出し、布で磨きながら冷徹に告げた。
「俺の情報網に引っかかった。数時間前から、その『天の梯子』の出口付近に、『赤道』軍の艦隊が集結している。……旗艦は、あの『風の妖精』だ」
カチャン、と銃のスライドが戻る音が、酒場に冷たく響いた。
「待ち伏せだよ。奴らは最初から、オリエンス号をあの『磁気嵐の壁』で追い込み、逃げ場をなくしたところを狩るつもりだったんだ」
全てが繋がった。
あの白い機体――フェリオンが、ルーストからあっさりと撤退した理由。
あれは敗走ではなかった。猟犬が獲物を追い込むように、オリエンス号を死地へと誘導するための布石だったのだ。
前には鉄壁の包囲網。後ろには絶対的な死である「夜」。そして逃げ道であるはずの空は、嵐に閉ざされている。
――助けに行かねば。
衝動が、身体の奥底から湧き上がった。
だが、次の瞬間、冷徹な理性がそれを押し留める。
間に合うのか? ここからあそこまでは数千キロある。今の『黒鳶』は修理中だ。左腕の武装も失っている。それに、俺が行ったところで何ができる? 相手は正規軍の艦隊だ。
俺はただのスカベンジャーだ。英雄じゃない。契約も終わった。義理はない。
サクヤは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。行かない理由なら、いくらでも思いつく。
だが、その全ての理屈をねじ伏せるように、アリアの声が蘇る。
『あなたの声だけは、道しるべみたいに響くんです』
あの信頼に満ちた瞳が、絶望に染まるのを想像した瞬間、サクヤの中の何かが焼き切れた。
「……クソッ!」
サクヤはカウンターを殴りつけた。
迷っている時間などない。分かっている。分かっているが、足がすくむ。それは死への恐怖か、それとも再び何かを背負うことへの恐怖か。
ドゴォッ!!
鈍く、重い衝撃が横っ腹に走った。
サクヤの視界が揺れ、椅子ごと床に転げ落ちた。
何が起きたのか理解するより先に、激痛が脳を駆け巡る。
「……いってぇな! 何しやがる!」
床を這いながら怒鳴り上げると、そこには鬼のような形相のレイファが立っていた。
彼女はドレスの裾を捲り上げ、その長い脚でサクヤを蹴り飛ばしたのだ。
だが、彼女の瞳に宿っていたのは、軽蔑ではなく、燃えるような怒りと――深い愛情だった。
「うるさいッ!!」
レイファの一喝が、酒場の空気を凍りつかせた。
「うじうじと言い訳ばっかり並べて……。私が惚れたサクヤは、そんな腑抜けた男だった!?」
「レイファ……」
「行きたいんでしょ? 助けたいんでしょ? だったら、四の五の言わずに行きなさいよ!」
彼女は胸元から、一枚の古びたカードキーを取り出し、倒れているサクヤに投げつけた。カラン、と乾いた音が床に響く。
「……地下の第3倉庫を開けなさい。そこに、あんたへの『餞別』を用意してあるわ」
「餞別?」
「『黒鳶』の新しい左腕。それに、私がヘソクリで買い集めた、軍用規格の最高純度液体燃料よ。……あんたがいつか、この狭い街を飛び出して、遠くへ行っちまう日のために準備してたのよ。馬鹿野郎」
レイファの声が、僅かに震えていた。
彼女はずっと分かっていたのだ。サクヤという男が、いつか自分のもとを去り、もっと広い空へ飛び立っていくことを。
だからこそ、その翼を折るのではなく、誰よりも高く、速く飛べるように、密かに準備を続けていたのだ。それは、彼女なりの愛の形であり、決別への覚悟だった。
サクヤは床からカードキーを拾い上げ、埃を払った。
腹の痛みと共に、迷いは消し飛んでいた。心の中にあるのは、熱く燃え上がる灰色の残り火。いや、それはもう残り火ではない。
業火だ。
「……いい女だな、お前は」
サクヤは立ち上がり、ニヤリと笑った。
その顔つきは、もう倦怠にまみれた敗北者のものではない。獲物を狙う、飢えた狼の顔だ。
「行ってくる。……必ず、生きて帰ってくるから」
「当たり前でしょ! これまでのツケと投資分、体で返してもらうまで死ぬことは許さないわよ!」
レイファは涙を堪えるように顔を背け、手を振った。
サクヤはジンに向き直り、指を鳴らした。
「ジン、情報感謝する。……整備班を叩き起こせ! 『黒鳶』の最終調整だ!」
「へっ、人使いの荒いこった。……もう手配してある。急げよ」
ジンは呆れたように肩を竦めたが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
サクヤは酒場の扉を蹴り開けた。外の空気は冷たく、鉄錆とオイルの匂いがした。だが、今はその空気が美味い。
見上げれば、頭上には分厚い雲。だが、その向こうには無限の空が広がっている。
待ってろ、お姫様。忘れ物を届けに行く。
そして、あの気取った「妖精」に教えてやるんだ。
この空で一番速いのが誰なのかを。
サクヤはハンガーへと続く階段を、一段飛ばしで駆け下りた。その背中には、見えない翼が広がっているようだった。
レイファ姐さん、男前すぎます……!
「惚れた男には、最高の翼を与えて送り出す」
これぞイイ女の矜持ですね。
新しい左腕、そして限界突破の燃料。準備は整いました。
次回――第30話『死線への跳躍』。
いよいよタイトル回収、そして『銀灰の掠夜彗星』の本領発揮です。
「夜」を利用して加速する、狂気のドッグファイトにご期待ください!
この展開にワクワクしていただけたら、ぜひ【評価・ブクマ】でサクヤたちのブーストをお願いします!




