第三話
轟少年と、近くの喫茶店へと入り、二人で同じアイスコーヒーをマスターへと注文。
アイドルを喫茶店に連れ込んだら、客が騒ぎだすのでは? という懸念もあったが、この喫茶店ならば問題ない。老夫婦が経営するここは、言っちゃなんだがいつでも閑古鳥が鳴いている。
「あの、突然申し訳ないんですが、なんてお呼びしたらいいでしょうか」
席につくなり、そう尋ねてくる轟少年。本当に突然だな。
「別に漆原でいいわよ」
ちなみにそれは私の苗字だ。
「漆原さん……。なんだか、失礼ですかね、さん付けなんて」
「別に君付けでもいいけど」
どこぞの少年アイドル達は、先輩の事も君付けで呼ぶよう教育されているとか、いないとか。
流石に五十過ぎの先輩を、十代の後輩が君付けするのはいささか無理があると、この前バラエティー番組でトークしていたのを思い出す。
「君付けなんて……。あの、その……失礼でなかったら、お名前で呼んでもいいでしょうか」
この子は人を苗字で呼ぶ事に抵抗があるのだろうか。
それは一体どんな考えなのか。なんだか妙に気になった。普通、そこまで親しくない人間に「失礼でなかったら」とまで言って名前で呼びたがるだろうか。
「別にいいけど……。轟君は苗字で呼ばれるのは嫌い?」
私は、轟君自身が苗字で呼ばれたくない、だから他人も嫌な筈だ、と思っているに一票を投じる。しかし轟君は首を振りながらそれを否定する。
「僕は別に構いません。でも紗弥……さんが、嫌なんじゃないかって」
「どうしてそう思うの……?」
「それは……」
そこでマスターが私達が注文したアイスコーヒーを持ってきてくれた。愛想のいいお爺ちゃんマスターは、見覚えのある轟君に驚きつつも、あっさり帰っていく。クールだ。あのお爺ちゃんマスター、もう少し若ければ惚れてしまうやんけ。そのくらいの雰囲気がある。
私と轟君はアイスコーヒーを一口飲みつつ、先程の話の続きを。
「それで、パンダがキリンに乗るのは無理があると思うわ」
「ごめんなさい、そんな話はしてないと思います」
轟君が笑顔に。こんなくだらないジョークで笑ってくれる男子高校生、なかなか居ないだろう。本当に良い子なんだと思ってしまう。
「えっと、紗弥さんが苗字で呼ばれる事が……嫌なんじゃないかって話ですけど」
「ふむ、聞こうか」
「紗弥さんのお母様が凄く有名だから……重ねて見られるのが嫌なんじゃないかって……」
ああー、そういう事か。
私は全然OKだが。別に母親と比べられようが、重ねられようが、融合されようが一向に構わない。
「まるでドラマね。私は別に母親と不仲ってわけじゃないけど」
「いえ、そういうんじゃなくてですね……。やっぱり大女優と比べられるのは役者として……」
「私、もう役者辞めたし」
コーヒーを少しずつ喉に通しながら答えると、彼がなんだか泣きそうな顔になってるのに気が付いた。なんだなんだ、どうした。
「どうして……辞めちゃうんですか?」
どうして。それは赤の他人に話すような理由じゃない。
でも彼にとっては、轟少年にとっては無関係でもない。
「轟君、さっき泣いちゃった事は説明できそう?」
「え? いや、全然……僕も分からないんです。なんであそこで急に……」
「安心したからじゃない? こっちが現実だって分かって」
轟少年は驚いたように……私を見てくる。
そうだ、その通りだ、と言いたげに、納得したようにコクコク頷いた。
「そうだったんだ、僕……私は安心したんだ」
「君に教えたメソッド演技……本当は言葉だけで教えても出来る筈もないんだけど、轟君には合ってたみたい。でもこれは決していいことばかりじゃないって事は覚えておいて」
轟少年は真剣な顔で聞いてくれる。きっと彼はもう分かっている。敢えて言う必要も無いかもしれないが。
「マリリン・モンローって知ってるよね。ハリウッド女優」
「はい、勿論……」
「彼女は、子供の頃に芝居を独学で覚えたの。孤児院に居た時、いい子を演じる為に。もう彼女にとって芝居することは日常だったのよ」
色々とスキャンダルが報じられたモンローだが、今の子はあのスカートがブワーってなる映像を見た事あるんだろうか。いや、十九の私が今の子は……なんていうのもおかしな話だが。
「そんな彼女は、ハリウッドでは薬を飲みながら芝居してたの。精神安定剤的な。あと睡眠薬とか。そして最後には……致死量の薬を飲んで自殺してる……って言われてる」
「精神的に追い詰められていたって事ですか? 自分の芝居に……」
「真相は分からないわ。でも普通の人でも、ままある事よ。朝起きた直後とか、今まで見てた夢は本当に夢? って一瞬悩んだりしない? 本当に一瞬だけど」
「確かに……」
「メソッド演技は、言うなれば自分の現実にそれを進んで取り入れる方法よ。体験した事は勿論のこと、自分の妄想すら持ちだす人もいる。自分を狙う殺人鬼がそのあたりに居るって、もし被害妄想の激しい人に擦り込んだら、言うまでもなくヤバいでしょ? でも役者は自分から進んでそれをやる。そして轟君にはそれが人より出来てしまう」
今更ながらに私は自分がした事に背筋を震わせた。
この子にだけは、勧めていい物では無かった。幽霊なんてやるんじゃなかった。
でもこの子はもう知ってしまった。これからは無意識に入り込む事になるだろう。あの深海の舞台に。その舞台に誰が立っているのかは分からないが、容赦なくその人物は轟少年を引き釣り込んでいく。良いか悪いかは分からない。
轟少年の顔が緊張は、心底震えながら私の話を聞いていた。身に覚えがあり過ぎるからだろう。きっと私の母も、今の私と同じ心境だったに違いない。
「どうすれば……いいんですか?」
「……わかんない」
「え、ちょ」
「分からないから、私も役者辞めたの。これは私が選んだ事よ。君はどうする? 続ける? 別にここで辞めるって言うなら、宗吾さんがなんとかしてくれるわ」
宗吾さんなら監督を説得できるだろう。幸い、まだドラマの撮影は始まっていない。でも今の時点で既に多額のお金が動いている事は事実だし、業界に迷惑はかかる。彼はプロだ、怖くなったからと言っても、それが辞めて良い理由にはならない。たとえ母親が死んでも、葬式よりも舞台を優先させるのが役者なのだから。
「宗吾さん……あの方は確か、紗弥さんの兄弟子って……」
「うん」
「さっき、僕はあの人を見て……何故か泣いて……戻ってこれて」
私も宗吾さんが居なければ、とっくに別の世界の住人になっていたかもしれない。そんな自分に危機感を憶えつつも、舞台から降りるまで数年かかった。だから今の轟少年の気持ちは痛い程分かる。
「……僕は……私は」
轟少年の目に火が宿っていると思ってしまった。彼は真剣だ。そして真面目過ぎる。さらに賢い。もう最悪の組み合わせだと言わざると得ない。
「続けます。今は何をどうすればいいのか、理解出来てませんが……続けます」
「……そう。じゃあ一個だけアドバイス。大好きな物を常に身に着けるのよ。私はこれ」
いいつつ鞄についているキーホルダー見せる私。
「……パンダ?」
「そう、パンダ」
それは宗吾さんに買ってもらった、私の思い出の品。
それが私の命綱だ。