第42話 行方不明の医師とステラの意志
その療護院は大きな街道から横の道に入り、しばらく下町を進むと見えてくる。ちょうどタウンゼント侯爵家が管理する孤児院の隣にある。
そこへ続く道を紺色の長衣を纏った男が足早にやって来た。目深に被ったフードからはチラチラと赤茶髪がのぞいている。
この建物は入り口が二つある。一つは表に患者や来客用として使用する扉。もう一つは裏にある。療護院の関係者用の扉だ。
男は裏に回るとそっと扉を叩く。すると中から簡素だが清潔な衣服にエプロンをつけた女性が顔を出した。
その女性は男の姿を確認すると「どうぞ」とすぐに中へと招き入れる。そうしてパタンと静かに扉を閉め、彼に頭をさげた。
「リアム様、いつもいつも申し訳ございません」
「いや、かまわない。そんなことより今日の患者は?」
赤茶髪の青年――リアムは白衣を羽織り身支度を整えながら机に向かい、すでに待合室にいる患者の調書を読み始めた。少しの時間も惜しいのか、とても無駄のない動きだ。
今日は週末、忙しくなりそうだ。療護院へ来る患者は多い。それでなくとも平日は夕方からしか診察できない。
これは急遽、医師代理となったリアム側の都合だ。普段はどうしても学園の授業を優先せざるを得ない。仕方がないのだ。
次から次にやって来る患者を診終え、机に向かい診療録をつけながらリアムは息を吐いた。
そうしてふと大事な事を思い出す。
「ああ、そういえばステラ。薬は足りているだろうか?」
「まだ在庫はありますが、正直十分とは言えません」
「そうか」
即座に返ってくる言葉にリアムは頷く。
薬棚には普段から鍵がかけられている。これは医師以外の人間が勝手に持ち出さないようにするためのものだ。
だがこの療護院だけは特別だ。
ここの本来の主である医師が不在のため、住み込みで働く看護助手のステラが普段から鍵を持ち歩いているのだ。
「リアム様には本当に感謝しております。突然ザドア先生がいなくなってしまい困り果てていた所に偶然あなた様が通りかかって。急患の方を診ていただけるなんて」
ですがもう、と棚にある空の薬瓶を手にした彼女は辛そうに呟く。
「お薬の在庫はもう尽きます。今まで分量を少なめにしたり、他で代用したり。騙し騙し使用してきましたが、これ以上はもう……」
本来なら薬はランドール家が療護院や診療所を回り、定期的に補充しにくる。国中に存在する魔術師を統括する家だ。その中には勿論、薬草から薬を調合する魔術師もいる。
だがその薬は療護院を国の役所から任された医師でなければ受け取れない。そのための専任試験もあるのだ。
その資格をもつザドア医師は姿を消したと同時にその証である木札と薬棚の鍵も持ち出してしまったらしい。
リアムが初めて療護院を訪れた時、とても驚いたことがあった。それは薬の在庫があと数日分しかない事。また治療に使う器具や物資も圧倒的に足りないことだった。
噂には聞いていたが下町の治療所とはこういうものなのか――
すぐに王宮医師の筆頭である父にこの事を伝えたのだが、彼の答えはリアムの予想に反したものだった。これを期に経営難の治療所は閉鎖していく、というのが父の判断だったのだ。
貴族や裕福な者が来る病院は常に多額の寄付金や報酬で金銭的に潤っている。
だがこの療護院は下町の患者から僅かな報酬しか受け取っていない。真面目に人のために尽くしているにも関わらず、やればやるほど貧しくなっていく。この落差はなんだ。
腑に落ちなかった。
だからリアムは父に反抗したのだ。それは少しでもここを長く続けさせたかったから。
「……そうか。薬は、近いうちにどうにかしよう」
今はそれだけしか言えない。リアムは苦い顔をした。
また祖父のいる村の医師達に薬を分けてもらえるよう頼まねばならない。
彼らはリアムに快く薬を分けてくれたが、さすがに二度目となると話は別だ。今度こそ詳しく事情を説明しなければならなくなるだろう。
王宮医師をはじめガードナー家当主の総意が治療所の削減なのだから、それを知ったガードナー家の息がかかった村の医師達はどうするのか。
今回は無理かもしれない。
そうリアムは思った。
それにこんな事を続けていても、結局はその場しのぎにしかならない。根本的な改善をしない限りは無理なのだ。
ふとリアムの中でザドア医師は逃げたのではないかと思った。
そうだ。きっと、金銭苦や療護院のこの先を嘆き彼は出ていったのだ。
リアムの深刻な表情を心配したのか、ステラが気遣うようにお茶を机に置く。
「……いえ、リアム様。もうよいのです。先日いただいたお薬のことは感謝しております。高価な物ですのに、あんなに分けてくださって。ですがこれ以上あなた様にご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「待ってほしい、ステラ。もう一度私からも掛け合って――」
「本当にもういいんです!明日、お役所に担当医師がいなくなってしまった事を伝えに行きます」
いつもは穏やかな彼女が珍しく声を大きくする。その姿にリアムは驚き目を開いた。
何か、自分の知らない間に何かあったのだろうか。
それともこのどちらともつかない不安定な状況に嫌気がさしたのか。
「もうザドア先生は戻ってきません。患者さん達には申し訳ないですが、この院はもう終わりです」
そう涙を浮かべたステラは声を震わせ断言した。
二人の間に微妙な空気が漂う。その時、ギィィと扉を開く音がした。
また患者がやって来たのか。
リアムが表の扉に目をやると、そこには茶髪の娘が半開きの扉からひょっこりと顔を出していた。
その見覚えのある顔にリアムは息を呑んだ。そうだたしかこの娘、前に祖父グドルフのいる村で会った。
リュミエール先輩の婚約者――リリアナ・メロゥ伯爵令嬢。
だが今は学園の制服や貴族の服装ではない。簡素な町娘風の衣服を着ていた。
「あのぅ、ここってお医者様が治療してくださる所ですよね。私つい先程、向こうの角で足をぶつけてしまって……。診ていただいても良いでしょうか?」
怖々といった様相で彼女はリアムに問いかける。それは当然だ。貴族の娘が下町の療護院に来ることなどあり得ない。普通はもっと治安の良い場所にある大きな病院へいく。
「ええ、かまいませんよ。どうぞこちらへ」
リアムが言葉を選んでいるうちにステラが代わりに優しく応じ、彼女を診察室へ案内していった。
リアムも慌てて診察室に入り、促され椅子に座るリリアナの足を診る。
「ああ、ぶつけた箇所が少し赤くなっていますね。痛みは?」
「少しあります」
お互いの距離が近い。だがリリアナは医師がリアムであることに全く気づいていないようだ。布で鼻から下を大きく覆っているから、よくわからないのかも知れない。
「骨は折れていないようですね。ではステラ、痛みと腫れを引かせる薬を――」
「はい」
この世界に湿布は存在しない。だが似たような物がある。煮詰めた薬草を布に浸し、それを患部に当てさらに包帯で巻くというもの。
ステラは慣れた動きで薬を用意しに部屋を出ていった。
診察室にはリリアナとリアム二人だけになった。ステラは準備に手間取っているのか、なかなか戻ってこない。
「お嬢さん、もう少しだけ待って――」
「おじさん。ザドア先生ではないですよね。今日、先生はいないのですか?」
「……おじ?」
悪気なくにこにこと彼女が話しかけてくる。
たしかに周りからは落ち着き過ぎていて年齢より大人に見えると言われた事はあるが、その言葉だけは看過できない。
大体、貴族の娘だろうに。こんな庶民の格好をした平凡な容姿の娘に言われたくはない。
リアムが内心ムッとしていると、リリアナと目があった。彼女は面白そうにこちらを見つめている。
「ふふっ、先生。怒っているんですね」
「いや、怒っていない。それより君は、」
「私はローザです。先生は誰なんですか?」
ローザ? 絶対嘘だ。だがリリアナ・メロゥは平然と偽名を口にし、同時に自分の正体を尋ねてくる。
リアムはコホンと咳払いをした。
「私はザドア医師の代理の者だ」
「代理、ですか。ザドア先生に頼まれたのですか?彼は今、どこにいるんですか?」
「それは……」
畳み掛けるような彼女の問いにリアムはうまく答えられない。ザドア医師は行方不明。特に捜索もしていないのだからわかるはずもない。
「何か事件に巻き込まれているかも知れませんよね。それとも放っておいてもかまわないと?」
まるでリアムの心の動きなどお見通しかのように、彼女はじっと見つめている。初めてみる。こんな顔は自分はグドルフの村では見たことがなかった。
「ザドア医師は下町にある療護院の中でも非常に善良で優秀な医師でした。そんな彼が突然職務を放り出し、ここから姿を消すなど。何か余程の理由があったとは思いませんか?」
「それは違います。ローザさん。ザドア先生はたしかに優秀だったかも知れません。ですが何があったにせよ、結局はこの院を捨てたのです。それに……薬まで、持ちだして……」
薬を浸した布をステラが持ってくる。その声は震えていた。
リアムはそれを聞いて顔を強張らせる。
「待てステラ。ザドア医師は薬まで持ち出したのか?」
「…………」
彼女は答えない。代わりに疲れた表情で頷いた。
「薬か。それはまずいな」
魔術師の大家ランドール家が作る薬は特殊な製法で作られる物もある。下町の療護院程度なら特級の魔法薬まで手にすることは滅多にないが、先日リアムが補充した薬もある。とにかく基本的に持ち出しは厳禁なのだ。
「待ってください。薬の件なら大丈夫です」
「え?」
すぐにザドア医師が持ち出した薬の個数を確認しようとリアムが踵を返したところで、リリアナが呼び止める。
「薬なら、もうじき戻ってきます」
「……!?」
再び、扉が開く音がした。開け放たれた扉から現れたのは、補佐官姿のシオンと魔術師ジュドー。そして壮年の男性だ。
ステラはその男を見るなり、わなわなと震えた。
「せ、先生!」
「…………」
先生と呼ばれた男はおそらくザドア医師だ。シオンの部下らしき者二人に両腕を捕まれている。
ジュドーは飄々とした顔でやって来ると、その手にある麻袋をリアムに渡した。それを開けると薬の入った瓶や紙袋が現れる。
「これであっているか?この療護院の薬は」
中を確認するとリアムが補充した薬もある。ジュドーは特に気にもしない風で、院内を物珍しそうに見て回っている。
筒状になった羊皮紙を取り出し、シオンが掲げる。
「この男はフェリシア王国とエルディア国の国境付近で保護した。他に彼を拉致していたと思われるエルディア人達がいたが、そいつらは既に捕縛済みだ」
罪状はザドア医師の誘拐と薬の窃盗。
そう淡々と彼は言う。
「ど、どうしてエルディアなんかに?」
「理由はこの男がエルディア人だからだ。彼はフェリシア人医師の娘と結婚し、この国の籍を手に入れた」
「……!」
この国では移民は受け入れていない。だが婚姻や労働となれば、話は別だ。婚姻はすぐに。労働であれば厳しい審査はあるが、その間は籍を得られる。
「国境付近では今も両国間の紛争が続いている。最近では大分おさまってきたが、まだ油断は出来ない。エルディアは軍事には力を入れているが、医術の方はその逆だ。それゆえフェリシア国で医師として働くザドアを取り込もうとした」
まぁほぼ強引に拉致したようなものだがな、とシオンが眉をよせた。
だが当のザドアは首を横に振る。
「……違う。たしかに最初、彼らは強引だったかも知れん。だが私は……あの国の怪我人達の惨状に耐えられなかった。あの国境では医師が全て死んでいた。……何の解決にもならない。意味のないことだと理解していても、誰かがやらねばならんこともある」
私には祖国を見捨てることは出来なかった、とザドアは苦しそうに言った。そして力なく笑う。
「しかしよく私がエルディア人だとわかったな。ここにいる時はフェリシア語しか話さなかったのだが……」
「それはとある人物が教えてくれたからです。貴方と話す時エルディア人特有の訛りがあったようで、それでかの国に縁があるのではと少し調べさせてもらいました」
「……! それはもしや、いつも薬を届けてくれていたあの子だろうか。エルディア人の。……ああそうか」
ザドアは何かを悟ったように呟き項垂れ、力なく座り込んだ。これまで何処か気を張っていたのだろう。疲労のにじむ顔はもう柔らかい。
「どうか私も捕縛してほしい。私はこの国のためにならないことをした。どうか、」
「……っ、先生!」
たまらずステラがザドアに駆け寄った。彼は彼女を宥めるように優しく頭を撫でる。
「君にも申し訳なかった。療護院はここだけじゃない。他にもある。紹介状を――」
「それは困る。貴方にはここの大切さがわかっていない」
口元に当てている布を取り払い、リアムが強い口調で彼らの前に進み出た。凛とした姿だ。
「私はリアム。現王宮医師筆頭ガードナー伯の息子リアム・ガードナーだ」
「えっ、」
ステラとザドアが同時に声をあげた。
下町における療護院の大切さ、この国にとって医師という職種は大変貴重だということ。そんな貴重な人材を簡単に手放すわけにはいかないこと。
それらを延々と彼は語って聞かせた。
「とにかくだ。もし自らの犯したことの罪滅ぼしをしたいのなら、ここで医師として身を粉にして働くべきだ!」
「そ、それは叶うのでしたら、ぜひ私もそうしたいとは思いますが……」
彼らのやり取りを聞いていたジュドーがくっくっと肩を揺らす。
「ああ、それは良い案だな。じゃあ俺はザドア医師の話は聞かなかったことにしておこう。シオンはどうする?」
「俺もだ。はじめから俺は何も聞いていない。そういうことだ」
とっくの前にそう決めていたのか、シオンも瞳を伏せ即座に答える。あとは――
いつの間にかシオンが薬の浸った布を手にし、私の所にやってきた。そのまま屈んで足に触れる。
その端正な顔はにこにこと笑っている。誰もが見惚れる美しい笑み。思わず声が出そうになったが、慌ててそれを飲み込んだ。何故かゾクリと悪寒が走る。
足を引っ込めようにも、もう既に遅い。しっかり足首を捕まれていた。
「ああ、また勝手に動いて。いけない子だね、ローザは」
「わ、私は何も聞いてな……。つ、冷たっ!」
わざとだ。絶対これは。
ちょっと乱暴な手つきで布を当てられた。鮮やかな手さばきで、あっという間に包帯も巻かれてしまう。
「……」
今日、自分に何も伝えず私が一人で療護院に来たことを彼は怒っているのだ。
助けてほしいと目で訴えたが、何故かジュドー様とリアム様はこちらを見て声は出さずに笑っている。
「さぁローザ、行こう。あとは彼らがうまくおさめてくれる」
「……!」
シオンは私を軽々と抱き上げる。
「待って私、歩けるから」
「そこの角で足を打ったんだろう?無理はしない方がいい」
この人一体どこから聞いていたんだろう。すごく怖い。
あと、とリアムが言いにくそうに口元をおさえ、ステラに向き直る。
「もしかしてなんだが……、君は腹に子が。身籠っているのではないだろうか?」
「……っ、」
「ステラ?」
口をおさえステラがうつ向く。側にいたザドアが驚き目を見開いている。そしてハッとしたように彼女の肩をよせた。
「リアム様。どうしてそれを」
「いや、これはただの勘だ。だが君の体温は明らかに他の者より高かった。そして少しずつだが体つきも変化しているような気がしたんだ」
放心状態になったステラをザドアがそっと抱き締める。
「すまなかった。ステラ。私は……」
「いえ、先生にきちんと伝える勇気がなかった私も同じです。それにもし貴方が戻って来なくても、子をおろせと言われても。私はどうしても生みたかった」
「ステラ……」
ザドアの妻は数年前に病で亡くなっていた。だから彼は独身で子もいない。
私はシオンの手によって、すぐそばで待機していたリュミエール家所有の馬車に放り込まれた。
あとのことはジュドー達に任せておけばいい、とシオンが言う。
「これはあいつらの責任でもある。今まで両家は個々の能力優先で補い合うことがなく、うまく連携が取れていなかったからな。ランドール家は薬担当。ガードナー家は医師達をまとめあげる役割がある。今回、俺はそれらを即席で繋いだだけに過ぎない」
そして今後は両家の力を合わせすべての治療所を再度見直し、補助金等の増強を検討する必要がある。
「貴族や富裕層御用達の病院は多額の寄付金が集まる。それを徴収する手段を考えてみるのも良いな」
ちょっとシオンがにやりとしている。楽しそうだけど、ああまた何か怖いこと考えてる。悪い笑みだ。
まぁいくつか他にも良い手はある。ジュドー達とも相談して改善策を出してみる、とシオンは言った。
少し落ち着いた所で私は隣の彼をみる。
「あのね、シオン」
「?」
「ザドア先生は本当は子供は欲しくなかったのかな。あ、違うの。ステラさんが、とかじゃなくて。だって彼はエルディア人でしょう?たとえ半分でも自分と同じ血を分けた子を作ることに抵抗があったのかな、なんて」
だからなのか彼は亡くなった妻との間に子はいなかった。勿論、経済的事情もあるかもしれないけれど。
でもステラさんが自分の子を身籠ったと知った時の先生の顔は、嬉しいような悲しいような複雑な表情をしていた。
そしてステラさんも彼の抱えているものを何となくだが、感じ取っていたように思う。
私の話を聞いたシオンはどうかな、と首を傾げた。
「さぁそれは彼本人でなければわからない。だが子がいることで行動に抑止が働く可能性があるとは思う。おそらく彼はこの先もずっとこの国にいるだろう。……リリアナだって子がいたら、こんなふうに後先考えず行動することはしなくなるだろう?」
シオンが苦笑し、私の額にキスしてきた。そうして早く結婚しよう、と耳元で囁く。
ガラガラと馬車が進んでいく。窓から外を眺めるといつもの風景がない。私は焦った。
「待ってシオン。ここ寮じゃない」
「ああ、言い忘れていたが俺は明日休みなんだ。リリアナもちょうど怪我していることだし、一緒に休もう」
「えっ?」
この道はリュミエール邸に続く道だ。
怪我なんて大したことない。そう言ったけれど、シオンは「後でまた足を診てあげる」と言ってきかなかった。