33.raise
「所長、所長ゥ」
「なんだい五月蝿いね、入りなよ。なんだ松さんかい」
「へえ、どうも。お休みンとこへ失礼します」
「お休みってね、あんたらはもう上がりでも私ゃまだ事務仕事やなんか残ってるんだから。早めに済ませてくれないと困るよ」
「そりゃもう、へい。イヤ何でも与太の野郎がどうしても話があるってんで、所長はお忙しいんだッても聞かないんで、連れてきたんですが…おゥ与太、さっさと来なィ。所長様を待たせるんじゃねェよ、愚図だな全く」
「あァいいよいいよそんなに叱らなくたって。何だい与太、話して御覧」
「…あのね、えっとね…」
「さっさと言わねえか馬鹿」
「痛いッ。…あのゥ、可哀想なんですゥ」
「可哀想?誰がだい、お前かね」
「えっと、牛…」
「…驚いたね、牛が可哀想だってのかい。おい松さん、与太はここで働いてどのくらいだね」
「ハァ、明日できっかり一年です」
「そんなに働いてるのに今更どうしたんだい。私らの仕事は牛を立派に育てて人様に食わせることだよ。与太お前知らなかったのかい」
「ううン」
「じゃいったい何だって急に言い出すんだ」
「急にじゃないの。だんだん育てて、大きくなって、ね、与太…俺が撫でると、嬉しそうな顔するだろう、ね。飼い葉だって与…俺がやらないと食わない、ね」
「うん、まァ、言いたいことは分かった。育ててるうちに牛に情が移ったと、こういうわけだね」
「あッそれ、情。情が移ったン」
「そうなんでさァこの野郎、牛を一人前のガキかなんかと勘違いしてやがるンで」
「しかしそりゃア困るよ。与太、私らが世話してる牛は、みんな食われるためにいるんだ。勿論中には種付けだの何だのってのもいるがね、ともかく人間様が食うためにあるんだからな。牛には悪いが、食い物がなきゃ困るんだから」
「ううン、違います。俺は食わない」
「そりゃお前は食わないさ、高い牛なんだ。松坂牛だ。貧乏人じゃ手が出ないもんな、私だって半年に一遍食えるかどうか」
「所長さんも食わない」
「そうだなァ、食わないようなもんだな」
「腹が減ります」
「減るだろうさ、だけど食えないんだ。いいか与太、お前がいくら牛が好きでもな、うちの牛は食えない。わかるな」
「俺、あの牛は食べない。贅沢です。腹が膨れるだけです」
「時々妙にスレたこと言うね、お前。しかし、じゃあ何だい用ってのは。牛をペットにしたいとかなんとか、そんな話なら駄目だよ」
「……(かぶりを振る)」
「仕事をやめたいってのかい」
「……(かぶりを振る)」
「う〜ん…分からないねェ。松さん何か聞いてないのかい」
「いやァ、あっしもさっぱりで。この野郎『可哀想だ可哀想だ』ってやがるばっかりで」
「そうかい…松さんならねェ。『松坂牛は食わなくていいから食える連中と同じぐらい給料をくれ』か何か言いそうなんだが」
すると松五郎ギクリとなりチラリと目配せ、与太郎気付かずぱっと笑顔になって、
「あッ。それッ」
「~を上げる」、
「~を育てる」、
「~を提起する」、
「賃上げ」。