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お久しぶりです!
リアナはため息をついた。
木陰のベンチに腰掛けた彼女は、分厚い本を太ももの上で広げている。
青く晴れた空を見上げた。季節は秋に移り変わるころで、空気が澄んでいて気持ちいい。
ここは少々さびれた庭だ。
校舎の一番端にある図書館のさらに奥にあるため、多くの生徒たちは新しくできた綺麗なテラスを利用する。
だからこそ一人になりたいときに最適の場所だった。
この庭でしか見たことが無い、小さくて白い花があった。
匂いを嗅げばほんのりと甘い香りがする。
学校の地味な庭で咲くくらいだから、きっとなんてことない雑草だろう。
そう思ったが、花を見つけてから一か月、こうして昼休みを使って正体探しをするくらいには気になっていた。
しかし、少なくない数の書籍を見漁った甲斐もなく、似たような花しか見つけることができなかった。
今リアナが手にしている王国植物図鑑が最後の砦だったが、やはり記載はなかった。
「私が見落としてるのかな……。」
王国植物図鑑は、王国で自生するありとあらゆる植物を網羅している。お目当ての花も絶対に載っているだろうと思っていた。これだけ探してもわからないということは、自分の観察力のせいかもしれない。
自信のなかったリアナはそう結論付けた。
王立学校植物科に所属する自分ならば、何かの拍子で正体を知れるだろう。
少し残念だが、リアナにとっては長すぎる昼休みの時間を有意義に過ごせた一か月間だった。
せっかくだから記念に持ち帰って押し花にしよう。
リアナは王国植物図鑑を閉じると、しゃがんで白い花を一輪摘んだ。
その甘い香りを吸い込んでからそっとハンカチに包んだ。
遠くで鐘の音が聞こえた。昼休み終了10分前だ。
早歩きで戻らないと講義に間に合わない。
慌ててスクールバックと重たい図鑑を抱えて立ち上がり、
講義室に向かおうとしたリアナの意識は、ここでぱったりと途絶えた。
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なんだか体の左側が温かい。
それに花のような果実のような、とにかくとてもいい香りがする。
その温かさと香りにもっと触れたくて無意識にすり寄り……。
リアナは我に返った。
「んん……。ん?」
「君が今日の五限をすでに四回欠席しているとしたら、今学期の植物地理学の単位は諦めるしかないだろう。」
「!?」
驚きすぎて声も出なかったリアナは、反射的に声がした方に顔を向け、距離の近さにさらに驚いた。
凄まじい美男子がいる。
シャープな輪郭と形の整った薄い唇。
センターパートにしているグレーの髪と、髪色と同じグレーの目は冷たい印象を与える。
この学校の制服もグレーなので、全体的にモノトーンだ。
王立学校の校章が刺繍されたネイビーのネクタイをしている。
ということは王立学校の男子生徒でリアナと同じ2年生だ。
彼は画板を右手に持ち、画用紙に何やら絵を描いている。
精密な作り物のように冷ややかな美貌を前に、この人は左利きなんだと現実逃避していたリアナだったが、大事なことを思い出した。
「講義っ!」
「トレイン教授は融通が利かないから、今から行っても出席は認めてくれない。」
庭の中心にある時計を見ると、講義が始まってから40分は経っている。あと20分しか残っていない。
幸いリアナは今まで一度も植物地理学の講義を休んだことはないので単位を落とすことはないだろうが、苦手な科目のため出席点は確保しておきたかった。
静かに落ち込むリアナをしり目に、隣の彼は無表情で黙々と左手を動かし続けている。
「あの、あなたは一体……?」
「僕はこの時間このベンチに座って絵を仕上げると決めていた。今日は君という先客がいたが、僕の予定に変更は無い。」
「は、はぁ。でもこんなに近くに座らなくても……。」
彼とリアナは密着していて、はたから見ればベンチで寄り添う恋人同士に見えたかもしれない。
が、ここに座っていたのがリアナではなく男子生徒でも教師でもご老人でも、彼は構わずこのベンチに腰掛けただろう勢いだ。
そしてリアナは彼の右肩に体を預けて眠っていたようだった。
「この位置じゃないと駄目なんだ。君に寄り掛かられようが肩をよだれで濡らされようが別に構わない。」
はっとしてリアナは彼の肩を見ると、ブレザーに濡れてできたしみがあった。
「やだっ、ごめんなさい!」
リアナは慌ててスカートのポケットに入れているハンカチを取り出そうとしたが———
左手が持ち上がらない。
そして右手(何故か王国植物図鑑を抱えている)も動かない。
彼から離れようとしてみたが、全身がとても重くピクリともしない。
「……?」
「君が抱き枕にしてるその図鑑。図書館に一冊しかないんだ。用が済んだなら早めに返却してくれ」
「別に抱き枕にしているわけじゃ……。私はただ、そこに咲いている白い花の名前が知りたかっただけなんです。」
少々むっとすると、さっきから絵に集中して1ミリもリアナに興味が無かった彼が突然こちらを見た。
ただでさえ近かった距離がさらにぐっと近づき、美しい顔面がリアナを覗き込んでにやりと口角を上げた。謎めいたグレーの瞳がリアナの胸をざわつかせる。
「君、さてはあの花の香りを嗅いだな?」
「……嗅ぎましたけど。」
「あの花の花粉には一般的な麻酔薬の主成分と似た物質が含まれている。それしか分かっていないがな。」
「ま、麻酔!?」
今まで知らずに香りをかいでいたが、ここ最近五限の授業中眠たかったのは昼食のせいだけではなかったようだ。今日はまるで根性の別れかのように思いっきり香りを吸い込んでしまった。いつもより花粉を多く取り込んでしまったのかもしれない。
ふと気づいたが、彼は妙に白い花について詳しいようである。
「ちなみに、王国植物図鑑を探しても多分載ってないと思うぞ。」
「そんな、じゃあどの本を調べれば」
「あれは最近僕が見つけた新種だからな。」
「え!?」
どおりでいくら調べても情報が無かったわけだ。
リアナは自分の見落としではなかったことが知れてほっとした。
「この庭に来る変わり者は僕くらいだと思っていたから、発見者も僕以外居ないだろうと思っていたが……。君、いつあの花を見つけたんだ?」
「えっと、三学期が始まった週です。」
「一か月前か。夏休みの終わりに見つけたから僕の方が少し先だな。残念だがもう学名をつけて王国植物学会に報告してしまったんだ。」
「はぁ……。」
仮にリアナが先に見つけていたとしても新種とはわからなかっただろう。
現に今日までわからなかった。
この生徒はもしかしなくてもかなり優秀なのかもしれない。
そう思いながら、口元に拳を当ててなにやら考え込んでいる彼を見つめていると、なんだかぼんやりとしてきた。
「あれ……。なんか……眠たい……。」
「しかしこうも効果が強すぎるのは少々考え物だな。体が動かせなくなるのをどうにかしなければいけない。実用化に向けて弱毒プロセスを構築して……。」
リアナのまぶたは本人の意思を無視してどんどん閉じていく。
彼が思考の海に潜ってぶつぶつ言っているのを心地よく聴きながら、リアナは再び意識を手放した。