24.demand
悲鳴、泣き声、断末魔。阿鼻叫喚の中を、一人の赤ん坊が歩いていた。只の赤ん坊ではない。恐ろしく巨大な、天を突くような体を持っている。
それが、無邪気な顔をしてよちよち歩きをしているのだ。ただし、ぎこちなく一歩を踏み出すごとに、さながら大怪獣ゴジラの如く街を踏みつぶしながら。
「いや、ジャイアント・ベビーの間違いじゃないですか。まんまだけど」
「呑気なことを言っとる場合かね、矢萩君!早くあれを止めねば大変なことになるぞ」
「もうなってますよ」
「ええい!」
その赤ん坊をトラクターで追う、いかにも博士な男とこれまたいかにも助手な青年。そう、この大惨事は紛れもなく彼らの無謀な実験のお陰だったのだ。
「それにしても、どこに向かってるんでしょうねえ」
「一歳児の考えてることなんかわかるものか!兎に角…」
と、唐突にはっとする博士。赤ん坊の目的となっているものに気付いたのである。それはこんな場合お決まりの、母親という存在であった。
「矢萩君、母親だ!母親に会わせるんだ」
「ええ?」
呑気な顔をしていた矢萩青年が、慌てたように振り返った。
「母親?だってそんなもの、今ここに…」
「わかっとる!イメージ投射装置があったろうが!」
「そんな無茶なぁ。直接あれの頭につけろっ…」矢萩青年はため息をついた。「…って言うんですね。わかりましたよ。やりゃいいんでしょ、やりゃあッ」
トラクターのエンジンが唸りを上げ、歪んだアスファルトを飛び跳ねた。ひっくり返りそうな勢いで瓦礫の間を縫い、派手なブレーキ音を立てて赤ん坊の目の前に停車する。
「給料上げて貰いますからね!」
矢萩青年はなにやらの装置とロープの射出機を持って車外に飛び出した。赤ん坊のオムツに向かってロープ先の鉤針を打ち込み、スルスルと上昇していく。その間も赤ん坊の歩みは止まらず、トラクターをまっ平らに踏んで尚も進んだ。
「あーっ何てことだ、公費で買った車をお」
ひとしきり嘆いてから、博士は遠ざかる赤ん坊の巨大な尻を見つめた。
(頼んだぞ、矢萩君)
「くっそっ、大人しくしてっ」
すべすべした健康的な皮膚を、振り落とされかけながら矢萩青年はよじ登っていた。腹から胸部、肩、首へと登り、漸く耳のうしろへ辿り着いた時には彼は全身筋肉痛である。
「よし!この辺りでいいな」
赤ん坊の頭に装置を取り付け、母親のパーソナルデータを呼び出す。
「これが要るんでしょ、…止まれっ」
ポチっとな。
電気信号がイメージとなり、赤ん坊の頭に伝わっていった。
「……」
赤ん坊が立ち止まる。地響きが止み、逃げ惑ったりうずくまっていた人々が背後を振り向いた。
そして人々は、信じられない光景を見た。
赤ん坊が、成長していく。
幼児期、児童期、青年期を経て成人女性となり、やがて小皺や妊娠線まで現れ、瞬く間に中年…壮年期へと突入していく。それと同時に、急速にそのサイズは縮まっていった。
そして…。
『あと一週間だそうなんです』
老婦人は、柔らかな笑みを浮かべてそう言った。
『やりたいことはまだあるけど、やるべきことはやりきったわ。だから、少しだけ…最後の我が儘なんです』
「矢萩君!ご婦人は?」
息を乱して、博士が走ってくる。矢萩青年は、地面に横たわる小さな老婆を、静かに見下ろしていた。
「亡くなりました」
「…そう、か」
矢萩青年の白衣に覆われた老婆の体は、老いと病にやせ細っていた。
実験体を自ら引き受けた彼女の願いは、一度だけ若返ること。膨大なエネルギーと技術、そして人生の残り時間を費やしての、一瞬の生き直し。だが――彼女は、若返りすぎた。細胞再生・活性化装置は暴走し、体の時間が戻ると共に巨大化――彼女の命の火は当初の予定より激しく燃え、急速に消費されてしまったのだ。
遠巻きに、人の輪が出来る。その中心で救急車を呼んだ携帯電話を閉じ、矢萩青年は空を見上げた。
博士が口を開く。
「矢萩君、実験は――」
「いえ」
カラッとした秋晴れである。
「成功ですよ」
「…そうだな」
アスファルトの上で、老婆は幸せそうな、赤ん坊のように無邪気な笑みを浮かべていた。
「~を要求する」、
「~を必要とする」、
「~を問う」。