3:入塾願い
「さぁ、父上、上がってください」
ユウトはタケトを門の中に押し込んだ。無役とは言え、由緒ある家柄の末端に連なるタケトは、長屋住まいではなく、小さいながらも庭付きの屋敷を構えている。
「母上、父上を連れて参りました」
「まぁまぁ、それはご苦労様。あなたもお役目ご苦労様でした」
穏やかさに拍子抜けしてしまいそうな声と共に、手桶を持った母親のリンカが顔を出す。細面で娘のような若々しさを保った美しい顔に笑みを浮かべ、甲斐甲斐しくタケトの足を布で拭いながら、
「クロさんもどうぞ、上がってお茶でも召し上がってくださいな」
と声をかける。
「いやいや奥様、おかまいなく。俺は今日はここで失礼させていただきます」
「あら、そんな遠慮はご無用ですわ。あなたからも言って下さいな」
「おう、クロ。いいから上がって飲んでけ」
「父上、今日はお酒はもう十分でしょう。クロさん、上がってお茶を飲んでってください。でないと、話が前に進みやしない」
「申しわけありません、坊ちゃん。そんじゃちょいと」
リンカはクロの足まで手拭で拭う。クロは恐縮しきっているのだが、いつものことなので、しきりに頭を下げながら足を任せている。
ようやく四人が座敷で茶を一口啜ったところで、ユウトが切り出した。
「貴智塾の件で、ご報告することがあります」
「あぁ、シュンセイ先生のところね」
母が応じる。
「はい、一週間通いましたが、とうとう入塾のお許しが出たのです」
「お、そいつはめでてぇ。クロ、ちょっとひとっ走り、刺身をみつくろって」
「合点で」
「父上、話はまだ途中です」
「そうですね。あなた、それにクロさんも、少し落ち着いてくださいな」
もっともなリンカの一言に、二人は首を縮めてちんと座っている。
「シュンセイ先生には、もう気ままに学問をしたいから年若い者は採らないと言われ、最初は入塾を断られました。けれども、私は先生の、陽都修錬舎での特別講義を聞いて以来、どうあってもこの先生の下で学びたいと思っていたので、礼に反することではありますが、日参して頼み込みました。そして、ようやく許しを得ることができたのです。が、シュンセイ先生は条件を出されました」
「銭か。ちょうど銀一枚、稼いできたところだが」
「いいえ、先生は私からは束脩は取らないとおっしゃいました」
「ほう、今時、珍しい出来た先生じゃないか」
「ただ、陽都名物が見てみたい。父上に会わせろと。鵬の舞をご所望だそうです」
「なんだとぉ。クソ生意気な野郎だ」
いきなり不機嫌になるタケトに、クロがとりなす。
「いいじゃないですか、親分。坊ちゃんのためですぜ、いつもやってることじゃありませんか」
「馬鹿野郎。俺の念剣は、俺の気分でやってるんだ。他人様にやれと言われて、へいへいとやる安っぽい見世物じゃねぇ」
「そんなこと言って、野次馬連中からやってくれと言われりゃ断らないくせに」
「そりゃ、あれは銭を入れてくれた皆の衆への恩返しってことじゃねぇか」
「銭を払ってるからやるってんなら、やっぱり見世物でしょうが」
「なにぉ、クロ、てめぇ、表に出ろ」
言葉で押されたタケトがつかみかかろうとするところに、ユウトが割って入った。
「父上ッ」
いきなり手をつき、頭を床につけて平伏する。
「お願いです。私はどうしてもシュンセイ先生の下で学びたいのです。どうか、シュンセイ先生に会ってください」
「ん、そりゃ、まぁ、おまえにそうまで言われりゃ、行かないこともねぇが…」
言いながらもまだ不服そうに口をへの字に曲げていたタケトだったが、不意に何か思いついたらしく、にやりと人の悪そうな笑みが浮かんだ。
「ふむ、なら久々に親子鵬をやるか。それなら、いいぞ」
「えっ」
今度はユウトが絶句する。
「そんな。私は…、だって、父上の念剣を見たいと、先生は…」
「だから俺もやってやる。だいたいシュンセイって野郎のところに弟子入りするのは、俺じゃなくておまえだ。そのおまえが何もせずに、俺だけが汗かくんじゃ、おまえも寝覚めが悪いだろう。どうする。いやなら、止めても構わないぜ」
タケトがふんぞり返る。こうなると、自分の意思が通らなければてこでも動かない。頼みの母はと見ると、もっともだという顔で頷いている。
「わ、わかりました。やります。やりますから、父上、どうぞ」
「よぉし、わかった。任せとけ」
「良かったわね、ユウト。あなたの床に頭をつけての懇願は、とても感心しました。礼法にも、真率なる思いを形に表せば礼に通じる、と言いますからね。久々の親子鵬、わたしも是非、拝見させていただきます」
「母上まで」
「おいおい、リンカ」
今度は親子そろって慌てるが、リンカはすまし顔で、
「えぇ。ユウトがお世話になるのですから、私もご挨拶ぐらいはしておきたいと存じます。それに、皆の衆には披露なさっているのかもしれませんけど、私は長らくあなたの念剣を見せて頂いていませんもの。妻としてたまには拝見させて頂いても宜しいでしょ」
と言う。
「はい、奥様の勝ち」
と嬉しそうにクロが審判を下して、父子は苦い顔を見合せた。
「仕方ねぇ。じゃ、行くか」
「行くかって、父上、今からですか」
「おうさ、善は急げ、夜討ち朝駆けは兵法のならい、ってな」
「そんな、何が兵法ですか」
「あなた、お召し物は替えてくださいね。私も着替えて参りますから」
「母上まで」
「さ、ユウトも着替えてくださいな。あまり遅くなるといけませんよ」
言いながらリンカはもう立ち上がって、奥の間に消えている。
「おい、クロ。その貴智塾とかいうのが何処か、分かってるか」
「当たり前でさ」
「じゃ、ひとっ走り行ってきて、鵬がまかり越すと伝えてくれ」
「分かりやした」
どうして我が家はいつもこうなのだろう、とユウトは頭を振った。世間の常識や手順など、この家の人々にはまるで通じないのだ。
親子三人が打ち揃って「貴智塾」の看板を掲げた門前に立ったのは、そろそろ日が沈みかける頃。
「儲けてやがるなぁ。お役目につくより学問の方が入りは良さそうだ」
とタケトがため息交じりに漏らすほど立派な屋敷から、
「いやぁ、お待ちしてました。むさくるしいところですが、どうぞ中にお入り下さい」
と気さくに出迎えた男が、シュンセイ先生その人であった。目も顔もほっそりしていて、体も筋肉とは無縁な学者らしい線の細さだが、目の奥の光は鋭く、どことなく悪戯っ気も含んでいる。衣服には構わない性質らしく、ぞろりとした部屋着のままだった。
「急に伺いまして、誠に申しわけありません」
ユウトが深々と頭を下げる。
「いやいや、今日中にいらっしゃるだろうとは、思ってましたから」
「えっ、どうしてそんなことが」
「そりゃ鵬の親分ことタケト様のご子息自慢は有名ですからな。ユウト殿の願いを無下に断る筈は無い。で、タケト様は陽都に名高い兵法家。となれば、夜討ち朝駆けは兵法のならい、でしょう」
「ほほう。でっかい屋敷を構えてるだけあって、話の分かりのいい先生じゃねぇか」
とタケトが笑う。ユウトの方は言葉がない。
「いやいや、屋敷といっても、広いばかりで中身はすかすかで、人に踏み荒らされてかなりいたんでいます。何せ塾舎を兼ねておりますからな。大層なものではありません」
「いいえ、本当にご立派になられて」
「リンカ殿はお変わりなく、麗しくいらっしゃる」
「いえいえ、私はもうすっかり年寄りで、お恥ずかしいかぎりです」
「母上、母上は先生をご存知なのですか」
どうして自分は、先生の前でこんなに驚き続けていなければならないのか、とユウトは声を出してしまってから密かに憤慨する。
「リンカ殿とは同じ町内で生まれ育ちましたからな。年はあたしの方が少々上ですが、礼町小町で名高いリンカ殿を知らないはずはありません」
「シュンセイ様も智貴家に養子に出られる前から、開都以来の英才と謳われていらっしゃいましたから、私もよく存じ上げていますわ」
「母上、どうして、それを今まで隠していらっしゃったのです」
とユウトが問い詰める。
「隠してなどいませんよ。わざわざ口に出すことでもないでしょう。シュンセイ先生は親が顔見知りだからと言って、入塾を許してくださるような方ではないでしょうし」
「そういうことです。さ、お入り下さい」
通された広間で向き合って座ると、リンカは手を付いて深々とお辞儀をした。
「この度は、息子がお世話になります。懸命に勤めさせますので、何卒、ご指導のほど、宜しく申し上げます」
ユウトも手をつきながら心配になって横目で見ると、驚いたことにタケトまでもが、頭を床にこすりつけるようにしている。鵬の親分が平身低頭するところなど、見たことのある者はあまりいないだろう。この頭が自分のために下げられているのだと思うと、少し胸が熱くなるのを感じる。
「ご丁寧な挨拶、いたみいります」
「これは些少ではありますが」
とリンカが袱紗を差し出しかけるのを、
「それはご遠慮させていただきましょう」
とシュンセイが止めた。
「あたしも学問で口に糊をしておりますから、時に教えたくもない阿呆どもの世話をしたり、話の分からない愚か者相手に講義せねばならないことがあります。そういう折には、頂くものは頂けるだけ頂戴するのがあたしの流儀です。そのかわりこれと見込んだ若い人に学んでいただくぶんには、一切、お礼は申し受けません。真摯な学問への取り組みだけが、あたしの求めるもの。それがあたしの学問を深めても広めてもくれるのですから。ただし、」
シュンセイは言葉を切って、鋭い目でユウトを見詰めた。
「あたしも一通りの世渡りは心得ておりますけど、自分の学問を曲げてまで、金を儲けたり権力に擦り寄ったりは致しません。学問上のこと、学問の中で知りえた真実に関しては、内政局大政局の意向に沿わないものであっても、曲げることはしてこなかったし、しないつもりです。事実、あたしのことを煙たいと思っている者は、大政局あたりに少なくない。あたしの下で学ぶことが立身出世に繋がるとは限らないこと、それどころか当局に睨まれたり、他人様から狙われたりするかもしれないこと。このことは、ユウト殿も、ご両親もようく覚悟して頂きたい。その上で、尚、あたしの下で学びますか。大事なご子息をお預け頂けますか」
ユウトはシュンセイの視線を正面から受け止め、頬を喜びに染めて大きく頷いた。
「覚悟の上です。私にも立身出世の望みはありますが、それは正しい知識を活かし、己の力で正しい世を作る機会を得るため、と心得ています。それを曲げての立身出世などもとより望みません」
横でいつの間にかいつものようにふんぞり返っていたタケトがにやりと笑った。
「青臭いことを言ってるようですが、まぁ、今のところこいつは本気です。俺は学問はよく分からないんだが、せがれは出来が違う。こいつが見込んだ先生なら俺も信じるしかありますまい。ついでを言えば、刀剣の扱いはそれなりに仕込んでありますから、下手な用心棒よりはお役に立つと思いますぜ」
リンカはただもう一度頭を下げて、
「宜しくお願いします」
とのみ言った。
シュンセイは楽しげにうん、うん、と二回頷いた。
「分かりました。用心棒はともかく、ユウト殿はただ今より貴智塾の塾生であり、あたしの学友です。共に磨き学びましょう」