第四十話
その足音を私が聞き間違える事など無く、また聞き逃す事もあり得ない。
少女時代、その足音が聞こえる度に背筋を凍らせていた物だ。何せ私はあの爺のせいで、自分の母親の事を厳しい人などと評価した事はない。爺の方が百倍厳しかったからだ。
「またせたな」
閑古鳥が鳴いている喫茶店へと呼び出された、私の師であり劇団真祖の創立者でもある老人。しかし何故か劇団から追い出された。追い出したのは私の母らしいが、そのあたりの事情は別に気にしない……と言えば嘘になるが、まあ今回の事とは関係ない。
「マスター、コーヒー。あと甘いのも適当にくれや」
「そんな適当な注文される側にもなってみなさいよ。ちゃんと甘い物の内容を言わないと」
「俺とマスターはそんな余計な会話はいらねえんだよ」
あんた、そこまでこの店に通ってたのか? まあ、この店を指定してきたのはこの爺さんだ。私もこの店は好きだが、私とこの爺さんの感性が似てるとか言われたら少しショックだ。
「で、話があるって? 例のオーディション落ちたからって愚痴でも聞かせてくれるのか」
「全く関係ないわけじゃないけど、それとは別件よ。単刀直入に言うわ。私は今劇団作る為にあちこちから人材を集めてる。だから……貴方の劇団、貴方ごと私のところに来て」
こんな言い方されて首を縦に振るような爺さんではない、それは分かっている。
ある意味、この話をするのは義理というか儀式というか……そう、通過儀礼だ。
「……煙草、吸っていいか」
「駄目です」
「吸います」
「オイコラ」
分煙って言葉知ってるか? と問いただしたい私の前で容赦なく煙草を吸い出す爺。副流煙には吸う本人よりも有害なタールが……
「……これが最後の一本だ、って思いながらいつも吸ってる。でもやめられねえ」
「体は労ってほしいわ。貴方には長生きしてもらわないと」
私に煙を当てないようにと、横へ煙を吐く爺。そんな事をしても無駄だ、煙は私の方へ既に来ている。
「で、劇団作ってるって? なんでまた」
「アス重工からありがたいお誘いを受けて。大企業のありえない後ろ盾があるんだもの。予算も潤沢よ」
「……アス重工……あいつも関わってるのか?」
あいつ……あいつって誰だ。
「……誰の事?」
「轟だ」
私は首を横に振る。確かにオーディションには居たが、私の劇団創立には関係ない。なにかと首は突っ込んできそうだが。
「気を付けろよ。あいつは使えるもんは全部使おうとするからな。お前にも既に目付けてんだろ」
「そんな事より、返事聞かせて。私の作る劇団に協力してくれる? 貴方が座長になって、また……」
「無理だ。今更、新しい劇団やっていこうなんて気力ねえよ。今の劇団もそろそろ畳もうと思ってたんだ」
他人が歳を取ったと、ここまで実感したのは初めてだ。昔の、あの頃の爺なら……ふざけるな、俺の劇団を奪う気か、って言ってくれただろうに。なんで私が少し寂しい気持ちになるんだ。この爺は厳しくないと駄目だと、私の中の誰かが言っているようだ。
「宗吾さんは……まだ諦めて無いわよ」
「あいつの肩の荷も降ろしてやりてえ。お前、劇団作るなら全部もってけ。その方が俺も気楽に……」
「……なんでそんな事言うのよ」
てっきり断られるかと思っていた。自分の劇団を明け渡すなんて、思ってもみなかった。
なんでだ、良い話じゃないか。頭の固い爺から劇団をまるっと貰えるなら。
……いや、この状況……もしかして……
「劇団真祖の時も……そうやってお母さんに全部明け渡したの? 貴方、奪われたって言ってたじゃない」
「あぁ、奪われたよ。奪われて追い出された。言い訳の余地も無かったからな」
「何したのよ。もしかしてお母さんのスカート捲ったとか……」
「なんだお前、喧嘩売りに来たのか」
違う違う、可愛い冗談でござる。
「……薬だよ」
「薬……?」
「覚醒剤だ。団員が手を出したんだ」
また……その単語を聞く事になろうとは。
凜ちゃんがアス重工を追い出された理由。本人は決して手は出していない。実際、凜ちゃんからは何の反応も出なかったし、証拠は一切ない。売人が勝手に凜ちゃんの名前を出しただけだ。しかしそれだけでも業界から追い出された。
「なんで……」
「俺が厳しすぎたからだ。連日連夜、そいつには期待を込めて厳しくした。だが結果は……」
「その責任を負わされたってこと? 私のお母さんに……」
「お前の母親もむしろ被害者側かもな。他の団員に頭の役目を押し付けられて……俺を追い出すに至ったわけだし」
その他の団員の中に、あの男……轟も居た筈だ。
あいつはどう思っているのだろうか。
「それで、追い出されて今の劇団作って……やってきたんでしょ。そんな思いまでして作った劇団、簡単に明け渡していいの?」
「お前、どうしたいんだよ。元々の目的は俺の劇団だったんだろうが」
「そうよ。でも拍子抜けしてるのよ、昔の覇気は何処行ったのよ」
「自分の事は自分で分かってるよ。俺には才能が無え」
「私や宗吾さん育てといて何言ってんのよ!」
思わず声をあげてしまう。閑古鳥が鳴いている喫茶店の中で、その声は一際大きく響いた。しかしマスターは、何事も無かったかのようにコーヒーと爺が注文した甘い物を持ってきてくれる。
「お、これこれ、これが食いたかったんだ」
それはモンブランのケーキ。いかにもこの人が好きそうな物だ。私もモンブランは大好きだ。だから気に喰わない。私とこの人は似ている。そして私は自分には才能があると思っている。それはこの人が育ててくれたからだ。
「……私は貴方が欲しいのよ。確かに貴方は厳しかったけど、それで薬に手出すような人、今の劇団には居なかったでしょ?」
「お前が居たからな。お前には誰よりも厳しくしたよ。あの宗吾よりも、劇団真祖で薬に手を出した奴よりも、誰よりもだ」
「だったら、もっと私を量産しなさいよ」
「無茶言うな」
失言だとは思っていない。あの地獄のような日々があって、今の私が居ると確信している。何もかもこの人から教わった。
「……今、残ってる団員は何人くらい居るの?」
「七人だ」
「な……なんでそんな少なくなってるのよ、私が居た頃は……っていうか、つい最近まで……」
「だから潮時なのさ。お前から話があるって聞いてなんとなく予想はしてたからな。だから重い腰あげてここまで来たんだ」
私の考えている事などお見通しだと?
嘘だ、私が劇団を作るなんて、何の脈絡も無かった筈だ。誰かから聞いた? でも誰から? まさか……
「宗吾さん……? 宗吾さんから、予め相談されてたのね」
「お前は何処か抜けてるくせに、妙な所で鋭いな」
「なんで反発しないのよ、貴方が作った劇団なのよ、何度も言うけど……こんな簡単に……」
「簡単じゃねえよ。お前以外からこんな話されたら、鼻潰れるまで殴ってるわ」
ならそうしてほしい、と思ってしまうのは私がドMだからだろうか。
違う、そうじゃない。私は心の隅でこうなる事も予想していた筈だ。でもそうなってほしくはないと否定していた。なんだったら頭から拒否される事を期待していた。
私は結局、この老人が衰えた姿など、見たく無かっただけだ。
そう思えば思う程、目の前のこの人にとっては残酷な事なのかもしれない。
「……貴方の劇団、貰うわ。貴方が人生をかけて作り上げた物、全部、私が貰う」
「ああ」
「話はそれだけよ。じゃあ……バイバイ」
「ああ」
去り際、お会計を済ませる私へと、マスターは黙って猫ちゃん型のティッシュボックスを差し出してくれた。顔がボロボロだったから。
もう、あの足音を聞く事は無いだろう。
背筋を震わせながら聞いた足音。ひたすら厳しい老人は……いつのまにか私の心の支えになっていた。




