第51話 ユリウスとの初めての出会いと懐かしい歌
ユーリこと、ユリウス・ラドウェルと初めて出会ったのは、年に一度催されるメロゥ領の祭りの日だった。
昨年まではカールトン夫妻の所にいたシオンという男の子と一緒にお祭りを見て回っていたのだけれど。彼は今年からエドワルド学園に入学する事になり、今は王都にいる。
そのため今年から祭りは一人で見に行っている。だがいくら辺境の田舎町とは言え、貴族の子供が単独で出歩くのはまずい。それは誘拐や犯罪に巻き込まれる可能性があるからだ。
ゆえに外出する私のそばには侍女がついていた。
そうして私はいつものように祭りの広場に置かれたピアノの鍵盤を叩き、前世で馴染みのあった曲を弾いていく。これはこの世界の人々が知らない曲だ。もし訊ねられたとしても、適当に私が作ったものだと言えば、特に問題はなかった。
だからあの時の私は完全に油断していた。
この曲を知る者がいたということを。
「こんにちはお嬢さん。その曲、とても美しいね」
「! はい。これは――」
爽やかな声が落ちてきて、私は反射的に顔を上げる。けれど何故か「自分で作った曲です」と喉まで出かかった言葉をひゅっと飲み込んだ。
突然現れた薄茶髪の美しい青年は私の演奏を、いや曲を褒め微笑んでいる。が、よく見ると顔は笑っているのに、その目は笑っていなかった。
緊張する私に彼は構わず覗き込んでくる。
「ねぇその曲、何処で教えてもらったの?」
「……これは、その、この町に立ち寄った旅の人から教わって……」
この青年の顔に何故か私は震え、どうにかそう答えを絞り出す。
「そう、ごめんね。驚かせてしまったね」
私の返事に納得したのか、彼の表情が急に変わった。先程までの表情は嘘のように消え、柔らかくなっている。
声をかけてきたこの人は調律師だった。仕事柄、楽器の音に敏感だ。そのため偶然にもピアノの音を聴き、調律すべきか確認しに来たらしかった。
「おじさん、この曲を知っているんですか?」
「……そのおじさんてのが気になるけど。まぁ俺も君から色々聞きたいことがあるし。そうだ、ちょっとそこで話そうか」
彼は私を中央広場にあるベンチに座るよう促すと自身もそこに腰かけた。
「俺の名はユリウス・ラドウェル。調律師を生業としている。君は見たところ普通の……いや使用人がいるのか。もしかして良い所のお嬢様なのかな?」
付かず離れずの距離でメロゥ家の侍女が私達を見守っている。ユリウスは彼女を見て微かに笑った。
「私はリリアナ・メロゥといいます。その、一応ここの領主の娘です」
「えっ、君。メロゥ伯爵のお嬢様なの?」
何故かとても驚かれた。まぁ今日は村娘のような服装だし無理もない。あとはやはり私の雰囲気が貴族らしくないからだろうか。……どこにでもある容姿だし。
お互いの自己紹介が終わり、私はユリウスと色々話した。どうしてか彼とは話しやすかった。とても明るく気さくで聞き上手な人だったからだ。あとはシオンという友達がいなくなって寂しかったというのもあった。
「それでねユリウスおじ、あ……さん」
「リリアナ、何度も言うけど俺はおじさんじゃない。いい加減に普通に呼んでもらえないかな」
おじさんと呼んだ瞬間、また彼の顔がひきつる。
「……普通、」
「だから俺はユリウス。何ならユーリと呼んでくれても構わないよ。とにかくおじさん呼びは止めてね」
「わかりました」
物凄く拘る。ちょっと気にしすぎだと思う。私は心の中で苦笑した。
この頃の私からすれば、大人の男性は皆等しく『おじさん』という認識。この年頃の大人は何とも繊細で扱いに困る。
「ところでさぁ、リリアナ。さっきの歌だけど――」
「あれがどうかしましたか?」
ユーリはまだあの曲が気になっている様子で、すごく執着していた。中々こういう人は珍しい。まさかと思うが、どこかでそれを聴いた事でもあるのだろうか。
ん、どこか?――え?
自分で言って戸惑う。それにこの人、今気になる台詞を口にしたような。
「……歌? 今、うたって言いました?」
この曲は私の前世で幼少時からよく歌われている唱歌だ。多くは子供の頃、大人から歌って聴かせられ覚えていく。
さっき私はこれをピアノの演奏曲として弾いていた。歌詞があるなんて一言も言っていない。それに歌ってもいない。
私の問いにユーリが小さく笑った。
「そうだよ、歌だ。あれは生まれ育った国を思う歌だろう?」
「!」
今度は私の顔色が変わる番だった。
さらに動揺する私の前で彼はその歌を途中まで軽く歌ってみせた。歌詞は――完璧だった。
私は瞳を伏せ沈黙する。
「…………」
「さっきリリアナは旅人から教わったと言っていただろう?だからもし知っているのなら教えてほしいんだ。あれは何という国の歌なのかを」
「それは……わかりません」
そう答えるしかなかった。
「もうずっと前のことで旅の人がどこから来たのかも。記憶も曖昧で。今、私がこうして弾く音が正しいかどうかすらもわからないです。……ごめんなさい」
嘘ばかりを並べた。でも本当は知ってますだなんて口が割けても言えるわけがない。だから最後は謝るしかなかった。
「そう。それなら仕方ないね」
ユーリはその歌がどこから発祥したのかを知りたいようだ。でもその理由は――
彼がふっと呟く。
「これは昔、母がよく口ずさんでいた歌なんだ」
「! お母様が、ですか?」
「そう。自分が生まれた遠い土地の歌だと言っていた。でもおかしいだろう。あの人はこの国の生まれなんだ。俺が調べた所、フェリシアにこの歌は存在していなかった」
驚いて彼を見るとその顔は僅かに翳っていた。
おそらく彼のお母様は私と同じく前世の記憶を持っていたのかも知れない。もしそうなら、本人に会って直接話をしてみたかった。そう思って訊ねてみる。
「お母様はこの国のどこにいるのですか?」
「母はもう随分前に亡くなったよ。体が弱い人で、当時流行病に罹ってしまってね」
「!」
亡くなった。知らなかったとは言え不躾な質問をしてしまい、私はユーリに謝った。すると彼はクスクス笑い出す。
「構わないよ。リリアナは子供なのに随分と大人びているんだね。こんなの大した事じゃない。よくある話だ。気にしなくて良い」
「……ごめんなさい」
あやすようにポンポンと頭を撫でられた。
「本当に気を遣わせてごめんね。ただちょっと気になったんだ。母は病が悪化して最後は言葉が通じなくなっていったんだけど。……それなのにあの歌だけはずっと歌っていた。不思議……って、えっ、リリアナ!?」
私を見たユーリが話を中断し慌て出す。私が突然泣き出してしまったからだ。
遠く離れた自分が生まれた本当の場所。
それを思って彼の母は歌っていたのだ。帰りたい。元の世界へ戻りたいという願いがそうさせたのだ。
それだけ当時の彼女の状況は過酷だったのだろう。病気だって向こうの世界にいたらすぐに治っていたかも知れない。
「う、ひっく、」
「バカだなぁ。どうして君が泣くんだい?ああもう困った子だね」
「……ごめんなさい」
涙声で謝る私にユーリはもう一度バカだなぁと小さく笑い、取り出したハンカチで涙を拭いてくれた。
それから彼は毎年必ず祭りの日に現れては、私との時間を作ってくれるようになった。
◇◇◇
「……」
ふっと瞳を開ける。懐かしい夢を見た。
あれは私がユーリと初めて出会った頃の。
頬が濡れている。どうやら泣いていたようだ。
「どうしよう、今何時……」
窓の外を見るともう陽が高い。慌てて跳ね起き、顔を洗って身支度を調える。鏡に映った顔は赤く浮腫んでいた。
「うう、この顔。さすがにシオンに見せられないわ」
ただでさえ見劣りする顔なのに、これは酷い。私は頭を抱えた。
それにしても今日は珍しくシオンが現れない。いつもなら心配して来そうなものなのに。おかしい。
とにかく顔の腫れが治まるまで待たないと。私は使用人の女性に声をかけると、食事をこの部屋へ運んでもらう事にした。
彼女はすぐに朝食を用意し持って来てくれた。さらに湯で絞った布を渡される。
「リリアナ様、温かい布をお持ちしました。どうかこれをお使いください」
「ありがとうございます」
声をかけた際に顔を見たのだろう。温かい。使用人の気づかいに感謝し、有り難く使わせてもらった。
「シオン様は今朝早くに城へお出かけになられました。午後には戻られると聞いておりますが」
「そうでしたか。教えてくださってありがとうございます。その、心配をおかけしてしまいましたね。すみません」
明らかに心配している様子の彼女に私はもう大丈夫と笑ってみせた。朝、誰も来なかったのは昨夜遅くまで起きていたので、私を無理に起こさないようにとシオンから言付かっていたためらしい。
食事を終え使用人が食器を片付け下がっていくと、私は腫れが目立たないよう少しだけ化粧を施した。その姿を鏡に映し確認する。
これでうまく隠せれば良いけど。
そうして気分転換にと窓を開けた。空は青く清々しい。大きく息を吸い込む。頬にあたる風は柔らかく暖かかった。
「――、」
小さくあの歌を口ずさむ。今はもう遠い、懐かしい地での思い出が甦っては消えていく。
そんな自分にふっと笑ってしまう。こんな風に感傷的になるなんて、今日は本当に珍しい。
しばらくそこでぼうっとしていると、いつの間にか肩にショールが掛けられていた。振り返るとシオンがいる。
「ほらリリアナ、これを羽織って。その格好で風に当たりすぎるのは良くない。風邪をひいてしまう」
「ありがとう。お帰りなさい。もうお城から戻ったのね」
「早くにここを出たからね。それより君はゆっくり休めた?食事はとったと家の者から聞いているが……」
「うん。ぐっすり眠りすぎて寝坊しちゃった」
努めて明るい声を出し、私は肩掛けを合わせて口元に寄せる。するとさらに背中が温かくなった。シオンが私をすっぽり包んで抱き締めてくる。
「どうしたの?」
「今日は元気がないみたいだから。リリアナ、君が望むならいくらでも話を聞く。だから一人で悩まないでほしい」
僅かに残る顔の腫れや鼻声に気づいたのだ。彼を心配させてしまった。
「心配かけてごめんなさい。でも悩んだりはしていないの。……その、昔の歌を思い出して。それで少し懐かしくなって……でももう大丈夫よ」
「そうか、」
「うん」
正直こんな説明で彼が納得してくれたかどうか分からない。でもシオンはそれきり何も言わなかった。温かなその気持ちが私を優しく包み込む。
私は顔を上げ微笑む。
「そろそろ、お茶にしましょうか。シオンも帰ってきたばかりで疲れたでしょう?」
「そうだな」
私達は窓を閉め、休憩がてら二人でお茶を飲むことにした。