第59話 シオンの到着と家族だけの演奏会
弟テオドールはお母様の隣に用意された揺りかごですやすやと眠っている。起きたり泣いたりする時は大体、空腹であるとかオムツを交換して欲しい時で、それ以外はとても大人しい。
そんな私はあまりにテオが可愛すぎて、何度も一階に降りては両親の部屋へ赴いている状態だ。
「まぁリリアナ。今日は一体何度目かしら?」
今は隣家のカールトン夫妻が出産祝いに来室している所で、偶然を装った私がこっそり部屋を覗いていたらお母様にあっさりバレてしまった。
「あ、その……私は」
「こんにちは、リリアナちゃん。そんな所にいないで、さあこっちへいらっしゃいな」
カールトンおば様が助け船を出すように私を呼んでくれ、すぐに部屋にお邪魔する。室内はあちらこちらで笑い声が飛び交い、お母様の周りは賑やかで明るい雰囲気に包まれていた。おば様がテオを抱っこしている。
「テオ君は本当に愛らしいわね。ふふ、リリアナちゃんも昔はこんな時期があったのよ?」
テオの頬や手は小さくぷにぷにして柔らかく愛らしい。抱き方を教えて貰い、私もテオを抱っこしてみる。
「こ、こう……ですか?」
「そうそう、優しく首を支えてね。ええそう、上手よ」
始めは恐る恐るだったが段々慣れてきて、おば様の補助の手から離れ私はテオをよしよしと抱いて話しかけた。
「可愛い。本当に小さくて柔らかくて、甘いミルクの匂いが――」
「そうだな。本当に愛らしい。初めて見た。赤子とはこういうものなんだな」
「!」
今、お父様ともディア様とも違う低い声が耳を通った。びっくりして顔を上げるとそこには銀髪の青年――シオンの姿があった。
いつもの補佐官の制服ではなく、外出着である。
私はぎょっとした。
「シ、シオン? びっくりし――」
「……と、リリアナ危ない。余所見しないで」
「あっ、」
突如現れた婚約者の姿に驚いて思わず腕の力が弛みそうになったのを彼は見逃さなかった。すぐに支えてくれる。
「ご、ごめんなさい」
「まぁ、リリアナったら。でもそうしていると、あなた達まるで……」
「うふふ、新婚さんみたいねぇ」
含みある声がお母様とおば様の間で重なりあった。二人の息がぴったり合い、クスクス笑っている。
――しんこん、新……婚。えええっ!?
再来年が楽しみねぇと一瞬聞こえた。はわわと動揺した私は真っ赤になりつつ、どうにか力を抜かずテオを抱っこする。けれどそばに立つシオンは彼女達の言葉等、意にも介さず飄々とテオを支えてくれていた。
これ以上、揶揄われたくない。私はお母様にそっとテオを返した。ああそれととお母様が呟く。
「リリアナ、久しぶりに皆が揃ったのだから夕食は一緒にとりましょう。それまで時間があるからシオンさんとゆっくりしていると良いわ」
「はい」
テオは揺りかごでうとうとし出した。お母様も少し休むそうだ。シオンはおじ様と何やら話をしている。彼はこれから屋敷にある自分の部屋で荷解きをするそうで、私もそれを手伝わせてもらう事にした。
カールトン家にあるシオンの部屋はおば様がいつも掃除をしてくれていて綺麗だ。荷解きといっても彼の場合、女性と違いそこまで量はない。私と同様、お世話になっているカールトン夫妻や使用人への土産と自分用の本や書類位である。正直私が手伝う必要はない位、色々整理されていた。
「リリアナ、すぐ終わるからそこに座っていて良いよ」
荷解きをしていたシオンが私の意を読んだ様に、ソファーに座るよう促す。
「うん。……あ、でもそこの本と書類だけ机に持っていくね」
「ありがとう」
意外とずっしりした書籍類は経済や兵法など、国政に関する物ばかりだ。だがその中に数冊、推理小説が混ざっていた。これは最近流行している作家の新刊だ。
「シオンは推理小説、読んでるのね」
「ああ、先週書店で買ったんたけど、なかなか時間が取れなくて。良かったら貸そうか?」
「ううん、今はいい」
実は私も同じく買ったは良いが全く手をつけていない本があるのだ。彼とは違って主に恋愛小説だけど……。この休暇で読んでしまおう。
ソファーに座って推理小説をペラペラ流し読みしていると、荷解きが終わったシオンが横に座った。
「それはそうと驚いた。隣国のディアクロード殿下がいらしていたんだな。……君の母上の出産祝いか」
全く表情が変わっていないと思ったのだけど、実は彼はディア様を見て結構驚いていたらしい。
「私も。お屋敷に着いたら妙に皆が慌ただしくて、凄かったの」
今はすっかり落ち着いたが昨日は使用人達がそれはもうバタバタしていた。まぁ王族が来たのだから当然か。
それにしてもシオンの到着は早かった。私が王都を出発したのは昨日早朝。しかも同日彼の屋敷で顔を合わせた。あの時の彼の口振りからしてメロゥ領に来るのはもう数日かかると思っていたのだ。
「早かったのね」
「ん、まぁこれでも頑張って色々片付けたから」
軽く返しているが中央の仕事は激務だ。仕事を終えすぐ移動なら、かなり疲れているはずである。
今はまだ昼下がり。このまま夕食の時間まで過ごすならお茶でも持って来ようと思い、立ち上がった瞬間、扉を叩く音がした。
「あ……、」
扉の近くへ足を進めた私の手をシオンが掴み引き留める。やがて扉の向こうから使用人の声がした。
「失礼致します。夕食までお時間があるので皆様でお茶でもいかがですかと奥様が仰っておいでです」
「いや、今は手が離せないんだ。申し訳ないが遠慮すると伝えておいてほしい」
「かしこまりました」
やんわりした口調でシオンがお茶の誘いを断る。それを聞いた使用人は了承すると下がっていった。
断ってしまって良かったのだろうか。折角のおば様達の誘いである。
「……あの、シオン?」
問いかけると空色の瞳が私を見た。
「お茶はまた今度で良いだろう?久しぶりにこうしてリリアナと二人きりになれたのに。……邪魔されたくない」
首を傾げて言う仕草が何だか子供っぽくて思わず可愛いと思ってしまった。
「ふふっ、シオンがそんな事いうなんて珍しい」
「リリアナは?」
「え?」
気づけばシオンがさらに近づいていた。彼の大きな手が私の手に乗せられる。空色の瞳が揺れている。
「淋しく、なかった?」
「う、ん……っ」
私も同じで淋しかったと口にする前に唇が温かいもので塞がれる。そして離れたかと思うとぎゅっと抱き締められた。けれどその横顔は何だか少しむくれている。
「……先生から聞いた。昨日、町で殿下とトラブルに巻き込まれたんだって?」
「えっ、」
私はびくりと肩を揺らす。さっきシオンとおじ様が話していたのはきっとこの事。挨拶だけではなかったのだ。
おじ様は何て説明したのだろう。どちらかと云うと巻き込まれたというより自ら進んで事件に首を突っ込んだという方が正しい。ましてここはメロゥ領。王都ではない。私が見てみぬフリなど出来ない事を彼は知っていた。
一方でそんな私の行動を彼は好意的に捉えていない事もわかっている。
「拘束した者達を取り調べた結果、彼らは報酬と引き換えに『ある噂』を広めて欲しいとエルディア人の男に依頼されたそうだ。それは君が教えてくれた王都に広まりつつある噂と同様のものだ」
「昨日は殿下に町を案内していたの。そこに居合わせたのは偶然で……でもまさか辺境地まであの噂が広まっているとは思いもしなくて」
「そう、」
抱き締めたまま彼の手が私の背を撫でる。気のせいか僅かに震えているようにみえた。――私は彼をとても心配させてしまった。
「君が護衛官達を呼んでおいてくれていたから、上手く拘束する事は出来たが、もう自ら危険な場所に行くという選択はしないでほしい。それに殿下もいる、聡い君ならその意味を理解できるだろう?」
シオンの言う事はもっともだ。自分はともかくディア様の身に何かあれば、いくらお母様がいると云えど隣国とフェリシアの国際問題になりかねない。……迂闊だった。
「ごめんなさい」
「本当に。いつもは目立ちたくないと口癖のように言う癖に、行動とちぐはぐな所が腹立たしい。……だがともかく君が無事で、良かった」
棘のある言葉とは裏腹に体を離したシオンが私の頭を優しく撫で、そのままぽすっと私の腿に頭を乗せた。長い足はだらりとソファーに伸びている。
「シ、シオン。あの?」
おろおろする私に構わず、お腹に頭を寄せた彼は欠伸をし目蓋を閉じた。
「眠い。仕事で昨夜からほとんど寝ていなくて……今朝も早くに向こうを出たし」
「待って、それならベッドに行きましょう。そこで寝た方がもっと休める」
「…………」
返事はなかった。代わりに規則正しい息遣いが聞こえてくる。ベッドへ移動する気がないならせめて上掛け位は取りに行こうとしたけれど、私の手はシオンにしっかりと拘束されていた。
寝顔を見つめる。貴婦人も思わず嫉妬する程の美しい銀髪、整った容貌。長い睫毛に目がいき、その下にはうっすらクマが出来ていた。もう片方、自由な方の手を伸ばし、そこに触れる。ゆっくり癒しの力を使った。
これで少しは元気になってくれると良いな。
シオンの穏やかな寝顔を眺めているうち、私もうとうとし意識が途切れていった。
一体どれくらい時間が経ったのか。ふっと起きると視界にシオンがいた。お互いしっかりと目が合う。うわ、今の寝顔見られてた?恥ずかしい。
「あっ、あの……」
「可愛い」
うっとり蕩けるように笑うシオンに固まった。彼の手が私の頬に触れる。あまりにも魅惑的な表情を浮かべる婚約者の姿に私は動けない。心臓がうるさい、こんな私を見て可愛いだなんて言ってくれるのはシオン位だ。
やっとの事で声を絞り出す。
「……少しは休めた?」
「ん。何だか体が軽い、楽になった」
「良かった」
窓の外を見ると西陽が傾いていた。そろそろ夕食が始まる。お互いの身支度もあるので、私は一旦自分の屋敷に戻ることにした。
「そうだリリアナ。君は昨日、依頼者の男を見たんだろう。本当にエルディア人の特徴があったか覚えているか?」
扉のノブに手を掛けていた私はシオンを振り返り、ううんと首を振る。
「一瞬すれ違ったけどエルディア人特有の黒髪が見えた事は確かよ。でもあの人が絶対にエルディア人かというのはわからないわ。どちらかと言うと私より噂を流していた人達の方がその人をよく知っているかもしれない」
そうかとシオンが頷く。私はまた夕食でと部屋をあとにした。
――どうしよう。言えなかった。
メロゥ邸へ歩きながら、私はおじ様から託された紫の飾り紐の事を考えていた。おじ様から教えてもらった話だとあれはエルディアの高貴な身分の者が身につける装身具だ。
本当はシオンに伝えるべきだったのに、口に出せなかった。タイミングを逃したというか……。
でもまた話す機会はあるわ。今度はもう少し時間のある時にしよう。
自室に戻り机の引き出しにしまった飾り紐を確認し、私は息を吐いた。
カールトン夫妻とディア様を交えた食事会は和気藹々と非常に楽しいものだった。あっという間に食事は終わり、皆それぞれ席を立つ。勿論シオンも。彼は私のそばに来て眉を下げた。
「ごめんリリアナ。俺はこれから少し先生と話があって。……あと明日だが、一緒に出かけようか」
「えっ、お出かけ。行きます!」
嬉しすぎて思わず敬語になってしまった。どこに行くかは明日までに決めておいてくれるそうで、私は久しぶりのデートに心を踊らせる。それじゃあお休みとシオンはカールトン邸へ帰っていった。
ふと隣でディア様がクスクス笑っているのに気づく。私は頬を染め、身を縮めた。
「リィリィはわかりやすい。それが何とも可愛らしいな」
「ディア様、茶化さないでください」
「茶化したつもりは全くないが。だが本当に君達を見ていると婚約とは案外良いものだなと思えてくる。……まぁ相思相愛が前提だけど」
王族や貴族は政略婚が通例だから私の場合、幸運な方だ。何せシオンとは幼なじみなのだから。ディア様は羨ましげにこちらを見る。
「私も明日、国へ帰る。折角だから部屋に戻る前に、少し叔母上とテオに会っていくよ」
「ディア様、私もご一緒します」
彼と共にお母様の部屋へ行くと彼女はすでにベッドに入っており、すぐそばの揺りかごにはテオ、そして椅子に座るお父様がいた。お母様が私達をみて顔を綻ばせた。
「あら、二人ともテオに会いたくて仕方なかったの?」
「すみません叔母上。私は明日早くにここを出るので少しでも長く幼い従弟を見ていたかったのです」
お母様が物憂げにその薄紫の瞳にテオを映した。
「そうね。この子はあなたと同じ男の子ですもの。成長すればきっとあなたの良き理解者になるでしょう」
ミルクを飲み満腹になったテオはすやすや眠っている。私とディア様はしばらく彼のそばにいた。お母様はそんな私達を見て、ふと良い事を思い付いたと口元をゆるめた。
「そうだわ、リリアナ。向こうの部屋でディアにあなたのピアノを弾いて聴かせてあげてはどう?」
もう明日には帰ってしまうのだしとお母様が言う。
「ああ、ぜひリィリィが弾くのを見たい。学園に在学していた頃、行事で一度だけ聴く機会があったが……。またきちんと聴いてみたいと思っていたんだ」
「行事ですか。まさかディア様、あの時私に気づいていたんですか?」
昨年、学園祭でジル先輩に頼まれ、特待生の発表会に助っ人で参加した事を思い出す。確かあの時私は男子の姿に変装していたのだ。ディア様がふっと苦笑する。
「当然だ。リィリィはどこでどんな姿をしていても私にはわかる」
お見通しだと言わんばかりのディア様の表情に私は内心汗をかく。隣ではお父様がきょとんとしていた。お母様は苦笑している。
「リリアナ、それは一体どんな姿だったんだ?」
「あらあら」
男子に変装していたなんて二人には知られたくない。十中八九はしたないと怒られてしまう。
「いえ、とても可憐な婦人に扮していたので私は気付きましたが、他の生徒は誰なのかわからなかったようです」
「……」
上手く説明してくれたディア様に感謝した。お父様とお母様はそうなのと特に深く追及せず、応じている。
ピアノがある隣室はここから続き部屋となっており、私は扉を開け彼を案内した。
「こちらです。どうぞディア様」
「これはすごい。この部屋は演奏ができる場所なのだな」
室内はピアノやバイオリン等の弦楽器、管楽器が一通り並んでいる。ちなみにこの部屋は特殊で四隅に防音効果がある魔導具が設置されている。私の部屋にもピアノはあるがここまで入念に音漏れを防ぐ設備は置いていない。
そういえば、昔はよくここで弾いていたっけ。
子供のシオンがカールトン家に預けられる前まで私はこの音楽室でピアノの練習をしていた。近くにいたディア様が離れ、棚に納められたバイオリンに触れる。
「ふふ、久しぶりにディアのバイオリンも聴きたいわ」
お母様の言葉に私は顔を上げる。
「! ディア様、バイオリンが弾けるのですか?」
「私達王族は何かしら音楽をたしなむよう義務づけられている。特に女性は力の行使を容易にする為にも必須なんだ」
お父様がお母様を横に抱き上げ、一緒にやって来た。室内にあるソファーに腰をおろす。バイオリンを持ったディア様が譜面台にある楽譜を覗き、私に微笑んだ。
「リィリィ、試しに一緒にあわせてみようか」
ディア様と二重奏できる。こんな機会は滅多にない。私は二つ返事で了承した。
「ふ、では始めよう。……ああ私は初めてだからお手柔らかにね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
楽譜を見て私は鍵盤を叩く。凛とし清廉に立つディア様はたった一度しか楽譜を見ていないのに、即興でバイオリンを奏でている。滑らかで緩急ある音が部屋を満たし、熟練した腕前に私は興奮した。
すごい。ディア様がこんなにもバイオリンが上手だなんて。まるで特待生の方と演奏しているみたい。
ディア様と目が合う。瞬間彼の薄紫の瞳が優しく細められ、その美しさに思わず手が止まりそうになってしまう。いけないと慌てて楽譜に目を向ける。
あっという間に一曲弾き終わり、私はふっと力を抜き感嘆の息をもらす。音が止み終わったのを見計らい、お母様が拍手した。
「二人共、練習せずに上手に合わせられて凄いわ。演奏も素敵だった、ね、あなた?」
「ん?あ、ああ……良かった、と思う」
「……」
聴いてたのか聴いてないのか、よくわからない曖昧な感想である。お父様の反応にお母様は笑うのを堪えていた。それには理由がある。お父様は音痴なのだ、それもかなりの。
「ふふ、それなら次は豊穣の歌をお願いしようかしら。周辺一帯が豊かになるよう祈りながら弾くのよ。……そうね、私も折角だから参加しようかしら」
「待て、エレノア」
お母様が人前で歌う事は滅多にない。私とディア様は驚いた。それに癒しの力で大分回復したが、無理は禁物だ。お父様が心配する気持ちもよくわかる。
「なるべく制限して歌うから心配いらないわ。それに何かあってもあなた達がいるのだから大丈夫でしょう?」
「お母様……」
満たされた顔で彼女が口を開く。
「私ね、嬉しいの。こうしてまた家族が増えてあなた達もいて。皆が集まり奏でる音が何にも代えられない、うつくしいものだと感じるの。……出来ればマリエラにもこの音を聴かせてあげたかったわ」
全く仕方ないなというようにお父様が両腕を組んだ。
「……わかった。君がそういうなら。だがこんな素晴らしい奏者達なのに、俺しか観客がいないけど……いいのか?」
私達三人は快く返事をした。
「「「もちろん!」」」
そしてすぐお母様が続け、うふふと口元をおさえる。
「でも眠っているテオにもきっと聴こえていると思うわ。だから観客は二人。ね、さぁリリアナ始めてちょうだい」
そのまま座って歌うからと私に演奏を始めるよう促してきた。私はうきうきする心をおさえ、鍵盤に手を置いた。