90.insist
ある保育園で、二人の園児が喧嘩をした。たんこぶや鼻血レベルの騒動になって、それぞれの母親は急いで飛んできた。
「外で遊具の取り合いになっちゃったみたいなんですが……お母さん方、あまりキツく叱らないようにしてあげて下さい。あの子達、最近気が立ってるみたいですから」
母親達は、もちろん、と頷いた。自分達の子供はまだ幼く、保護してやらなくてはならないのだ。
それぞれの子を連れ帰ると、彼女らはよく言って聞かせた。
「いい、もう喧嘩なんてしちゃだめよ。怪我したらみんな心配するでしょう」
子供は膨れていたが、次の日になるともうけろりとしていた。けれど、気を抜かずにちゃんと見ていてやらなくてはならない。なにしろ子供は純粋で、無知で、傷つきやすいのだ。
保育園はちょうど冬休みに入っていた。子供たちは互いに会う機会が少なくなったが、母親同士は年末の準備のため、スーパーでばったりということもよくあった。
「あら、佐藤さんの」
「まあ、鈴木さん」
「この前はうちの子がご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ。難しい年頃で、困っちゃうわ」
「本当ですよねえ。普段からうちの子、おたくのお子さんと仲悪いみたいで」
「あら。それでかしら」
「何です?」
「うちの子ったら、けんちゃんが先に乱暴したんだって言い張ってますの」
「……そうなの。その調子だと、すぐ会わせるのは良くないかしらね。うちの子もデリケートだから」
「そうねえ。私達が仲介役になってあげないと」
「ええ」
「……」
「……」
「じゃ、失礼しますわ」
「ええ、また」
二人は家につくと、早速子供に喧嘩当日のことを詳しく問いただした。決して焦らないよう、猫なで声で。
「もしもし、鈴木です」
「あら、昨日ぶり。どう? 話は聞けた?」
「ええ、でもおかしいわ。手を出したのはりょうちゃんの方ですって」
「あらそう……」
二人の母親は、しばらく互いに困ったわね、困ったわねと言い合って電話を切った。「けんちゃん」の母親は、息子がスカートの裾を引っ張っているのに気付くと、しゃがんで目の高さを合わせた。
「なあに?」
「あのね、ぼくね、りょうくんのこと……」
言葉が見つからないのかもじもじと俯いた息子を、母親は抱き締めた。そう、子供にはたっぷり愛情を注ぎ、スキンシップしなければならないのだ。
「大丈夫よ。全部うまく行く。お母さんが守ってあげるから、何も怖くないからね」
息子はなにがなんだかわからず、目を白黒させていたが、やがて母親を抱き返すことを選んだ。
次の日から、母親同士の壮絶な舌戦が始まった。両者、「息子はそっちが悪いと主張している」と言って譲らない。当然だ。息子が誰かを傷つけたり、傷つけられたりする事態は、何が何でも回避しなければならない。
冬が終わり、春が来て、夏が過ぎ、秋になり、また冬が来た。それが何回も繰り返された。二人の子供は、母親同士の空気にあてられて互いに距離を取り、いつしか目も合わせない仲になった。息子たちがいかなる争いにも巻き込まれず大学に進んだとき、母親たちはどれだけ安心したことか。
しかし平和は、いつの世も長くは続かない。
それは、息子の代の、成人式後の同窓会でのことだった。ひとりずつ現状報告を行っていたときに、片方の息子がこう言ったのだ。
「十何年間話したことがない佐藤と話してみたい」
居合わせた母親達は大慌てで、会の間中二人を十メートル以上近づけないように引っ張り回した。そうするうちに会が終わり、片方の親子が連れ立って先に会場を出る。もう片方の母親はほっとして、息子に待っているよう言いつけて、トイレに向かった。
それが油断だった。
戻ってみると息子はおらず、外に出てみれば、二人は喧嘩をしていたのである。大の男二人を、もうひとりの母親は止めようにも止められず、膝を折ったままおろおろしていた。
二人の喧嘩は、もちろん口論などではなかった。それどころか、掴み合いや揉み合いでさえない。
片方が殴りにくればもう片方はノーガードでそれを受け、それから殴り返す。その繰り返しだった。
「いてえよバカ!」
「俺の方がいてえよ!」
「野郎!」
「てめえ!」
「無視しやがって!」
「そっちこそ!」
まばらに残っていた同窓生達は、ある者はドン引きで、またある者は面白半分に、いつ終わるとも知れない殴り合いを見物していた。
「やめて……誰か止めて! うちの子は悪くないの! ああ怪我してる!」
母親の必死の訴えは、誰の耳にも届いていなかった。息子たちは、拳を振りかぶる。
「保育園のっ、ゼェゼェ、悪かったのは俺だあああああ!」
「いや、ハァハァ、俺が悪かったあああああ!」
その一発ずつを最後に、汗と血を撒き散らしながら、二人はその場に倒れ込んだ。しばらく沈黙が流れる。やがて、どちらからともなく喉を鳴らし始め、最後には揃って大笑いした。同窓生たちは呆れ果てながら、これまた笑っていた。
「なんだお前らー80年代か!」
「マジ寒いわー」
「ばーか」
「おい親倒れてんぞー」
その通り、仰向けになった二人から離れて、母親たちもまた仲良く並んで泡を吹いていた。
「~と主張する」、
「言い張る」。