第22話 境界線を越えて
心配と好奇心。
二つの感情に背中を押され、アリアはついに「外の世界」へと足を踏み出します。
都市艦オリエンス号、上層居住区。
王族や上級市民が暮らすこのエリアは、常に一定の温度と湿度に保たれ、ほのかに花の香りが漂っている。
だが、窓の外を見つめるアリアの心は、分厚いガラス一枚を隔てた向こう側――凍てつく雲海と、そこに浮かぶ錆びついた街へと飛んでいた。
「……サクヤさん」
アリアは窓ガラスに手を当て、小さく呟いた。
あの日、通信越しに聞いた彼の声。
『あんたの声だけは道しるべみたいに響く』
その言葉が、今も胸の奥で熱く燻っている。彼は命がけで自分たちのために戦い、そして傷ついた。だというのに、自分は安全な鳥籠の中で、ただ報告を待つことしかできない。
「……姫様。ため息ばかりついていると、幸せが逃げますよ?」
背後から、軽い調子の声がかかった。
振り返ると、整備用ツナギを着たリベットが、スパナをくるくると回しながら立っていた。彼女はサクヤが持ち帰ったレアメタルを受け取り、エンジンの予備整備を行っていたはずだ。
「リベットさん。……修理の状況は?」
「順調だよ。旦那が命懸けで獲ってきた特級品だ、加工するのが勿体ないくらいさ。あと二日もあれば、オリエンスの心臓は元通り動くようになる」
リベットはニカっと笑ったが、すぐにアリアの表情の陰りを見抜き、眉を下げた。
「でも、姫様が知りたいのはエンジンのことじゃない。……旦那のことだろ?」
「……はい」
アリアは素直に認めた。
「彼は今、『ルースト』に戻って機体を修理していると聞きました。……無事なのでしょうか。あの時、通信が切れる直前に、とても大きな爆発音が聞こえました。彼は……怪我をしているのでは?」
「まあ、無傷ってことはないだろうね。旦那の『黒鳶』もボロボロだったし」
リベットがあっけらかんと言うと、傍らに控えていたヴィグナが眉を吊り上げた。
「なっ……! ならばなぜ、すぐにメディカルチームを派遣しないのです! サクヤ殿は恩人ですよ!?」
「落ち着きなって、騎士団長。旦那はそういう『施し』を嫌うんだよ。それに、ルーストは中立地帯だ。オリエンスの正規兵が治療だなんだと押し掛けたら、余計な外交問題になる」
リベットの言葉に、ヴィグナはぐぬぬと押し黙った。正論だ。公式には、オリエンス号とルーストは不可侵の関係にある。
「でも……心配なのは分かるよ。アタシも、旦那が無茶してないか気になるしね」
リベットはそこで言葉を切り、悪戯っぽい笑みを浮かべてアリアを見た。
「ねえ、姫様。……自分の目で確かめに行ってみる?」
「え?」
「『お忍び』だよ。アタシが案内してやる。正規のエアロックじゃなくて、整備用の搬入ルートを使えば、誰にも見つからずにルーストへ入れるさ」
「り、リベット殿! 何を言い出すのですか! アリア様をあのような無法地帯へ連れて行くなど……!」
ヴィグナが顔を真っ赤にして抗議する。だが、アリアの瞳には、強い光が宿っていた。
「……行きます」
「アリア様!?」
「私は、彼が住んでいる世界を見てみたいんです。彼がどんな場所で生き、どんな空気を吸っているのか。それを知らずに、ただ守られているだけなのは……もう嫌なんです」
アリアの声は静かだったが、そこには王族としての、いや、一人の少女としての譲れない意志があった。ヴィグナは主の顔を数秒見つめ、やがて深いため息をついて膝をついた。
「……承知いたしました。ですが、私も同行します。護衛なしでの外出など、騎士団長として絶対に認められません」
「へへっ、話がまとまったね! じゃあ早速着替えようか。そのヒラヒラしたドレスじゃ、スラムの路地裏でいいカモになっちまうからね」
†
数十分後。
オリエンス号の最下層にある、廃棄物搬出用エアロック。そこから三つの影が、暗い連絡通路へと足を踏み入れた。
「うっ……。こ、これは……」
ヴィグナが鼻を押さえて呻く。
通路の空気は淀み、焦げた油と生ゴミ、そして饐えたアルコールの臭いが充満していた。オリエンス号の清潔な環境とは別世界だ。
「口呼吸しな。慣れればどうってことないさ」
先頭を行くリベットは、油汚れのついた大きなリュックを背負い、平然としている。
その後ろを続くアリアとヴィグナは、リベットが用意した作業員用の地味なジャケットとズボンを身に着け、深くフードを被っていた。
アリアの美しい金髪も、ヴィグナの燃えるような赤髪も、今は煤けた布の下に隠されている。
「足元、気をつけてくださいね。ネズミが走りますから」
「……はい」
アリアはブーツの底で、得体の知れない粘液を踏む感触に顔をしかめたが、歩みを止めなかった。
暗い通路を抜けると、不意に視界が開けた。
「――ようこそ、クズたちの楽園へ」
リベットが両手を広げる。
そこは、中立浮遊都市『錆びた止まり木』の目抜き通りだった。
圧倒的な色彩の暴力。
錆びた鉄骨にへばりつくように建てられた違法建築群。その隙間を縫うように、極彩色のネオンサインが明滅している。
『激安パーツ』『極上合成酒』『一晩の夢、買います』――品のない宣伝文句が躍る看板の下、大勢の人々が行き交っていた。
「おい、そこの姉ちゃん! いい機械油が入ったぜ!」
「腹減ってんだろ? ネズミ肉の串焼き、一本どうだ!」
通りは活気に満ちていた。だが、それはオリエンス号のような整然とした活気ではない。
生きるために叫び、騙し、奪い合う。むき出しの欲望が生み出す熱気だ。
「……すごい」
アリアは圧倒されていた。
怖い。確かに怖い。だが、それ以上に目が離せなかった。
路肩では片足を失った老人が、壊れたラジオを修理して日銭を稼いでいる。若い女が、酔っ払った傭兵のポケットから財布を抜き取って笑っている。
ここでは「生きること」が、戦いそのものだった。
「アリア様、私の背中から離れないでください。……油断すれば、身ぐるみ剥がされます」
ヴィグナが低い声で警告し、ジャケットの下に隠した短剣の柄に手を添える。彼女の騎士としての本能が、周囲の視線――獲物を値踏みするような視線に反応してピリピリと張り詰めていた。
「おい、見ろよ。あそこの三人組」
「見ねえ顔だな。上玉じゃねえか?」
路地裏にたむろしていた男たちが、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。
ヴィグナが鋭い眼光を返すと、男たちは「おっと、怖ぇ怖ぇ」と肩をすくめて散っていった。
「……さすがヴィグナさん。睨みだけで撃退するなんて」
「ふん。殺気くらい隠せぬ素人など、相手にする価値もありません」
ヴィグナは鼻を鳴らしたが、その額には冷や汗が滲んでいた。ここは戦場よりも神経を使う。敵と味方の区別がないからだ。
「こっちだよ! サクヤの旦那がいるハンガーは、この地下エリアだ」
リベットが手招きし、錆びついた鉄格子のエレベーターへと誘導する。
ガガガガ……!
不穏な音を立てて降下する箱の中、アリアは自分の手が震えていることに気づいた。
恐怖ではない。これは、高揚だ。
彼が生きている世界。彼が毎日見ている景色。その空気を、今自分も吸っている。その事実が、アリアの心臓を激しく叩いていた。
「……着いたよ。第五ブロックの地下ハンガーだ」
エレベーターの扉が開く。
そこは、地上よりもさらに空気が重く、オイルの匂いが濃い場所だった。
薄暗い通路の奥から、話し声が聞こえてくる。
「――だから言ってるでしょ! その角度じゃセンサーが干渉するのよ!」
「うるせえな、微調整は俺がやるって言ってんだろ!」
サクヤの声だ。
アリアの顔がパッと輝く。無事だったのだ。その声の張りがあれば、重傷ということはないだろう。
だが、その直後。
別の声――甘く、そして艶のある女性の声が響いた。
「もうっ! 口答えしないの、駄犬! ……ほら、じっとしてなさい。汗拭いてあげるから」
「自分でやる!」
「あはっ、照れないの。……ん、いい体してるわね。傷が増えて、もっと男前になったんじゃない?」
アリアの足が止まった。
通路の角からそっと覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
整備用の作業台に腰掛けたサクヤ。彼は上半身裸で、包帯を巻かれた体には汗が滲んでいる。
そして、その目の前に立つ、紫色のドレスを着た妖艶な美女。
彼女はサクヤの胸板に手を這わせ、まるで愛おしいペットを愛でるように、その汗をハンカチで拭っていたのだ。
「……え?」
アリアの思考が停止する。
ヴィグナが「な、ななな……!?」と言葉を失い、顔を沸騰させる。
サクヤと、謎の美女。
その距離は、あまりにも近すぎた。
それは単なる仕事仲間や、友人という距離感ではない。
もっと濃密で、湿度の高い――「男女」の空気が、そこには流れていた。
お読みいただきありがとうございます!
王女様、初めてのスラム街。
清潔で安全なオリエンス号とは真逆の、欲望と活気に満ちたルーストの空気。
アリアにとっては衝撃の連続ですが、それ以上に彼女を突き動かしているのは「サクヤの世界を知りたい」という純粋な想いです。
……が。
その想いを抱いてたどり着いた先で待っていたのは、感動の再会ではなく、謎の美女にいちゃつかれているサクヤの姿でした。
タイミングが悪い!いや、むしろ良すぎる(?)のかもしれません。
次回、第23話「女帝と王女」。ついに鉢合わせる二人のヒロイン。「サクヤの飼い主」を名乗るレイファに対し、アリアはどう立ち向かうのか。
女同士の静かなる戦いが幕を開けます。
【読者の皆様へ】
「アリア様の行動力、すごい!」「修羅場の予感……」とドキドキしていただけましたら、
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それでは、また次回の更新でお会いしましょう。




