第一話:絶望の食卓と天啓のスープ
※冒頭に少々グロいシーンがございます。ゲテモノ描写が苦手な方はご注意下さい※
意識が、冷たく硬い感覚と共に浮上した。
まるで、長い間、氷の底に沈んでいたかのような、芯から凍えるような寒気。
そして、背中に当たるのは、決して柔らかいとは言えないベッドの感触。
フィアンティーナ・フォン・クライスは、ゆっくりと瞼を押し上げた。
目に映ったのは、見慣れた、しかし、もう二度と見ることなどないと思っていた自室の天蓋だった。
彫刻の施されていない、ただただ実用性だけを追求した無骨な木製の天蓋。
クライス公爵家の質実剛健を体現したかのようなその光景に、フィアンティーナは混乱した。
(ここは…?私は、確か…)
記憶を辿る。
そうだ。私は、隣国であるヴァインガルト王国の王太子、アルブレヒトに嫁ぎ、そして…。
そこで、フィアンティーナの思考は停止した。
脳裏に焼き付いて離れない、あの光景。
銀の皿に乗せられた、巨大な芋虫の姿焼き。
てらてらと光る黒い外皮。うねるような節くれだった胴体。
そして、無数に並んだ、蠢くような脚。
それを、満面の笑みで「さあ、友好の証だ」と勧めてくる夫、アルブレヒト。
周囲の貴族たちの、好奇と侮蔑に満ちた視線。
抵抗も虚しく、それは無理やり口の中へと押し込まれた。
ごわごわとした外皮、形容しがたい中身の味。
あまりの衝撃に、喉が痙攣し、呼吸が止まる。
息ができない!苦しいっ!
絶望的な苦しさと薄れゆく意識の中、最後に聞いたのは、夫アルブレヒトの、まるで面白い見世物でも見るかのような、冷たい嘲笑だった。
「う…、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ-!」
思わず、金切り声を上げて飛び起きる。
自分の声が、やけに甲高く、幼く聞こえた。
はっとして、自分の手を見る。
小さい。
華奢で、まだ丸みを帯びた、子供の手だ。
「お嬢様!どうなさいましたか!」
扉が勢いよく開き、侍女のクロエが駆け込んできた。
その顔には、心配の色が浮かんでいる。
クロエ。私の専属の侍女。私が嫁ぐまで、ずっとそばにいてくれた、忠実な侍女。
しかし、その顔も、心なしか若いように見える。
「お嬢様、悪夢でもご覧になりましたか?ひどい汗でございますわ」
「く…、クロエ…?」
「はい、ここに。さあ、お着替えを。本日、お嬢様は十歳のお誕生日をお迎えになられたのですから、晴れやかなお姿で朝食の席に向かわねば」
誕生、日…?
クロエの言葉に、フィアンティーナの混乱はさらに深まる。
鏡に映った自分の姿を見て、息を呑んだ。
そこにいたのは、18歳の私ではない。
まだ頬のあどけない、10歳になったばかりの、幼いフィアナの姿がそこにはあった。
(どういうこと…?私は、死んだんじゃなかったのかしら?なんで過去に戻ってきているの??)
クロエに促されるまま、着替えを済ませる。しかし、頭の中は全く整理がつかない。
(これは、夢?それとも、神が与えてくださった、二度目の機会…?)
もし、本当にやり直せるのだとしたら。
あの屈辱と、絶望の味を、繰り返さなくて済むのだとしたら。
淡い期待を胸に、フィアナは食堂へと向かった。
厳格な父、クライス公爵は、既に席に着き、硬いパンを無言でかじっていた。
「フィアナか。遅かったな。誕生日だからとて、規律を乱していいわけではないぞ」
「…申し訳ございません、お父様」
言われるがままに席に着く。重苦しい沈黙が、父と娘の間に流れた。
やがて、侍者が音もなく近づき、フィアナの前に、一つの深皿を置いた。
こつん、という硬質な音。
その音を合図にしたかのように、フィアナの視線は、皿の中身に吸い寄せられた。
灰色の、どろりとした液体。
所々に、煮崩れた豆の残骸が浮かんでいる。
湯気と共に立ち上るのは、ただ、豆を煮ただけの、味気ない匂い。
「味のない豆のスープ」
これは、単なる調理の失敗ではない。クライス公爵家に代々伝わる「公爵家の調理憲章」を、寸分違わず体現した、いわば「思想の味」であった。
曰く、「塩は生命維持に最低限な量のみ。風味を引き出すための使用は堕落である」。
曰く、「香りの立つ野菜(玉ねぎ、ニンニクなど)は、食への執着を生む媚薬。領民の精神を軟弱にする毒と知れ」。
曰く、「食材の味を混ぜ合わせるは、神への冒涜。ただ煮るか、焼くかのみを良しとすべし」。
その哲学が生み出す、無慈悲なまでの結末。
それが、このスープだった。
豆の皮は煮崩れて、悲しげな灰色の紙吹雪のように浮かび、豆そのものは形を失って、ざらりとした舌触りの澱となって、ぬるま湯に溶けている。
味と呼べるものは、豆から煮だされた、土のような風味だけ。
それは魂から暖かさと喜びを吸い取っていくような、虚無の味だった。
匂いは、もはや食材のそれではない。湿った土と、諦めと、義務の匂いであった。
その光景を目にした瞬間、フィアナの脳裏で、芋虫の姿焼きと、この豆のスープが、ぐにゃりと重なった。
不味い。不味い。不味い。
この家も、嫁ぎ先も、私の人生も、全てが不味い!
「…いや…、いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ-!」
フィアナは、スプーンを放り出し、椅子から飛び降りた。
父である公爵の驚愕の声を背に、彼女は食堂を飛び出し、自室へと駆け戻った。
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バタン!と乱暴に扉を閉め、フィアナはそのままベッドに倒れ込んだ。
顔を枕に埋め、恐怖に震える。
(いや…いやよ! あんなもの、二度と口にしたくない!)
しかし、その震えは、やがて怒りに似た、どうしようもない悔しさへと変わっていった。
逆行転生などという、奇跡のような出来事が起きたというのに、目の前に広がる現実は、絶望的なまでに前世と同じだったからだ。
不味い食事。厳格な父。美食を堕落と見なす家の空気。
(こんな理不尽な最期、二度と迎えてなるものですか! このままでは、また同じことの繰り返し…!八年後、私はまたあの地獄の晩餐会へ送られ、芋虫を口にして死ぬんだ…!)
ぞくり、と背筋が凍る。
あの恐怖だけは、二度と味わいたくない。
フィアナは、むくりと体を起こした。
震えはまだ止まらないが、その瞳には、もはや先ほどまでの錯乱はなく、代わりに、燃え上がるような決意の光が宿っていた。
(布団で震えている場合じゃないわ。考えなさい、フィアナ。どうすれば、あの未来を回避できる?)
政略結婚から逃れる?無理だ。公爵家の娘である以上、それは私の義務だ。
父を説得する?あの石頭に、美食の重要性など説いても無駄だろう。
(ならば…ならば、変えるしかない。このクライス領の、貧しい食文化そのものを! 私が、私の手で!)
思考を巡らせる。
前世の記憶を、一つ一つ、丁寧に手繰り寄せる。
屈辱にまみれた王太子妃としての生活。その中で、唯一の慰めは何だったか。
それは、身分を隠して訪れた、王都の市場の賑わい。そこで食べた、名もなき屋台の料理の数々だった。
(そうだわ…あの豆料理…!)
思い出したのは、王都の下町で、たまたま立ち寄った小さな食堂で出された、白い豆のスープだった。
クライス領のものとは似ても似つかない、クリーミーで、ハーブの香りがする、優しい味。
(あれなら…!あれなら、このクライス領にある食材でも作れるはず…!)
そうだ。問題は食材ではない。調理法だ。
この家の人間は、食に無頓着すぎる。食を探求することを、怠っている。
ならば、私が、この家の食文化を、根本から変えてしまえばいいんだわ!
不味いものが出てくるから、絶望するのだ。
ならば、美味しいものしか出てこないようにしてしまえばいい。
このクライス公爵領を、世界一の美食の国に変えてしまえば、嫁ぎ先の王家とて、私を「味の分からない田舎者」などと侮ることはできなくなるだろう。
そうなれば、あの芋虫を無理やり食べさせられることも、なくなるかもしれない。
(やるしかない…!私の、私の平穏な食生活のために!)
目的は、もはや単なる美食の追求ではない。
来るべき最悪の未来に抗い、自らの手で運命を覆すための、壮絶な戦いの始まりだった。
フィアナの瞳に、燃えるような闘志が宿る。
彼女はベッドから飛び降りると、再び扉を開け、今度こそ、一直線に厨房へと向かった。
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厨房の扉を勢いよく押し開けると、中の料理人たちが一斉にこちらを向き、驚きの表情で動きを止めた。
ひそひそと、「お嬢様だ…」「また何か…」と囁き合う声が聞こえる。
その喧騒を耳にして、厨房の奥にある小さな事務所から、一人の男が現れた。
「一体何の騒ぎだ!」
ひときわ恰幅のいい初老の男。料理長のゲルトナーであった。
彼はこのクライス家の厨房を三十年以上取り仕切ってきた男。
若い頃は王都で修行を積み、その腕は確かだと評判だった。
しかし、クライス公爵家に仕えてから、彼の料理人としての人生は一変した。
先代公爵――フィアナの祖父は、現公爵以上に厳格な「質実剛健」の信奉者だった。
彼はゲルトナーの作る、創造性に富んだ料理を「堕落の味」と断じ、こう言い放ったのだ。
**「調理に時間をかけるのは、領地の時間を奪うのと同じこと。料理は、最も効率よく、腹を満たすためだけにあればよい」**
以来、ゲルトナーは腕を封印させられた。
味付けは塩のみ。調理は煮るか焼くだけ。
香草や香辛料など、風味付けの食材は「無駄の極み」として使用を禁じられた。
彼の瞳から、かつての情熱の光は消え、今はただ、日々の仕事をこなすだけの、諦観の色が浮かんでいる。
「フィアナお嬢様。厨房は遊び場ではございませんぞ」
その声には、長年創造性を奪われてきた男の、いら立ちが滲んでいた。
しかし、フィアナは怯まない。
「ゲルトナー。あなたに、作っていただきたいものがあるの」
「……また、何か奇妙なことを。お嬢様、お食事なら先ほど…」
「あれは食事ではありません。餌ですわ」
ぴしゃり、と言い放つ。
ゲルトナーの眉が、ぴくりと動いた。
「今から、本当の食事を作ります。手を貸しなさい」
フィアナは、有無を言わせぬ口調で命じた。
「豆を。それから、玉ねぎと、ニンニクを少々。それと、庭園の隅に生えている、タイムとパセリ、それから月桂樹の葉を一枚、凧糸で縛って持ってきてちょうだい」
ゲルトナーの顔が、驚愕に染まった。
豆と玉ねぎはいい。だが、ニンニク?タイム、パセリ、月桂樹の葉を束ねる?
ニンニクは「無駄」の烙印を押された食材。
そして、ハーブを束ねて煮込み、香りだけを移すなどという調理法は、彼自身、本で読んだことがあるだけで、試したことはなかった。
先代公爵の思想の下では、それは「無駄の中の無駄」でしかなかったからだ。
「お、お嬢様!そ、それは…『公爵家の調理憲章』に反します!ニンニクやハーブなぞ使えば、私が…!」
「私が許可します。これは、公爵家の一人娘としての、命令ですわ。それとも、あなた、私の言うことが聞けないと?」
フィアナの瞳が、鋭くゲルトナーを射抜く。
その気迫に、ゲルトナーは息を呑んだ。逆らえない。この幼い主君には、何か、抗いがたい力がある。
彼は、震える手で、倉庫の奥から、埃をかぶったニンニクの塊を取り出し、若い料理人に庭園からハーブを摘んでこさせた。
何年ぶりに触るだろうか。この、食欲をそそる、禁じられた香り。
フィアナの指示は、的確だった。
「鍋に油をひいて、スライスしたニンニクと玉ねぎを、焦がさないように、ゆっくりと炒めて」
その言葉を聞いた瞬間、ゲルトナーの心臓が、大きく跳ねた。
(ゆっくりと、炒める…?)
それは、彼が封印された技術。効率を無視した、味のための工程。
料理人たちが、戸惑いながらも、言われた通りに調理を始める。
じゅう、という音と共に、厨房の空気が一変した。
ニンニクと玉ねぎの、甘く、香ばしく、暴力的なまでに食欲をそそる香りが、味気ない豆の匂いを駆逐していく。
その香りは、ゲルトナーの鼻腔をくすぐり、脳を刺激し、そして、心の奥底に化石のように眠っていた、料理人としての魂を、激しく揺り動かした。
(ああ…この香りだ…私が、本当に作りたかった料理の香りだ…)
「そこに、豆と水、それから、先ほど縛った香草の束を入れて、柔らかくなるまで煮て。その後、豆の一部を潰して、スープにとろみをつけるのよ」
ハーブの束――ブーケガルニが鍋に入れられると、香りはさらに複雑な層を成した。
ニンニクと玉ねぎの甘い香りに、タイムの清涼感、パセリの青々しい香り、そして月桂樹の深く落ち着いた香りが溶け合い、ただ食欲をそそるだけではない、気品と奥深さのある、魅惑的な芳香へと昇華していく。
やがて、スープは完成した。
朝食に出された、あの灰色の液体ではない。
少しとろみがつき、見るからに温かく、優しい乳白色のスープ。
ゲルトナーは、まるで何かに導かれるように、木べらでそれをすくい、口に含んだ。
その瞬間。
ゲルトナーの世界から、音が消えた。
(ああ……ああ……!)
言葉にならない、衝撃。
ニンニクと玉ねぎの甘みとコク。豆本来の優しい旨味。
そして、鼻に抜ける、幾重にも重なった、複雑で、しかし完璧に調和したハーブの香り。
塩だけの単調な味ではない。それぞれの食材が、互いを高め合い、一つの完璧な「料理」として完成している。
自分が三十年間、作り続けてきた「餌」ではない。
魂のこもった、「料理」だ。
忘れていた。許されなかった。諦めていた。
その、自分が追い求めていた理想の味が、今、目の前の10歳の少女によって、完璧に創造されている。
「な、なんだ、この、悪魔的な飲み物は…!?」
ゲルトナーは、震える手で、そのスープを小さな器によそい、フィアナの前に差し出した。
その瞳には、もはや侮りや苛立ちはなく、代わりに、畏敬と、そして、かすかな希望の光が宿っていた。
「フィアナ様…!こ、これは、一体…!?このハーブの使い方は、一体どこで…?」
「…夢を、見たの」
フィアナは、少しだけ目を伏せ、囁くように言った。
「夢の中で、とても美しい女神様が、教えてくださったの。『美味しいスープは、幸せの香りよ』って…」
もちろん、真っ赤な嘘である。
しかし、その子供らしい、しかしどこか神秘的な答えは、ゲルトナーの心を打つには十分すぎた。
その時、厨房の入り口から、雷鳴のような怒声が響き渡った。
「フィアンティーナ!ゲルトナー!一体何をしている!この香りは何だ!」
父、クライス公爵その人であった。
彼は、娘の奇行と、厨房にまで漂ってきた「禁じられた香り」に気づき、血相を変えて飛んできたのだ。
「ゲルトナー!貴様、我が父上が定められた『公爵家の調理憲章』を破ったのか!この堕落者が!」
「ひっ…!も、申し訳ございません、公爵様!これは、その…」
公爵の怒りを前に、ゲルトナーは顔面蒼白になり、その場にへたり込みそうになる。
(ああ…これで、私の短い夢も終わりか…)
三十年ぶりに蘇った料理人としての魂が、再び冷たい石の中に閉じ込められようとしていた。
しかし、その前に、小さな影がすっと立った。
フィアナであった。
「お父様。ゲルトナーを叱るのはおやめなさい。全て、わたくしが命じたことですわ」
「なんだと?フィアンティーナ、お前まで堕落したのか!」
「堕落?いいえ、違いますわ、お父様」
フィアナは、臆することなく、父をまっすぐに見据えた。
その小さな体から放たれる威圧感に、公爵は思わずたじろぐ。
「これは、『贅沢』ではございません。『知恵』ですわ」
「知恵、だと…?」
「はい。使ったのは、朝食と同じ豆。ほんの少しのニンニクと、庭に生えている草だけ。高価な食材など、何一つ使っておりません。これで民が幸せな気持ちになるのなら、これこそが、真の『質実剛健』ではございませんこと?」
子供らしからぬ、しかし妙に筋の通った反論に、公爵は言葉を失った。
フィアナは、おびえるゲルトナーからスープの器をひったくると、それを公爵の目の前に突き付けた。
「さあ、お父様。お飲みになって。これを飲まずして、何が領地のため、民のためですか。この香りを『堕落』と断じるのなら、まず、その舌で、魂で、味わってからになさい!」
有無を言わせぬ気迫。
公爵は、ごくりと喉を鳴らした。目の前の娘が、まるで別人に見えた。
彼は、葛藤した。このスープを飲めば、自らが守ってきた家の伝統を、父の教えを、否定することになる。
しかし、飲まなければ、目の前の娘に、指導者としての威厳が示せない。
「……よかろう」
公爵は、屈辱に顔を歪めながらも、器を受け取った。
(ふん、香り付けなどと…小賢しい真似を。所詮は舌を甘やかすだけの、堕落の味に過ぎん…!)
そう自分に言い聞かせ、侮蔑の表情で、スープを一口、口に含んだ。
次の瞬間、公爵の時間が、止まった。
まず、舌に叩きつけられたのは、暴力的なまでの旨味の奔流。
炒められたニンニクと玉ねぎの甘く香ばしいコクが、味気ない豆のスープに慣れ切った味蕾を、容赦なく殴りつける。
「なっ…!?」
驚きに目を見開くが、衝撃はそれで終わらない。
飲み込もうとしたスープが喉を通る瞬間、今度は鼻腔を、複雑で、気品あふれるハーブの香りが駆け抜けた。
それは、ただ一つの香りではない。いくつもの香りが層を成し、互いを高め合い、まるで美しい音楽のように、脳内で響き渡る。
そして、最後に残るのは、豆本来の、優しく、温かい後味。
(なんだ、これは…なんだ、この味は…!?これが、本当に、あの豆から作られたというのか…!?)
公爵は、混乱した。
自分の知っている豆のスープとは、全く違う。
いや、自分がこれまで「食事」だと思っていたもの全てが、色褪せて見えるほどの、圧倒的な「美味」が、そこにはあった。
彼は、娘の言葉を思い出していた。
『これは、贅沢ではない。知恵だ』
『これで民が幸せになるのなら、これこそが真の質実剛健だ』
(そうだ…我が娘は、我が家の伝統である豆のスープを否定したのではない!その真の可能性を、我々に示してくださったのだ!高価な食材を使うことなく、ほんの少しの工夫と、禁じられていた知恵を使うだけで、これほどの美味が生まれると…!これならば、領地の財政を圧迫することなく、民の食事を、その心を、豊かにすることができる…!なんと慈悲深く、そして、なんと賢明なことか!父上が説かれた質実剛-健とは、ただ耐え忍ぶことではなかった。民の心を、生活を、真に豊かにする『知恵』こそが、真の強さだったのだ…!)
公爵は、感動に打ち震え、娘の肩に、そっと手を置いた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「フィアナよ…!おお、フィアナ…!お前こそ、我がクライス公爵領に遣わされた、若き聖女だ…!」
「……はい?」
突然の、あまりにも大仰な称賛に、フィアナは、きょとんとした顔で父を見上げた。
彼女の頭の中は、「やっとまともなご飯が食べられた」という安堵でいっぱいであり、父が何を言っているのか、全く理解できなかったのである。
(ああ、美味しかった…。これなら、毎日でも食べられるわ…)
そんな、どこまでも個人的で、食い意地の張った感想だけが、彼女の心を温かく満たしていた。
そして、その傍らで。
料理長ゲルトナーは、静かに、しかし熱く、拳を握りしめていた。
(このお嬢様なら…この、若き聖女様なら、きっと…!)
(この、味が死んだ厨房を、このクライス公爵領を、変えてくださるに違いない…!この御方に、我が料理人人生の全てを捧げよう!)
公爵の感動が「畏敬」であるならば、ゲルトナーのそれは、もはや「信仰」と呼ぶにふさわしい熱を帯びていた。
こうして、一人の公爵令嬢の、ただひたすらに美味しいものを食べたいという自己中心的な渇望は、周囲の荘厳な勘違いによって、「聖女の奇跡」として、クライス公爵領の歴史に、その第一歩を刻み込むことになったのであった。
そしてそれは同時に、一人の料理人の、失われた魂を呼び覚ます、再生の物語の始まりでもあった。
こちらは中編です。
食に関する読み物っていいですよね~(*´▽`*)