表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/100

36.suffer

「引退するゥ?」

 雑誌編集者の浅野は、素っ頓狂な声を上げて原稿を取り落とした。

「そう。色々迷惑かけたね、俺、もうやめるから」

「やめる…って、そんなぁ、読者が待ってるんですよ。冗談よして下さいよ」

「それが冗談じゃないんだな…」

 煙草の煙を長々吐き出して、俣井は明後日の方を見ていた。

 

 俣井吾朗は今年で五十五になるベテラン作家だ。弱冠二十一で文壇に現れ、長くロマン小説を書き、ベストセラーを何本も持っている。新星だの騎手だの新境地だの、そういった煽り文句にも常に事欠かなかった。

「その先生がですよ、どうして引退なんです!生意気なようですが私、今頂きました『想起閃』は先生のライフワークであると認識しております。小説と共に人生を歩んでこられたのに、それを捨ててどうなさるんです!」

 浅野は唾を飛ばしながらまくし立てた。しかし俣井は表情を変えず、

「ただの引き延ばしだよ」

と言う。浅野は絶句した。

「知ってるだろう?こいつへの読者の評価は。売上げ見てもファンレター見ても一目瞭然だ。俺ぁ衰えたよ。読み手どうこうじゃない、自分で分かるんだ」

「そ…そりゃあ、長いこと書いておられたら作風は変わります。読者のニーズも変わります。けどファンはついて来ます、待ってるんです」

「そりゃあ気の毒だった。だがまあ、世間は広いからよ。誰か同じようなの見つけてついてけばいい」

 特に皮肉げでもなく平然としている。浅野は必死だった。

「だけど…この先…」

「なぁに、食っていく方法なぞいくらでもある。暫く賭麻雀てのもいいな」

「先生…!」

 俣井は灰皿の上で煙草を擦り潰した。

「あ、受けてないな…って肌で感じるときがあるんだ。青二才の時以来の経験だよ。しかし、この歳になると、もうきついわ。それに」

 ほとんど涙目の浅野に向かって、俣井は何とも複雑な微笑を浮かべた。

「飽きたんだ。俺、思ったほど作家に未練ないみたいでな」

 へなへなと、浅野がその場にへたり込む。彼の中で幾つもの思索が渦巻いているのを流し見て、俣井は窓の外に目をやった。

 血のように赤い、夕空である。

 

 

 一週間後、新聞にひとつの訃報が載せられた。俣井吾朗、享年五十五。死因は心不全。葬儀は身内だけで執り行い、遺骸は某所に埋葬した。

 身内の一人である担当編集者の浅野は、葬儀の後、俣井の兄という男性から一通の書状を手渡された。見ると、俣井本人から充てられたものである。震える手で開封し、中身を取り出した。

 

『浅野君へ

 厄介をかけてしまって本当にすまなかった。しかしこうするしかなかったのだ。中途半端な苦しみの中で生活出来るほど、私は大人ではなかったようである。

 色々して貰っておいて悪いのだが、幾つか頼みがある。まず、「想起閃」は未完の遺作として出版して欲しい。また今後は、作者の死因は不慮のもので、決して自殺のようなことはないと、きちんと伝えられるようお願いする。最後に妙な頼みではあるが、死んだ後の私のことは、又野二郎と呼んでいただきたい。これは身内だけで構わない、むしろ外部に漏れないよう頼む。

 なぜこんなことを頼むかって? その方がロマンチックだからさ。ロマン小説家と呼ばれる人間の引き際としてはなかなかのものだろう?

 ではまた、どこかの雀荘で。

       俣井改め又野』

 

 浅野の頬が震え、それからふわりと緩んだ。その上を一筋、涙が零れ落ちてゆく。

「バカ……」

 引退宣言の日、彼が浮かべた一瞬の悪戯っぽい笑顔が、浅野の脳裏に蘇っていた。


 

「~を経験する」、

「~を受ける」、

「苦しむ」。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ