第四話:失われたレシピと物流革命
「妖精の菓子の奇跡」から数週間。クライス公爵領は、未だ熱狂の余韻に浸っていた。
ルイポルト王子は心身ともに癒され、感謝と共に帰国。アステル王国との友好関係は、かつてないほど強固なものとなった。
しかし、当の奇跡の立役者であるフィアナは、早くも新たな悩みの種を抱えていた。
「美味しいのだけれど…毎日というわけには、いかないのよね…」
そう、彼女の悩みとは、食後のデザート問題である。「妖精の菓子」は、確かに絶品だ。しかし、その真の価値――『憂鬱病』への特効性――については、聖女フィアナの「慈悲深き叡智」ということになっていて、今はまだ公にされていない。あまりに強力なその力は、扱いを間違えれば、他国の欲望を煽り、かえって争いの火種となりかねないからだ。ルイポルト王子にも口外しないことを約束してもらい、今はただ、本当に助けを必要とする者にのみ、聖女の名の下に、そっと届けられるのであった。
結果として、フィアナ自身が日常的に口にできるものではなくなっていたのだ。
(まぁ、甘いものばかりでは、飽きてしまいますしね…)
満たされたはずの食生活に、新たな刺激を求めるフィアナ。
彼女の脳裏に蘇るのは、前世で味わった、港町の新鮮な魚料理。
オリーブの香りのオイルで軽く味付けされた生の魚に、金色の麦の様な穀物と一緒に炒められた海の幸、濃厚な海の風味がギュッと凝縮されたそれらの味はとても鮮烈だった。
ここクライス領は内陸の地。海からは遠く、フィアナが焦がれる新鮮な海の幸が食卓に上ることはまずない。領内で獲れる川魚も、そのほとんどが日持ちのする燻製や塩漬けに加工されるのが常であり、彼女が望むような繊細な調理法で供されることは、これまで一度もなかった。
フィアナは自室の豪奢な長椅子に寝そべり、頬杖をつきながら、わざとらしく大きなため息をついた。
「ゲルトナー、何か新しい刺激が欲しいわ。例えば、そう…海の香りを感じるような、新鮮な一皿は用意できないかしら?」
侍女を通じて呼び出された料理長ゲルトナーは、主の新たな要求に、今度こそ青ざめた。
「海の香り…、お魚でございますか!? フィアナ様…、このクライスで新鮮な魚を調達するのは、不可能でございます! ……それに、今は『聖女の涙』の生産拡大に追われておりまして、新しい食材の探求まではとても…」
「聖女の涙の生産?」
「はっ。『聖女の涙』はクライス領の特産となる可能性を秘めておりますが、いかんせん生成出来るまでの工程が非常に難しく、なかなか量産出来ておりません。私もそこに付きっきりなる事が出来ないので、『聖女の涙』の解析と安定化において、私の助手のライネルに、管理を任せておるのです。彼は若くとも、錬金術の素養があり、その知識と情熱は確かでして… ただ、今はまだ思うように成果が出ておらず、私も安心して離れられないのです…」
ゲルトナーの胃は、聖女からの新たな無理難題と、生産現場からの悲鳴の板挟みで、ここ数日、キリキリと悲鳴を上げっぱなしだった。
(もう!言い訳ばかり!こうなったら、お父様に直接言いつけてやるわ!)
「ふぅん…ゲルトナーが無理なら、仕方ないわね。ちょっとお父様のところへ行ってくるわ」
業を煮やしたフィアナは、そう言うと踵を返し、父である公爵の執務室へと向かった。
「フィアナ様、お待ちください! 公爵様をこのようなことで煩わせるなど…!」
ゲルトナーが悲鳴じみた声を上げながら、慌ててその後を追う。
重厚な扉を、許可も待たずに開け放つ。机に向かっていたクライス公爵は、突然入ってきたフィアナと、その後ろで顔面蒼白になっているゲルトナーに、怪訝な顔を向ける。
「お父様!わたくしは、ただ、もっと多くの人々に、この『祝福』を分かち合いたいだけなのです!」
公爵を前に、フィアナがいつものように荘厳な口調で直談判を始めた、まさにその時だった。
「失礼いたします!公爵様、そしてフィアナ様!大変でございます!」
側近のコンラートが、血相を変えて飛び込んできた。
「南方ギルドの使者が、『聖女の涙』の契約の履行を強く求めてきております! このままでは、公爵家の名誉に傷が…!」
「なんだとっ!」
ガタッと音を立て、公爵が慌てて椅子をたつ。
一方フィアナは、内心で舌打ちしながらも、完璧な笑みで相槌を打つ。
「あら、そうなの。それは大変ですこと。(また『聖女の涙』の話? わたくしの美味しいお魚の話をしようと思っていたのに、なんて間の悪い…!)」
だが、もちろん、そんな本音を口に出すほど愚かではない。彼女は、芝居がかった仕草で深くため息をつくと、憂いを帯びた表情で呟いた。
「ええ、実に歯がゆいですわね。南方の方々を、これほどまでに急かさせてしまうのも…今の私たちに差し出せる『祝福』が、あまりに少ないからですわ。もし、この地に眠る他の恵みを、もっと多く分かち合うことができたなら…きっと皆がもっと広い心で付き合えるでしょうに…」
その言葉は、供給不足に対する純粋な不満と、次なる美食への尽きない探求心から生まれた、いつものワガママであった。
しかし、フィアナの言葉を常に壮大なスケールで解釈するよう運命づけられた二人の忠臣は、それぞれ全く別の、そして、とてつもなく壮大な天啓を受け取っていた。
その言葉は、コンラートの耳に、全く違う意味を持って、雷鳴のように突き刺さった。
(もっと多くの恵みを…? 我々はすでに『妖精の菓子』と『聖女の涙』という二つの奇跡を授かった。だが聖女様は、まだ足りぬと仰せだ。一体どういうことだ…? 南方は『聖女の涙』を渇望している。生産を安定させ供給さえできれば、問題は解決するはず………。いや、はたして本当にそうだろうか?特産品として輸出し、しかし無理をしてまで行うことで、逆にクライス領が疲弊してしまうという危険性があるのではないか?それではいつか……。南方からの要望に応える。当たり前のことであり、そればかりに目が行っていたが、もしかしたら聖女様は、我々が『聖女の涙』という『モノ』にばかり固執し、その奇跡の『本質』を見失っていることを、暗に注意してくれているのではないだろうか?)
フィアナの言葉が、コンラートの脳内で、壮大な外交戦略へと昇華されていく。
(…待て。…そうか! 発想が逆なのだ! 新たな『祝福』をゼロから探すのではない! 聖女様は、すでにお示しくださっているではないか! 我々が授かった奇跡の本質は、『聖女の涙』という『完成品』ではない。あの墓胡椒を至高の品へと変えた『祝福』の力、そのものだ! この力を応用すれば、既存の産品すら、南方が渇望する新たな『祝福』へと変えられる! それこそが、この窮地を覆す唯一の策だ、と!)
それは、もはや解釈というより、新たな神託の創造であった。
一方、ゲルトナーは、コンラートとは全く違う角度から、聖女の言葉を受け止めていた。
(もっと珍しくて、もっと美味しいもの…? 聖女様は、我々が足元の宝を見過ごしていると、そう仰っているのか…?)
彼の脳裏に、ある記憶が閃光のように蘇った。それは数日前、助手のライネルが悔しそうに報告してきた内容だった。
『料理長…。「聖女の涙」の安定生産ですが、やはり原料となる墓胡椒の生育環境が特殊すぎて、これ以上の増産は困難です。何か別の角度からのアプローチが必要かと…。そこで、書庫の古文書を調べていたのですが…気になる奇妙な記述を見つけました。かつてのクライス領では、海のないこの地で、まるで真珠のように輝く鱗を持つ、幻の魚が食されていた、と。その魚が棲むという川と、例の墓胡椒の生育地が、妙に一致するのです』
(聖女様は、我々が足元の宝を見過ごしていると、そう仰っているのか…? 我々が当たり前だと思っているものの中にこそ、まだ見ぬ『祝福』が眠っていると、そう教えてくださっているのだ!)
コンラートとゲルトナーは、まるで天啓を得た預言者のように、顔を見合わせた。その目に宿る熱と確信の光を見て、クライス公爵は全てを察した。
(そうか…フィアナは、またしても我らの想像を超える『神託』を授けたのだな!)
娘の言葉の真意は分からずとも、最も信頼する二人の忠臣が同時に道を見出したという事実だけで、判断するには十分だった。
公爵は、力強く頷くと、宣言した。
「フィアナの言う通りだ!コンラート、ゲルトナー、そなたらに任せる!聖女の御心、必ずや実現してみせよ!」
「「ははーっ!」」
こうして、二人の忠臣は、それぞれの壮大な勘違いを胸に、新たな任務へと駆け出していったのである。
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しかし、それから数日後。
公爵の執務室には、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。
報告に立つコンラートとゲルトナーの顔には、有能な彼ららしからぬ、深い疲労と苦悩の色が刻まれていた。
聖女の神託を受けたあの日から、二人は文字通り不眠不休で動いた。ゲルトナーは「古文書を頼りに領内の幻の魚を探す」も、古文書からの情報が少なく、それらしい魚はおろか川すら見つからず失敗。一方のコンラートは「クライス領内を徹底的に再調査し、南方との新たな交易の種となる産品や技術を探す」も、こちらも『聖女の涙』の代わりになるような、南方との交渉に使えそうなものは見つけられず、何も進展することが出来なかった。
「…というわけで、領内の産品に、現状で南方が興味を示すようなものは皆無でした。我が領の質実剛健な気風は、良くも悪くも、他国を魅了するような目新しさとは無縁でして…。私の力不足、万策尽きました…」
「『幻の魚』についても、申し訳ございません…。古文書の記述は、どうやら単なる伝承の類だったようで、影も形もなく…。このゲルトナー、聖女様のご期待に応えられず、万死に値します…」
意気消沈したコンラートは、体を垂直に、ゲルトナーは、床に頭をこすりつけんばかりに項垂れている。
公爵もまた、眉間に深い皺を刻み、腕を組んだまま押し黙っている。
その沈黙を破ったのは、長椅子で退屈そうに爪を磨いていた、フィアナの能天気な一言だった。
「そう…。幻は、人の心の中にのみ在る、ということでしたのね。仕方がありませんわ」
フィアナは、一度は天を仰いで聖女のように厳かにそう呟いた。だが、すぐに諦めきれないといった様子で、潤んだ瞳でゲルトナーを見つめる。その姿は、聖女というより、お気に入りの玩具をねだる年頃の少女そのものだった。
「…わたくしが望むのは、ただ、理想の味なのです。ぱりっとした皮に、ふっくらとした、どこまでも柔らかい白身…。そして、程よい塩気が、素材の甘みをぐっと引き立てる…。そんな一皿を、夢に見るのです」
そんなフィアナの切実な願いを受け、ゲルトナーが一層悲痛な顔を浮かべた。
「…そう。ゲルトナーでも、やはり難しいのですね…
フィアナは心の底からがっかりしたように、悲し気に目を伏せた。
「”期待、していた”のですけれど…」
その、あまりにも純粋な落胆と信頼が込められた一言が、ゲルトナーの料理人としての魂に火をつけた。それと同時に、急激に頭がさえていく。
(フィアナ様があそこまで私に期待してくれている。それを料理人として裏切るわけにはいかない!なんとしても叶えねば!! フィアナ様の夢の味…。海の香りがする一皿。海の香り…潮の風味か?そして魚。ぱりっとした皮でふっくらとした白身、絶妙な塩加減…。燻製や塩漬けのものでは再現できない。新鮮な魚を調理する…つまり川魚か!しかし、塩焼きでは、皮は焼けるが身から水分が抜けすぎる。蒸し料理では、身はふっくらするが皮が締まらない。そして潮の風味…潮…塩…塩か…)
ゲルトナーは思考の海に深く沈んでいく。そのうち、彼の口から、無意識に思考の断片が漏れ始めた。
「…塩で素材を覆う…。旨味を…封じ込める…。そうだ、聞いたことがあるぞ、そんな調理法が…。素材自身の水分で、己を蒸し焼きにする…。塩が余分な水分と臭みを吸い出し、純粋な旨味だけが残る、と…。うろ覚えだが、もし再現できれば…あるいは…」
その小さな呟きを、コンラートの耳は聞き逃さなかった。
「ゲルトナー殿? 今、何か興味深いことを仰いましたか。『封印された調理法』とは?」
尋ねられたゲルトナーは、はっと我に返った。
「あ、いえ、これは独り言で…。ですがコンラート様、一つ思い出したものがございます。古い文献で目にしただけの、うろ覚えの知識ですが、塩で素材を完全に覆い尽くし、そのまま火にかけるという調理法がございまして…」
「塩で覆いつくす?塩漬けということでしょうか?」
「いえ、塩漬けとは違いまして、焼くときだけ魚の周りを塩で固めて、それ自体を釜のようにして焼くものだったと記憶しております。焼くとも蒸すとも違い、魚がまるで喜んでいるかのように、ふっくらとしておいしくなるのだとか…」
コンラートの目が、戦略家としての鋭い光を宿した。
「ほう…。そのような調理法は、少なくとも私はこのクライス領で聞いたことがありませんね。ゲルトナー殿、肝心の味がわかりませんが、焼くとも蒸すとも違いふっくらおいしくなるというのは興味深い。それに、焼くということは生の魚に比べて日持ちするのではないでしょうか?もしそうであれば、内陸の都市であっても魚が流通しやすくなる。そして、もしそれを、ありふれた川魚で再現できたなら…それは間違いなく、我が領の新たな特産となりましょう。南方への、代替案になるかもしれません。」
「な、なるほど。しかし、どうにもうろ覚えの知識ですので、確かなことはなんとも…」
言葉を濁すゲルトナーに、コンラートは畳み掛けた。
「料理のことは分かりませんが、私に出来ることがあれば、全面的に協力します。例えば、そのうろ覚えだという知識の裏付けを取るための、更なる古文書の調査など、いかがでしょう」
その申し出は、孤独な探求に光明が差すような、何よりも心強いものだった。ゲルトナーは、カッと目を見開き、深く、深く頷いた。
「コンラート様…! そのお言葉、感謝に堪えません。ならば、このゲルトナー、全身全霊を以てこの調理法の再現、必ずや成し遂げてみせましょうぞ!」
「ええ、ゲルトナー殿ならきっとできます!」
コンラートは、確信を持って応えた。
「では、調理法の研究開発はゲルトナー殿に。私は、その成功を前提とした、南方との交渉準備に入ります。…必ずや、フィアナ様の夢を、我らの手で現実にしてみせましょう」
がしっ!2人は熱い握手を交わした!
公爵はその様子を見て、うんうんと頷きながら、なぜか涙を流している。
「…………」
そんな3人のやりとりを、フィアナは微笑みながら見守っていた。少し遠い目をして。
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それから、さらに数週間後。
ゲルトナーの厨房は、書庫から持ち込まれた古文書と、無数の失敗作で埋め尽くされていた。フィアナの夢見た味の再現は、困難を極めていた。古文書の記述はあまりに曖昧で、「塩で覆い、火にかけることで、魚は己の水分で蒸し焼きとなり、その風味は比類無き物となる」といった、詩的な表現が並ぶのみ。具体的な手法は、完全に失われていたのだ。
「くそっ…何かが足りん…!」
卵白を混ぜた塩で魚を覆う、という基本的な構造にはたどり着いた。しかし、焼き上がりの風味はフィアナの語る「理想」には程遠く、塩の殻には細かい亀裂が入ってしまい、そこから旨味を含んだ蒸気が逃げてしまうのだ。
ゲルトナーが行き詰り、神にでも祈るような気持ちで天を仰いだ、まさにその時だった。ふと、厨房の片隅にある、麻袋が目に入った。クライス領の民の主食であり、見慣れすぎてもはや空気のようになっている「クライス豆」の袋が。
(…そうだ。この豆を、石臼で極限まできめ細かく挽き、粉にして混ぜたらどうだ…? あの豆の粉が持つ、つなぎとしての力が、この塩釜の密封性を高めてくれるやもしれん…!)
藁にもすがる思いで、ゲルトナーはクライス豆の粉を塩と卵白に混ぜ込み、祈るような気持ちで魚を包み、火にかけた。
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一方その頃、コンラートは、南方ギルドの使者と、胃の痛むような交渉を続けていた。
「コンラート様。我々も、これ以上は待てません。聖女の涙の供給が不可能なのであれば、契約は白紙に戻すしか…」
「お待ちいただきたい」
コンラートは、内心の焦りを微塵も感じさせない、冷静な声で応じた。
「お言葉ですが、我々は契約を反故にしようとしているわけではございません。むしろ、その逆です」
使者が怪訝な顔をするのを、コンラートは見逃さない。
「聖女フィアナ様は、聖女の涙が持つ『祝福』の力を、より安定的、かつ普遍的な形で皆様にお届けするべく、今、新たな奇跡の顕現に取り組んでおられます。それは、聖女の涙の供給問題そのものを、根本から解決する福音となるでしょう。その奇跡の完成まで、今しばらくの猶予を…」
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コンラートが、その巧みな交渉術で、かろうじて時間を稼いでいた、まさにその日。ゲルトナーの厨房から、歓喜の雄叫びが上がった。
クライス豆の粉を混ぜ込んだ塩釜は、焼き上がると、まるで陶器のように滑らかで、ひび一つない完璧な殻を形成していた。そして、その中に封じ込められた魚は、味、香り、食感、その全てが、フィアナの語った「理想」そのものだったのだ。
報告を受けたコンラートは、その完成品を見て、料理人とは全く別の角度から、勝利を確信した。彼は、ゲルトナーに頼んで作らせた塩釜焼きを、毎日一つずつ開封し、その状態を記録する、という実験を開始した。
(…十日だ。信じられん。味も、香りも、焼きたてとほとんど遜色がない。ゲルトナー殿は調理法を完成させただけではない。これは…これは、魚の流通における革命だ! 燻製でも塩漬けでもない、第三の道…。これさえあれば、内陸のクライス領から、南方まで、限りなく新鮮な状態の魚を届けることができる!)
コンラートは、完成した塩釜焼きを手に、再び南方ギルドとの交渉の席に着いた。
ギルドの幹部たちが並ぶ、重苦しい雰囲気の会議室。彼らの前で、コンラートは携えてきた、見たこともない真っ白な塊を、静かにテーブルに置いた。
「皆様。これが、聖女様がもたらした、新たな『祝福』です」
幹部たちが訝しげな視線を送る中、コンラートは説明を続ける。
「これは、クライス領で獲れた川魚を、ゲルトナー料理長が発見した特別な調理法で調理したものです。…そして、調理してから、本日でちょうど十日が経過しております」
「十日だと!?」
「馬鹿な!ただの塩の塊にしか見えんが…」
「腐敗しているに決まっている!」
議場が騒然となる。その反応を待っていたかのように、コンラートは静かに木槌を手に取ると、塩釜を叩き割った。
その瞬間、凝縮されていたハーブと魚の芳醇な香りが、爆発的に部屋中に広がった。誰もが、思わず息を呑む。
取り出された魚の、瑞々しく、艶やかな姿に、どよめきが起こる。
「これが…十日前の魚だと申すのか…!?」
「信じられん…まるで、今、火から下ろしたかのようだ…」
「これは食べても大丈夫なのか?」
幹部たちの問いにコンラートは自信をもって答える。
「はい、もちろんです。どうぞお召し上がりください」
恐る恐る、一切れ口にしたギルド長が、椅子から転げ落ちんばかりに目を見開き、叫んだ。
「な…なんだこれは!美味い、美味すぎるぞ! 冷めているというのに、このふっくらとした食感と、凝縮された旨味は!」
その一言が、合図だった。他の幹部たちも、我先にと魚に殺到し、一口食べるごとに、驚愕と恍惚の声が上がる。
「信じられん!我が故郷の港で食べる、どの魚よりも新鮮で、そして深い味わいだ!」
幹部たちの熱狂を、満足げに見届けたコンラートは、静かに告げた。
「この奇跡の調理法、そして、魚の価値を十日以上も封じ込める、この流通の革命。聖女フィアナ様への敬意を込めて、こう呼ばせていただきます。――『聖なる白百合』と!」
南方ギルドは、この「食べる宝石」とも言うべき、味と保存性を両立した奇跡の調理法を、一定期間優先で利用できる権利を、「聖女の涙」の期限延長の条件と共に、熱狂的に受け入れた。さらに追加で提示された契約内容は、当初の「聖女の涙」の取引を、遥かに上回る規模と利益を、クライス領にもたらすものだった。
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そして、運命の報告の日。
ゲルトナーとコンラートは、晴れやかな顔で公爵の前に並び立った。
ゲルトナーが、フィアナの夢見た味を完璧に再現した『聖なる白百合』で調理した魚料理の完成を。
続いてコンラートが、『聖なる白百合』がもたらす革命的な流通の可能性と、南方ギルドとの有利な契約締結を、それぞれ高らかに報告した。
報告を受けたクライス公爵は、打ち震えた。
聖女フィアナは、一度は停滞した領地改革を、さらなる神託によって導き、二重の奇跡を完成させたのだ、と。
その日の夕食。
フィアナの食卓に運ばれてきたのは、百合の紋章が刻まれた、真っ白な塩の塊だった。
ゲルトナーが恭しく木槌で塩釜を叩き割ると、立ち上る湯気と共に、ハーブと、そしてどこか香ばしい豆の香りがふわりと広がった。塩の殻の中から現れたのは、しっとりと艶やかな光を放つ、一匹の川魚。
立ち上るその香りにワクワクしながら、一切れ口に運んだ瞬間、フィアナは目を見開いた。
(っ!おいしい!! なんなの、これ! 前世に港町で食べたあの魚料理と同じくらい、いや、それ以上においしいかも!)
ぱりっとした皮の香ばしさ。ふっくらと、どこまでも柔らかい白身。噛みしめるたびに、上質な脂の甘みがじゅわっと口の中に広がり、塩とハーブがその旨味を極限まで引き立てている。
もはや公爵令嬢の体面など忘れ、フィアナは夢中でナイフとフォークを進めた。
「美味しいお魚が食べたい」
ただそれだけの彼女の小さな執着が、忘れられた調理法を蘇らせる「文化復興」と、その価値を大陸全土へと届ける「物流革命」という、分かちがたく結びついた二重の奇跡を同時に引き起こした。この奇跡は、クライス領を始点として、やがてこの世界に大きな影響を与えることになるのだが…
幸せそうに笑みを浮かべて料理を食べる、当の本人は全く気付いていないのだった。
おっさかな♪おっさかな~♪(*´▽`*)
いやー、それにしても今話は難しかったぁ…