第十五話
一滴、一滴、心から何かが零れ落ちていく。
心という物が実在するのか否か。所詮は幻想かもしれない。今抱いているこの感情も、ただの夢のような物なのかもしれない。
しかしそうであったとしても、私は人間であることを後悔しない。この感情に押しつぶされそうになっても、どんなに苦しくても悲しくても、私は貴方から貰った楽しい思い出の方が多いから。
さあ、神様を笑いに行こう。
神様に幸せになるなと言われた私達は、最高に幸せだったと、ざまあみろと笑いに行こう。
※
劇団真祖の最後の舞台。紗弥達は舞台の袖で集中している。それでも、客席へと集う人間の気配は雑念のように入り込んでくる。流石は歴史ある劇団だ、と紗弥は舐めていた事を悔やんだ。団員数が少なく、裏方すら派遣を頼ざるを得ない状況。このまま世の中から静かに存在を忘れられていくのだろう、そう思っていた。
無駄に整った設備、無駄に多い客席、しかし今、そのすべてをフル活用している。客席は最大二千人を収容できる劇場だが、感染対策も兼ねて現在はその三分の一程度程。しかしそれでも約七百人の観客が、この劇団真祖の舞台を見に来ていた。裏方派遣会社、椚の社長も制御室から嬉しい溜息が出る。
「ンフフフフ、まだこんなに人が集まるんだねぇ……よく見たらエラい人もいるじゃない。稼ぎ時だよ、派手に行こう」
惜しいと感じる。これをもっと早くにやっていれば、この劇団の未来も変わったかもしれない。具体的にはコロナが流行る前に。そうすれば、もっとまともな集客も出来ただろう。彼らの実力ならば、良い仕事にもありつけただろう。
「ンフフフフ……さて、お手並み拝見だ。未来の大女優さん」
だがそんな嘆きは無意味だと、椚の社長は切り捨てる。今ある現実以外に、人間に生きる場所は無いのだからと。それ以外に生きる事を許されたのは役者だけだ。
客席が埋まった事を無線で確認し合い、椚の社員達は各々持ち場へと。そして劇場の照明を、ゆっくり落としていく。静かに幕を上げ、ステージ上に一人立ち尽くす、その人物に照明が当てられる。
この物語「ほころぶ、春」のもう一人の主人公。それはヒロインの姉である光。紗弥が演じる役だ。妹が不治の病に侵され、その現実から一端は逃げ、また向き合いつつも、どこか目を逸らしている。そんな人物象。
そして椚の面々は、ステージ上の紗弥を見て冷や汗を垂らしていた。ミスはフォローする、そう言い放ったのにも関わらず、震えが止まらない。
あれは……一体誰なんだ、いや、なんなんだ。
※
ステージ上の隅で俯くように立ち尽くす、その女性は光。スーツに身を包み、ゆっくりと顔をあげる。そして今にも倒れそうな、支えを必要とするような足取りで、中央へと歩いていく。
『……私の妹、花音は小さい頃に病に侵された。未知の病。夜桜が綺麗な祭りの終わり、突然倒れる花音。私と母は花音を抱き上げて呼びかけた……! でも何の反応も示さない……。冷たい、体が冷たい……息もしていない。人形のようになってしまった花音……』
「……客の表情を映せ、今、今だ……あの呆けてる顔を東側からなめろ」
椚の社長は芝居が始まった途端、役者よりも観客にカメラを向けろと命じる。明確な理由があるわけではない。ただ単に自分が見たかっただけかもしれない。しかし今はこうする事が正しいと感じた。今ステージ上にいるモノを見て、客がどんな反応をしているのか、それを見せつけた方が分かりやすい、そう考えたのかもしれない。
『幸い、花音は命を取り留めた。でも投薬治療が始まった。幼い花音の表情が苦痛に歪む、色々な病院をたらい回しにされて、原因も分からない病を治すために、いいえ、治るかどうか分からないのに……あの子は投薬治療に耐え続ける。私はそんな花音を見ていられなくて……逃げてしまった。まだ幼い花音を置いて、自分だけ地方の大学に入って警察官になった』
「三番照明落せ、五番準備。代役のお嬢さんに合図送れ、テンポちょっと速い」
ステージが一瞬暗くなる。そして再び照明が着いた時、ステージの上には新たな登場人物。それは花音。
『お姉ちゃん……どうして私を置いて行ったの……? どうして一緒に居てくれないの?』
『……ごめん、ごめんなさい……私は花音が苦しむ所なんて……見たくなかった。花音から目を逸らして……自分の心を守った。でも、私は……』
場面が切り替わる。そこからは要が主体のコメディの連続。しばらく紗弥の出番はない。
高校生に成長した花音と、要演じる主人公の和気あいあいとした明るいコメディ。冒頭の紗弥の語りとはうって変わって、見ている舞台が突然違う物になったのでは? と感じる程。だがこの違和感は、本編の映画でも観客が感じた事。最後にヒロインが死ぬ事は分かり切っている。だが、一筋の希望が。
こんなコメディコメディしているのだから、ヒロインは助かるのでは?
しかしそんな観客を打ち砕くように、再び紗弥演じるヒロインの姉が登場する。
雷鳴のように、圧倒的な存在感。今までのコメディを一刀両断するように。観客のヘイトをかき集めるように、悪役だと植え付ける。
椚の面々は、そんな紗弥を見て某サメ映画のBGMでも流した方がいいのでは……と感じていた。和気あいあいと海で遊ぶカップルを襲うモンスター、まさにそれだ。しかし観客席に座る宗吾は、全く別の事を考えていた。
※
宗吾は客席から妹弟子の芝居を見守る。最初から背筋が凍りそうな芝居。だが不思議な事に危機感は感じない。これは矛盾していると感じつつ、その原因がカメラにある事を宗吾は気づいた。
舞台にカメラは基本的に無い。だが今回はネットで配信する為、ドローンと、スタッフの手持ちのカメラで撮影がされていた。最初、ステージ上を向いていたスタッフのカメラが、観客の方へと振り向いた。
紗弥は普段、カメラなど意識しない。だが今回ばかりは嫌でも目に入るだろう。何故なら紗弥の目的は病室で見ている長谷川に、自分の芝居を見せるためなのだから。
突然、客席へと向けられたカメラに紗弥は違和感を覚えた筈だ。何故自分を映さない、と。宗吾はそれは裏方の人間の配慮だと感じた。紗弥の「潜る」という演技をカメラを使って制御しているのだ。
それが本当に紗弥に対する配慮なのかは分からない。だが宗吾は安心感、そして感謝の感情しか浮かんでこない。紗弥は未だ未成熟な役者であり人間。今回のような使命を帯びた場では、自分がなんとかしなくてはと必要以上に潜るだろう。だが、それを制御し支える面々が居ると確認出来ただけでも安心した。
その一方で、宗吾は嫉妬に似た感情も憶える。
あの場に立てていない自分が憎らしい。紗弥は可愛い妹弟子であると同時にライバルだ。先日の紗弥に対する別の感情を掻き消す勢いで、宗吾は役者としてその舞台を見つめる。
気になるのは舞台のラストシーン。
妹が亡くなり旅立つ時、紗弥演じるヒロインの姉は、泣き崩れる所で終わる。
そこでもし戻ってこれなかったら。
今度は紗弥が長谷川のように飛ぶだろう。
だが、たとえそうなったとしても……決して一人では飛ばせない。
宗吾は固く決意する。紗弥は可愛い妹弟子なのだから。




