8.continue
自己紹介をし合ったときから、彼女は僕を避けていたようだった。社内では事務的な会話しか交わさず、笑顔も見せない。社内食堂で鉢合わせると、必ず遠くの席へ移動していた。
やがてその態度が和らいだころそれとなく聞いてみると、僕の名字が苦手だったのだそうだ。何でも、昔いた嫌な男が同じ名字で、その文字を見ると嫌悪感を催してしまうのだとか。
正直大袈裟だと思ったが、余程のことがあったのだろう、と思い直し、では僕を好きになって貰うにはどうしたらいいかと聞いた。
彼女は酷く狼狽し、末に冗談で、結婚して妻の籍に入り名字を変えれば、と言った。勿論自分とではないと匂わせながら。
考えもしないというのか、それともアプローチしても無駄だと主張したいのか。いずれにしろ僕はそれ以降、彼女が過去に作った心の壁を取り除く作業に邁進することになった。
それは案外、うまくいっているように思えた。彼女の笑顔は段々ほぐれていくように思えたし、仕事後に二人だけで飲む機会も増えるようになった。
そこで、休日に会えないかと誘ってみたのだ。
彼女は快く了承し、社内にバレないようにと少し遠方を会う場所にと提案した。それが気遣いなのかどうか、若干複雑な思いだったが、賛成しておくことにした。
そして、当日。
買い物、食事に散策や談笑と、気ままに過ごした。特に計画など立てていなかったが、彼女は楽しんでくれたようだ。
辺りが暗くなりかけ、そろそろ帰ろうかというとき、ふと彼女が自販機に立ち寄った。飲み物を選びながら、白い明かりに照らされる彼女の、何故か思案げな横顔。僕のことは意識にあるのだろうか、突然そう思い、
――手を取り肩を抱き寄せて、キスをした。
いや、しようとした。
唇が触れ合ったのはほんの一瞬。次の瞬間彼女は素早く頭を下げ、僕の顔面に頭突きを食わせたのだった。
思わず手を離し、鼻を押さえながら彼女を見る。
両手をはたき、手の甲で乱暴に唇を拭う彼女。口元にルージュが朱を引く。
彼女は無表情に僕を見ていた。冷たい、見下げ果てた目だ。
「…ごめん」
狼狽の中そう口にすると、その目に嫌悪と憎悪が燃え立った。まるで不良少年がするように「ケッ」と吐き捨て、彼女は罵る。
「お前らはホント、屑だな。マジで消えろや」
その豹変ぶりに呆然とする僕に背を向けて、彼女は自販機に入れた百二十円を放置したまま音高く歩み去った。
お前らとは、この名字を持つ者たちのことか、それとも世の男性全部を指すのか。いずれにせよ僕に分かったのは、心の壁などなくなっていなかったこと、そして彼女がある男を憎み続けていることだけだった。
コーヒーのボタンを押そうとして止め、代わりに自販機を蹴り飛ばす。夜の迫る街角に、僕の「イテッ」が虚しく響いた。
「続く」、
「~を続ける」。




