第37話 ユリウスの秘密とリリアナの王都散策と療護院
リリアナとシオンが一足先に王都へ戻った頃――
リュミエール夫人ことエルシオーネは領主バードと共に農地の視察に赴いていた。
「順調にいけば今年の収穫高は前年より良さそうです」
「そう。それは良いこと」
バードの報告を聞き、彼女は満足そうに頷いた。
リュミエール家の土地は他領に比べ実りが多い。土地に養分、力があるのだ。初めてこの地に関わることになった時、当時のエルシオーネはそう感じた。
おそらく天候不順さえなければ、このまま今年も豊作だろう。
本当はもっと時間があればリリアナにもぜひここを見てほしかった。けれど彼女はまだ学生。明日からまたエドワルド学園での勉強が始まる。
彼女の日々はそれなりに忙しい。それにここ数日ずっと移動で体が休まらなかったはず。早めに寮へ戻り、休んでもらわなければ。
するとエルシオーネの思考を読んだかのようにバードがニコニコと笑みを向けた。
「リリアナ様は良い方ですな」
「ふふ、そうね」
この領主は職業柄ゆえか人をみることに長けている。リリアナが滞在中、彼はさりげなく観察をしていた。シオンが望んだ相手だから余計。
そんな彼がリリアナに良い印象をもったらしい。特に二人の間に何かあったというわけではないけれど。気に入ったようだ。
エルシオーネは心の中で笑う。
するとバードが声を低くし囁いてきた。
「それにしても良かったのですか?私のもう一つの役目をリリアナ様にお教えしておくべきだったのでは」
「いえ、いいの。急ぐことはないわ。何せこれは始まったばかりだから。彼女にはこれからリュミエール家のことをゆっくり知ってほしいと私は考えているの」
時間ならたくさんあるしね、と夫人は微笑む。
リリアナの結婚式まであと二年弱。花嫁修業と称し彼女はこれからこの公爵家について色々知ることになるだろう。
ここだけの話だが、何を隠そうバードはリュミエール家を裏から護る『影』達の頭目である。領主という身分は表向きの仮の姿なのだ。
『影』はいたる所で活動している。時には屋敷に勤める使用人として。あるいは主の命で諜報活動や裏工作を行う存在として――
「リュミエール家はたまに逆恨みされることもあるから。そういう時貴方達の力は本当に助かるわ」
「我々はリュミエール家に仕え、影からお支えする。当然のことでございます」
ごく当たり前のようにバードは返す。
この家は代々続く文官の家系だ。一族は昔から非常に優秀な頭脳を持つ者が多い。そのため王宮に出仕し、のちに高い地位に就く事がほとんど。
若くして出世することもある。よってそれを面白く思わない者達から恨みを買うこともままあるのだ。
『影』はそういった輩からリュミエール家の人間を護る存在である。
「事前に部下からリリアナ様のことは聞いておりましたゆえ。なんでもピアノが堪能だとか」
「まぁ。バード。王都本邸の使用人達から聞いていたのね。そうなの、リリアナさんの弾くピアノはそれは素晴らしいのよ」
バードの言葉にエルシオーネは頷く。
「私もぜひ聴いてみたいものです。今回は時間がなく聴かせていただく事は叶いませんでしたが。次こそリリアナ様にお頼みしてみましょう」
「ええ。私からもリリアナさんにお願いしておくわね」
彼女ならきっと快く演奏を聴かせてくれるだろう。あの美しい旋律。バードも唸るはずだ。
さてそろそろ館に戻ろうと二人が馬車に向かうと、その横をもう一台の馬車がゆっくりとすれ違った。
車窓から明るい茶髪がのぞく。見覚えがある。おそらくあれはユリウスだ。エルシオーネがその姿に気づくと、向こうも同じだったらしく馬車が止まった。
窓からひょっこりと青年が顔を出す。やはりユリウスだ。彼も夫人をみて驚いている。
「やっぱりユリウスさんね、」
「リュミエール夫人。おや、シオン君達と王都に戻ったのではなかったのですか」
ええ、と夫人は頷く。
やり残した仕事があり、あの二人を先に帰したことを彼に伝える。
馬車から降りたユリウスが息を吐く。
「そうでしたか。やはりリュミエール家当主の奥方様はお忙しいのですね」
「いいえ、それほどでもないのよ。それよりユリウスさんは今度はどちらへ?」
彼は調律師だ。珍しくも土地に長く留まることはせず、渡り歩く。エルシオーネの問いにユリウスは穏やかに答える。
「はい。これから北の地へ向かう予定です」
まぁ、とそれを聞いた彼女は表情を曇らせた。
「北の地は隣国との国境がありますわね。同盟のない国ゆえか、今も時々小競り合いが続いていると聞きますわ。……ユリウスさん、それは少々危険ではありませんの?」
エルシオーネの元に届く北の地についての情報はどれも溜め息のつくものばかりだ。
何かにつけて争い事の絶えない地。そういう印象だ。騎士や魔術師が行くなら兎も角、ユリウスのような身を守る術を持たない一介の調律師が簡単に足を踏み入れていい場所ではない。
そう彼に伝えるとユリウスはありがとうございますと穏やかな笑みを浮かべた。
「夫人の心配する気持ちは理解しております。ですがあの地には私が来るのを待っている人達がいるのです。必死に日々を生きている彼らにとってささやかな娯楽は宝。音楽は人に安らぎをもたらすのです」
自分は楽器を修復調律することが使命なのです、と彼は言った。
「ユリウスさん、」
「大丈夫です。危険な場所へは行きません。安全な所で仕事を終えたらすぐそこを離れます。……こう見えて私は何度もその地へ行っていますし」
彼女を安心させるようユリウスはにこりと笑った。とても落ち着いた表情だ。
この雰囲気。そうだ。彼は見た目より遥かに年が上だとリリアナが言っていた。
ユリウス・ラドウェル。美しい顔立ちの調律師の男。なんとも不思議な――
ああ、とエルシオーネは瞳を見開く。
「ラドウェルの子。今思い出したわ。貴方は――」
「夫人。私はそろそろ失礼致します。先を急ぎますゆえ。陽が暮れるまでに次の町へ行きたい」
夫人の呟きは丁寧に挨拶を返す彼の声でかき消える。そうしてユリウスは再び馬車に乗り込んだ。
「気をつけて、」
「はい。夫人も道中お気をつけください」
馬車はユリウスを乗せ去っていった。
「――奥様、」
隣から震える声が聞こえた。バードのものだ。彼女が振り向く。そしてその顔をみるなり瞳を瞬かせた。
「どうかして、バード。真っ青よ」
「ラ、ラドウェルの。あの青年が……秘されし、子供……?」
バードがいつになく動揺している。無理はない。先程のユリウスという青年は実は滅多に会うことのない。特別な人間なのだ。
秘されし子供、または隠されし子供とも呼ぶ。ラドウェルという名は王家から下賜される名称の一つ。
一般には知られていなく、王族や限られた高位の貴族にしかその名は周知されていない。
下賜にはある特別な条件がある。だがそれは王と本人のみが知るもの。
「ラドウェルはその名と特殊な封蝋を陛下から賜る、と聞いたことがあるわ」
「なんと、」
ラドウェルになれば生涯の金銭的援助は勿論のこと。おおよその生活は保証される。ある意味、王からの寵愛を受けたも同然だ。
「――それほどの特別な何かが彼にあるのね」
そんな特別な存在とリリアナが友人であることにも驚きである。
ユリウスを乗せた馬車が消えていく。それをぼんやり眺めながら、エルシオーネは心の中で苦笑した。
◇◇◇
リュミエール家の領地から戻った一週間後。
今日は久しぶりに何もないお休みの日。
私は王都を一人気ままに巡ることにした。
早速学園寮を出てすぐの筆記具店に寄りいくつか買い物をする。
そうだ。焼菓子店にも行ってみよう。新作が出ているはずだ。
そう思い、これまた当初の予定より沢山の焼菓子をお店で買ってしまった。シオンにあげても余るくらいだ。
そうね。寮に戻ったらフィオナとケイトにもお土産にあげよう。
「ううん、美味しそうな匂い。……少しだけ味見してみようかな」
綺麗に包装された焼菓子を腕に抱え、公園のベンチを目指す。あそこはあまり人通りもなく落ち着ける。お気に入りの私の秘密の場所なのだ。
裏通りの石畳を小走りに進んでいたら、とある看板がチラリと目に入った。窓はあるが日中にもかかわらずカーテンが閉められている。
木造の小さな建物。ジルのいた孤児院に似ている。それより少し大きいが。
そういえば、ここは孤児院の近くなのね。
看板には『療護院』と書かれてある。おそらくここは下町の診療所なのだろう。
何の気なしにそこを通り抜けて行こうとしたら、カーテンの隙間から偶然にも中が見えた。
私は足を止める。少し興味がわいた。少しだけと言い聞かせ、覗いてみる。
建物の中にはベッド。そこには人が横になっていた。他にも同じような人が何人かいる。
そしてその中に一人だけ白衣を着た男がいた。茶髪で眼鏡をかけている。鼻から口元をすっぽり布で覆っているので顔半分しか見えないが、おそらくまだ若い。そんな気がした。
私はそんな彼の姿に息を呑む。
「あの人、?」
「――あれ、リリアナ嬢じゃないか。こんな所で何してるんだ?」
「えっ、」
突然脇から声が聞こえ振り向くと、そこには青い髪の青年が不思議そうな顔をして立っていた。
整った容姿。だが派手ではない。落ち着いた印象の私服姿なのに何故か名にキラキラしている。
最近学園でよく顔を合わせる攻略対象――ジル先輩ことジリアン・タウンゼントが目の前にいた。
私はあわあわと口を開く。
「ジ、ジル先輩」
「ちょうど今孤児院で子供達にピアノを聴かせてきたんだ。……それよりこんな所で君みたいな娘が一人でウロウロするのはよくない。表通りに戻った方がいい」
眉を寄せるジル。彼の言葉はもっともだ。下町の娘ならいざ知らず、こう見えて私は伯爵令嬢なのだ。
治安の良くない通りを一人で歩くなんてどうかしていると思うのが普通だ。
ジルがふと頭上にある看板を見上げ呟く。
「なんだ療護院じゃないか。ここに用があるのか?」
「ち、違います。そうじゃなくて……」
首を傾げた彼が私の近くに寄った。間近に迫る端正な顔。さっきまで私が見ていた方向を目で追っている。
やがてそれに気づいたジルの瞳がハッと開いた。
「――あれは、」
「ジル先輩、」
先程の私と同様、驚いている。ジルの視線に頷き、もう少し様子を見てみましょうと私は彼に囁いた。