第十六話
大学病院の病室で、燈子と唯はタブレットで舞台を眺めていた。
双方ともに言葉を失う。唯は紗弥の演技の完成度に。そして燈子は、紗弥の芝居は元より、観客の中に居る筈の無い人物が映っていたからだ。
「……すごいですね、紗弥さん……こんな短期間で、あんなに……」
「そうね」
どこか空返事の燈子の反応に、唯は様子を伺う。タブレットから目を離し、どこか虚ろな目。
ありえない、ありえないのだ。その人物がそこに居る筈が無い。
「……? 燈子さん? どうしたんですか?」
「何でもないわ、ちょっとごめんなさい、お手洗い」
「え、でも、今始まったばかり……」
燈子は心ここにあらずと席を立ち、病室から出て行ってしまう。
そして手洗いには向かわず、廊下の窓を薄く開けて外の空気を肺へと取り入れる。
「なんで……あんたがそこにいるのよ……」
いる筈の無い人物。そこに居てはいけない人物。
「なんで……律樹……」
その人物は二十年前に事故死した人物。
つまり、紗弥の父であり、燈子の夫が観客として、そこにいた。
※
舞台の上では、芽衣子と要のやりとりが続いていた。
要演じる男子高校生は、芽衣子演じるヒロインの病を知る。その上で、男子高校生は決意する。ヒロインを幸せにすること、それが自分に出来る事だと。
その様子を、袖から紗弥は眺めながらミネラルウォーターを一気飲みしていた。熱が入りすぎて、喉を酷使してしまった。裏方からテンポが速い、との警告が来たのにも関わらず、紗弥は止める事が出来なかった。
「大丈夫?」
そんな紗弥へとウサミミメイドが話しかけてきた。ウサミミメイドは、今は白衣を着たイケメンに変貌している。役としてはヒロインの主治医だ。
「……大丈夫。心配しないで、やりきってみせるから」
言いつつ、続いてミネラルウォーターを二本目。何故そんなにガブ飲みするのかと、心配そうな目でウサミミメイドは紗弥を見つめている。そしてそっと、水を飲み続ける紗弥を止めるように、その手を抑えた。
「飲み過ぎ。吐いちゃうよ」
「……ごめん。でも、やり切ってみせるから……」
「そんなに焦る事無いよ、見てごらん」
ウサミミメイドは、今ステージ上で芝居を続ける芽衣子と要へと視線を向ける。そして紗弥も同じように。今、二人は再び自殺を試みたヒロインを、男子高校生が止める場面。そしてその後、結婚を申し込む。
「稽古の時とは、二人とも全然違うでしょ。本番に強いタイプなんてずるいよね」
「そんなタイプ無いわ。一重に稽古の成果よ」
そして自分には、その稽古事態が無い。紗弥の焦りは増すばかり。だがウサミミメイドは首を振り
「君、舞台は地獄だって思った事無い?」
「無いわ……いや、ごめん嘘……ちょっとはあるかも……」
「ここの座長もさ、一つ前の人は凄く厳しかったんだ。だからコロナ以前に、きつくて辞めちゃった人が大半なんだよね」
そうだったのか、と紗弥は目を丸くする。
「俺も滅茶苦茶怒鳴られたよ。背負い投げ、払い腰、体落し、内股とか掛けられて……」
「柔道の道場にでも通ってたの?」
「でも一緒に飲みに行くと、滅茶苦茶楽しいんだ。稽古も厳しかったけど楽しかったよ。でも皆が皆、そうじゃない。だんだんと人が減っていって……。その人も今の団長に引き継いで、今は北海道だって」
その厳しい稽古を乗り越えた。それが今の、劇団真祖のメンバーを支えている。
似たような経験は紗弥にもあった。幼少の頃から、幾度となく在籍していた座長に叱られた。何度も何度も同じ事を繰り返され、何度も辞めようと思った。
「君、この舞台の稽古はしてなくても、役者としてはそれなりにキャリア積んで来たでしょ。だから大丈夫だよ。舞台には一本の釣り橋で出来てるんだ。どんな舞台も、その橋を丈夫に補強すれば、皆で渡れる」
「誰かが……足を踏み外してしまうかもしれないわ」
「そうなったら、誰かが助ける。そして僕らは全員、趣味が悪い事に、誰かが足を踏み外すのを待ってるんだ。助けたくて仕方ないからね」
「とても素敵な関係だと思うわ」
もうじきラストシーンがやってくる。
紗弥は再び集中する。ウサミミメイドのおかげで、肩が力が抜けた気がする。
そして、本当に久しぶりに紗弥は深海の舞台へと自ら立つ。今までは、この舞台に立つ人物を鑑賞するだけだった。それで自分も一緒に演じている気になっていた。
紗弥にとって、これが初舞台と言えるのかもしれない。
その深海の舞台で、初めて紗弥は自分で芝居を演じるのだ。観客は……ただ一人。
※
お手洗いから帰ってきた燈子と、唯はタブレットを見続ける。要と芽衣子の芝居を見て、唯はいつのまにか心が躍るようだった。コメディとシリアス、両方を掛け合わせた舞台。容赦なく観客の心は揺さぶられ、ラストシーンでとどめを刺しに来る。
「……もうすぐラストね」
燈子の言葉で、唯は頷きつつ、ゆっくりと手を差し出した。その手を取る燈子。
「……私、謝らないと……一杯、みんなに……」
「そうね。でも……謝るのは私の方かもしれないわ」
「……?」
タブレットの画面の端。照明と共に紗弥が姿を現した。
ここからラストへと、姉の葛藤のシーンと共に芝居は一気に進む。
そしてタブレット越しに見る二人は知る由もない事だが、紗弥の登場は実は少し早い。
まだ要と芽衣子がステージ上に居る。本当は、二人が去ってから一拍置いての登場だった。
だがその堂々たる登場に、芽衣子も要も、そして椚の面々も、そのメッセージを受け取った。
『あんた達なら、どうにか出来るでしょ』
まるでそう言われているようだった。
椚の面々は急ぎ、次の場面を想定して慌ただしく動き出す。しかし誰もが嬉々としていた。こういうのを待っていたと言わんばかりに。紗弥へと合図を送る係の女性は、観客席の後ろから小さなLEDで、予め決められた合図を。
『まかせろ』
紗弥はそのメッセージを受け取り、全力で潜る。かつて潜った事のない所まで。
一滴の雫が森を誕生させるように。
その紗弥の芝居は、仲間達へと浸透していく。
まるでそこに居る全員、そことは違う舞台へと招待するように。
深く、深く、光の届かない所まで。




