32.suppose
何も持たない人だった。最低限の布を身に纏い、最低限のものを口に入れる。それだけで満足しているような人だった。
「仮に――」
というのが口癖で、
「仮に、このベーコンが松坂牛のステーキだとするでしょ。ほら美味しい、お腹一杯」
そんなふうにして、いつもふわふわと笑っているのだ。そんな彼を仙人だと言う人もいれば、馬鹿だ、怠け者だと罵る人もいた。
彼は住まいを持たない。丈夫なのか、器用なのか、その日気が向いた場所で一晩過ごしてしまう。そんなときは干したての綿入り布団にくるまっていると思うのだそうで、驚いたことに、寝ているときの彼の体は本当にぽかぽかと温まっているのだった。
夏は蒸し暑く、冬は十分に暖のとれない環境の中で、彼の真似をする者もいた。しかしどうもうまくいかないらしく、大抵は「暑くない暑くない」と呟いて耐えることに終始する。
ある時、そんな中の一人が仮に仮にを積み上げて大事件を起こしかけたことがあった。最初はどこかで拾ってきた木彫りの人形に、名前を付けて可愛がっていたのだが、いつの間にか本気でそれを娘だと思っていたらしい。設えた棚の上にあったのを仲間がうっかり落として踏んづけ、首を折ってしまったときに、激昂して鉄パイプで殴りつけようとしたのだ。
あわやというところで、騒ぎを聞きつけた皆に止められたが、押さえられた男は今度はぽろぽろ涙を流し始めた。そこに彼がやってきて、突然、二、三発のビンタをお見舞いしたのである。
「馬鹿、半端なもの持つんじゃない!」
びっくりするほど真剣な顔でそう怒鳴って、それから酷く悲しそうに歩いていってしまった。
そんなふうに、ともかく不思議な人で、時々ふらりといなくなっては忘れかけた頃にまた顔を見せたりした。何をやって生活していたのか、もしかしたら本当に霞を食えたのかも知れない。確かなのは、彼を本当に憎んでいた人間は一人もいなかったこと。そうして彼もまた、皆を好いていたことだ。
そんな彼が、ある時何ヶ月も帰ってこなかった。いつものことなので誰も気にしていなかった。またどこかで、仮の布団で寝ているのだろう、と。
だが、ある冬の朝に道端に寝転がっていた彼は、ちっとも暖かそうではなかった。
皆で慌てて運び込み、ありったけの毛布だのボール紙だのを掛けて彼を暖めた。やがて身を震わせながら、うっすら目を開けると彼はこう言った。
「ああ、温いなあ。王様気分だ」
けれど彼の皮膚は青白く、唇は紫で、ちっとも暖まっていないことは一目瞭然だった。彼自身は確かに王様のような暮らしをしたかもしれないが、皆にとっては、自分たちと同じ貧しい仲間に過ぎないのだ。
これが、彼の限界だった。
「手…手を」
彼が賢明に持ち上げた指を、全員が握りしめた。
「ああ」
満足そうに溜息を吐いて、彼は笑った。
「ほんとに温いな…俺、仮の物ならいっぱいあったけど、お前らは仮じゃなかったなあ」
「当たり前だろ、馬鹿」
誰かが涙声で叱責した。彼はもう一度、にっこりと笑って、皆の手の中でだんだん震えが消えていって――突然、その指が驚くほど力強く握り返した。
まさか、と皆が腰を浮かせる。だが彼は、既に命を手放していた。
その瞬間、皆、何故か天井を見上げていた。彼がまた、何も持たずに――或いは今度こそ全てを手に入れて、広く高く、空気に溶けていくのが見えた気がした。
「~だと思う」、
「想像する」、
「仮定する」。