映らない被写体
誰もいない遊歩道。何も動かない風景。そんな寂しい一シーンをこのカメラは映した。全ての活動を終えたような荒廃した現実は、この私にとっては理想の象徴だ。このカメラで切り取った一瞬はもう二度と帰ってこない。奇跡の一枚はこの古い型のカメラでしか撮ることが出来ない。そのことがたまらなく愛おしく、今ここでしか生きていけない私の価値がどんどん下がっていく気がする。この世界がどんどん嫌いになって、荒廃した現実を求めている。
「痛っ」
右肩に強い衝撃を受けた拍子に私の視線がカメラの向こうから離れた。対面からものすごい速度で歩いてくる人にぶつかったのだ。騒々しい人混みの中で私にぶつかった人は、その瞬間を謝るどころか舌打ちをして去っていった。こんなに私の周りに人がいるのにその舌打ちを聞いたものは一人もいないだろう。誰もが無表情で、数えきれない人間によく似た人物とすれ違っては去っていく。その一瞬の出会いと別れは、この便利すぎる世界では何の価値もなく。
ただひたすら生きていきたいと願った価値のない加工人間たちをただただ生かしておくためだけのこの世界が。
私は心底嫌いだった。
だから私は、現実しか見据えない五百年ほども前に作られたこの古いカメラが愛おしかった。私の理想、私が約一ヶ月前に失った寂しい世界。寂しいけれど、この世界よりも何倍も美しいと思う廃れてしまった世界。
壁全体を蔓科の植物がびっしりと覆っている。両隣のシンプルな建物に挟まれている様はなんとも異様で人々の視線を引き付け、同時に人を拒んでいるように感じられる。その姿にどこか見覚えがあって、私の足は気づくとその建物に近づいていた。窓やドアを探すのに一苦労しそうなほど緑に囲まれた不思議な建物。やっと見つけた窓の向こうにわずかな灯りを確認する。外が明るすぎて建物の中がどんなものなのか確認出来ない。その代わり、その建物からほんのり香るコーヒーの匂いで飲食出来る建物だということはかろうじて理解することが出来た。さらに観察していくとドア近くにネームプレートを見つける。
〝アンティークカフェ カミガサキ〟
すぐに思い出す。あの時あの場所で見つけた不思議なお店。こちらでお店を営業していたのか。
手にしていたカメラで一度写真を撮ろうとしたがやめる。代わりに別のカメラツールでこの生き生きした建物を写真に収め、私は思い切ってそのドアノブに手をかけた。店内につけられていたらしいベルが鳴る。
店内は全体的に茶色のイメージだった。妙に高い天井から吊り下げられた見たことのない灯り。古めかしいテーブルと椅子のセットが五セットほど。入ってすぐ目の前にあるのは数種のケーキが入ったショーウィンドウ。その奥に広がる大きめのカウンター付近には名前も分からぬ骨董品がたくさん鎮座していた。壁には所々に様々な種類の時計が飾られ、そのどれもが現代で見たことはほとんどなく、全て古い時計だということがよく分かる。
そしてカウンターの中には、若い女性の店員が黒いエプロン姿でたった一人カップを磨いていた。
めったにならない入口のベルが鳴った。
驚いて忙しなく動いていた手が止まり、顔をそちらに向ける。耳に痛い軋んだ音をたてながら現れたのは一人の女の子だった。緩く巻かれた髪の毛をサイドテールで結い上げ、服装はあまり見かけないものだった。セーラー服なのでおそらくどこかの生徒なのだろう。しかしそんな子に似合わないものが彼女の首から垂れ下がり、先端にあるものはその小さな手に支えられていた。幅の広い黒のベルトを下げ、その先にはその子の手より若干大きな黒い箱が繋がっている。その異様な雰囲気を醸し出す女の子を心のどこかで警戒しながら、わたしは客人をもてなす言葉を投げかけた。
「いらっしゃいませ」
女の子は私を置物を見るような目で立ち尽くしていた。だがそれはほんの数秒だけで、すぐに店内の形に添ってゆっくりと歩き出した。黒い歪な形をした箱を大事そうに持ちながら。
一歩一歩進んでいた彼女がやがて戻ってきてわたしの前ですっと止まった。
「何か注文しないといけないですか? 座って店内見ているだけじゃ迷惑ですか?」
「いえ! お好きな席にお座りください。ちょうど全部、空席なんで」
「そうですか、ありがとうございます。遠慮なく座らせていただきます」
そう言って女の子は店の一番奥、いろんな種類の時計が並ぶ壁の前の席に座りあの不思議な箱を丸テーブルに置いた。そして何をするでもなく行儀よく座る人形のようにじっとしていた。
わたしはその動作に見入ってしまっていた。時計の秒針音が大きく聞こえてきたところではっと我に返る。あわててカウンターの裏側に戻ってお冷を作り、トレンチに乗せて女の子の席まで持っていった。
「失礼いたします、お冷をどうぞ」
女の子は小さく頭を下げただけでグラスに手を伸ばすことはしなかった。
「何かありましたらお声かけくださいね」
こちらもまた小さく頭を動かしただけだった。わたしも軽く会釈をしてこの女の子が来る前まで居座っていたカウンターの方へ戻り、途中で止まっていた作業を再開した。
たくさん飾ってある時計の中から午後四時を告げる鐘が響くと、女の子はすっと席を立って元通り首から謎のモノを下げ、入り口の方向に顔を向けた後にこちらを見つめてきた。その視線を見ると何故か「声をかけなければ」と思ってしまう。
「お帰りですか?」
女の子は口を開く代わりに首を縦に振った。カウンターの前を過ぎ、真っ直ぐ入り口まで戻って行く。わたしは入り口まで送ろうと思いその後ろをついて行った。
女の子はドアノブに伸ばした手を止めて急にくるりと振り返った。
「明日、また来てもいいですか。今度はちゃんと注文します」
「ええ。お待ちしております」
「ありがとうございます」
女の子はまた頭を下げて、店を出ていった。
次の日、昨日言っていた通り女の子が訪れた。首から下げている不思議な箱も一緒だ。
「いらっしゃいませ」
昨日は初対面だったのでうまく対応できなかったが、今日はちゃんと笑顔で迎える。女の子は昨日のように軽く頭を下げ、「こんにちは」と挨拶してくれた。
女の子は昨日と同じ席に座り、さっそくテーブルの隅に立てかけられたメニュー表を手に取った。昨日と同じようにお冷をトレンチに用意し、注文を受けるためにメモをポケットにいれて女の子のところへ向かう。わたしが近づいてもその子はまだメニュー表を見つめたままだった。お冷をテーブルに置きながら声をかけてみる。
「ご注文の品はお決まりですか?」
「この紅茶って、種類は?」
「種類、ですか? ダージリンとアッサムがございます」
「二種類だけですか」
「すみません、紅茶はそれだけなんです」
「そうですか。じゃ、この日替わりケーキセットください。紅茶の種類はダージリンで」
「かしこまりました」
取り出したメモ帳に書き留め、会釈をしてカウンターへ向かう。日替わりケーキセット、本日のケーキはチーズケーキだ。紅茶の用意を済ませてからカウンターの隣にあるショーウィンドウからチーズケーキを取り出す。トッピングを施して紅茶とともに席に持っていくと、女の子はあの不思議な箱を両手にとってじっと見つめていた。たまに丸い突起の裏側を指で触れている。
「おまたせいたしました、紅茶の日替わりケーキセットです」
その不思議な箱に集中していたためかわたしの声に驚いたらしい。いつもより大きな動作でこちらを仰ぎ見た顔はどこか落ち着きがなさそうに見えた。
目の前に紅茶とチーズケーキを置きながらずっと気になっていた不思議な箱について聞いてみることにした。
「その、昨日も持ってきていた変な箱みたいなもの……それはいったいなんですか? 初めて見るものなんで気になっちゃって」
「変な箱? カメラのことですか」
「カメラ? それが?」
「はい」
わたしの知るカメラと全然違いとても驚いた。わたしの知る普通のカメラはカメラ単体の機能があるだけでなく、携帯ツールと一緒になっている。しかもこんなに大きな箱のような形は必要ない。カメラの機能は今目の前にある状況をそのまま一枚の写真にしたり、動画を撮ったり、逆に一枚の写真に写るものを実体化したり動画に映る風景を目の前で立体化して再現したりするものだ。実体化などの機能は三百年ほど前の時代にできた機能だと聞いたが、写真を撮る、動画を撮るという機能は五百年ほども前からあると聞いたことがある。
女の子は初めて見る形のカメラをわたしによく見えるように両手を突き出して見せてくれた。
「大昔のデザインのものです。カメラという代物がやっと出始めた頃の古いもの。一眼レフと呼ばれます」
「イチガンレフ……へぇ、最初のカメラってこんな形してたんだ」
女の子はイチガンレフと呼ばれるカメラをテーブルに飾るようにおいて、わたしが持ってきた紅茶のカップを手に取った。少しだけ香りを楽しんでから一口飲む。そこで初めてその女の子の小さく笑う姿を見たのだった。
「美味しい」
「ありがとうございます」
今までにも何度か来店してくれた客が品を喜ぶ声を耳にしてきたが、何故かこの女の子の感想だけは特別嬉しかった。自然と自分の顔もほころぶ。
カップを戻し、今度はフォークを持ってケーキに一口サイズのメスを入れる。口に放り込んだ時の優しい顔がわたしの心を癒やした。
しばらくの沈黙の間、わたしはずっとこの女の子に教えてもらったイチガンレフについて考えていた。別に古いものに対して嫌悪感などがあるわけではない、寧ろこのアンティークカフェを手伝っているわけなのでアンティークを悪いものだとは思っていない。ただ、最新のカメラツールもあるのにどうして古いカメラにこだわって写真を撮っているのか純粋に疑問に思ったのだ。持ち歩いているのだから何か特別が思い入れがあるに違いない。
わたしは思い切って女の子に聞いてみることにした。
「そういえば、どうしてそんな古いカメラを持ち歩いているんですか?」
「え?」
「カメラなら最新のものがたくさんあるし、他の機能もたくさんあるのにどうしてかなって」
素直な疑問を投げかける。女の子はケーキを食べる手を止め、さらに一拍おいてから口を開いた。
「……最近、古いものに興味が出てきたんです。ここに入ってみたのもアンティークに興味があったから」
「そうだったんですか」
返ってきた答えはシンプルで分かりやすいが、どこか納得のいかないものだった。もう少し深く聞いてみたいが、出会って二日目でお客の趣味の話に深く突っ込むのはどうかと思い直す。いやでも。心の中で自問自答を繰り返していると、今度は女の子から質問された。
「店員さんも、アンティーク好きじゃないんですか?」
「アンティーク趣味は母のもので、わたしはここを手伝っているだけなので。もちろん嫌いではないですよ! あそこに飾ってある時計はわたしのお気に入りでここに飾らせてもらっているし」
言いながらすぐ目の前にある丸くて白い家庭用の時計を指差す。ガラス部分には少しだけヒビが入っていたり白いはずなのに黒ずんで汚れているが、わたしにとってその時計は何故か思い入れのある時計だった。
「あれ店員さんのチョイスなんですか。素敵です」
ストレートに褒められたことが少し気恥ずかしい。それから、この女の子がわたしのことを「店員さん」と少々苦し紛れに言っているのを聞いて、自己紹介をしようと思った。
「そんなことないですよ。それからわたしのことはぜひ亜美と呼んでください」
「亜美さん、ですか。私はユイっていいます」
「ユイさんかぁ。漢字とかあるんですか?」
「はい。結ぶ衣で、結衣」
「なるほど! いいお名前ですねぇ」
「そういってもらえると、嬉しい……です」
結衣さんはふっと目を伏せるとそのまま固まってしまった。耳をほんのり赤くしているところがとても可愛い。あまり感情のこもった話し方をしていなかったのでそうした仕草をしない子なのかと思ったがそうでもないようだ。いつの間にかわたしの口角は上がっていた。
「亜美さんはどうしてあの時計がお気に入りなんですか? 見たところそんなに高価なものではなさそうですけど」
急に顔を上げたと思ったらわたしが投げた質問を返されて面食らう。そんな質問をされて咄嗟にはっきりと答えが出てくることはなかった。
「正直、なんであの時計が好きなのか分かりません。でもなぜか、惹かれるんです。不思議ですよね」
「そうなんですか」
きっとわたしの答えを結衣さんは納得していないだろう。自分が投げたブーメランがもとに戻ってきて自分が痛手を負った気分だった。その空気がなんともいたたまれず、言い訳がましくわたしの口は動いた。
「結衣さんがその古いカメラを持ち歩くのもこんな感じではないですか? 好きになるものとか好きな人って好きになる理由とか曖昧じゃないですか?」
「そうですか? 私は別に、結構ハッキリしてるかも」
「へぇ、例えば?」
「え……例えば、ですか」
思いつくがままに言い返していると自分は「例えば?」なんて失礼な質問をしていた。申し訳なく思いつつも、実は内心では何を例えるのか少し楽しみだった。口につくまま喋ってしまっていたが、好きな人とかで例えてくれたら面白いな、なんてさらに失礼なことを考えている自分がとても愚かしい。こんな愚かしい質問を真剣に考える結衣さんの姿が健気で、どこか滑稽でさらに申し訳なさが心の中にじわじわと広がっていった。
結衣さんは紅茶を一口飲んでから思いついたように喋り出した。
「私、紅茶だったらこのダージリンが一番好きです。他の種類と比べて主張しすぎない素朴な感じ、何にでも合うところがいい」
申し訳なく思いつつも期待していた自分が急に馬鹿らしくなった。予想外の例えかたになんと返せばいいか迷ってしまう。
「紅茶、詳しいんですね」
迷った結果がこんな言葉しか言えないなんて。今度はなんとなく恥ずかしくなってしまった。そして、それに対する結衣さんの答え方を聞いていっそう恥ずかしさが増した。
「はい。好きなんで」
「店内に飾ってあるやつ、近づいて見たり、触ったりしてもいいですか?」
カウンターで雑用をこなしていると結衣さんが目の前まで来ていた。カメラを持ちながらここへ来たということは写真を撮るつもりなのだろう。
「いいですよ。そのカメラで写真撮るのも全然問題ありません」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてすぐ後ろにある大きな振り子時計に近づいて行く。今の時代振り子時計なんて全くないので珍しいらしい。気に入ったらしい品はシャッター音を響かせていくつか写真に収め、店内をゆっくりと回っていく。一瞬だけ見えた結衣さんの表情がとても楽しげで、何故か心がほっとした。
それまで無言で店内の装飾品を見て回っていた結衣さんの声が飛んできた。
「あれ? この時計止まってる?」
「どうしました?」
「亜美さんがお気に入りだって言ってたこの時計、秒針動いてないですよ」
時計が動いていない。そう指摘されて仕事をしていた手を止め、結衣さんの元へ向かった。
わたしのお気に入りの時計が飾られている所へ近づいてみる。よく見ると確かに秒針は二十秒の手前で止まり、時間は二時四十五分を少し過ぎたあたりでぴたりと動かなくなっていた。他の時計を確認すると、既に三時を過ぎている。
「本当だ、電池切れかなぁ」
「え、デンチって……それ充電式じゃないんですか?」
「そうなんですよ。相当古い時計だから乾電池とかいう電池しか対応してなくて」
「カンデンチ?」
「あれ、古いものが好きなら知っていると思っていましたが知らないですか?」
「初めて聞きました」
これは驚いた。アンティークに興味があると言っていたから電池の事も知っているかと思っていた。
「当時は使い捨ての固形電池パックだったそうです。今ではその電池パックを充電するものならぎりぎり手に入るんですけど、やっぱり高くて手に入れるのが難しくて」
「へぇ……アンティークって結構手間がかかるんですね」
「価値ある古いものを大切に管理しなければいけないですからね。わたしなんかはそういうの面倒くさがってしまいます」
時計を壁から外し裏にある電池ボックスから指一本分くらいの大きさの電池を二本抜く。運の悪いことに予備がすぐに出せない状態だったのでそのままカウンターに持っていき、しばらく外しておくことになった。カウンター裏の低い位置にある棚を覗き込み、空いているスペースにその時計を保管する。
カウンターから出ようと顔を上げると、結衣さんは帰り支度を始めていた。
「お帰りですか」
「あんまり出歩いていると親がうるさいので。ごちそうさまでした」
「いいえ! こちらこそありがとうございました。お話もたくさんできて楽しかったです」
会計を済ませて入り口まで送っていく。結衣さんは出ていく手前で小さく頭を下げ、カメラを大事そうに持って店を出ていった。
「ありがとうございました!」
帰路につく結衣さんの後ろ姿はなんとなく嬉しそうだった。
扉に付けた小さなベルが乾いた音を立てる。その音にわたしは反射的にこう投げかけた。
「いらっしゃいませ」
扉の向こうからぺこりと頭を下げつつ入ってくる客人。ここ数日毎日通ってくれるその姿を見て自然と声のトーンが明るくなった。
「あ、結衣さん! また来てくれたんですね」
「……またお世話になります」
結衣さんは昨日と一昨日座ったいつもの席に座り、ずっと首にかけていた古い形のカメラを年季の入ったテーブルに置いた。
「三日も続けて来てくださるなんてとても嬉しいです」
「いえ。昨日も言ったようにここの雰囲気好きなんで。……迷惑じゃないですか?」
「全然そんなことありませんよ! ゆっくりしていってくださいね」
結衣さんが席につきメニュー表を広げるところをなんとなく見ていると、他の客人から会計の声がかかった。この日は珍しく客が多く来店しているのだ。多くと言っても満席になるほどではないが、二、三組が重なって入るくらいだ。この時間はピークが過ぎて最後の一組がちょうど出ていくところだった。
最後の一組の会計が済んだタイミングで結衣さんから声がかかる。
「すみません、注文いいですか」
「はい、ただいまお伺いします」
メモの用意をして結衣さんの元へ向かう。先ほどまで真剣にメニュー表を見ていたようだが、頼まれたものは拍子抜けするものだった。
「日替わりセットのケーキって今日はなんですか?」
「本日はアップルタルトですよ」
「タルトですか。じゃあ昨日と同じ、日替わりセットでお願いします」
「かしこまりました。紅茶の種類も昨日と同じダージリンでよろしいですか?」
「はい。お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
メモ機能に軽く書き留めてカウンターへ向かう。早速支度を始めようとした時、結衣さんの少し大きな声が届いた。
「止まった時計、すぐに直りそうですか?」
「残念ながら、すぐには直りそうにないです……どうやら動かない原因は電池だけじゃないみたいで」
紅茶を作りながら答えていく。閉店した後に電池を入れ替えて時計を見てみたがうまく動かなかった。針は一応動くがなかなか進まないのだ。
「そうですか。なんだか寂しいですね」
「そうですよね。先ほどのお客さんからもあそこだけ空いているのはおかしいし、寂しいって言われちゃって。新しいものを飾ろうかと考えていたところです」
ケーキの用意も終えて紅茶と一緒に持っていく。結衣さんは相変わらずカメラをいじりながら注文の品を待っていた。
「お待たせいたしました」
テーブルに並べ終えないうちに結衣さんがぺこりと頭を下げる。カメラをテーブルに置いて、紅茶の入ったカップに手を伸ばした。
その時、古いカメラで撮った写真を額に入れて時計の代わりに飾ることを思いついた。あの空いた空間に結衣さんが撮った写真が飾られることを想像してみる。うん、いいかもしれない。
「ちょっと考えてみたんですけど、結衣さんがそのカメラで撮った写真をあの空いた空間に飾るのはどうですか?」
「私の撮った写真、ですか……」
「はい、きっといい感じだと思うんですよ」
彼女の反応を待つがカップを手に包んだまま動かない。きっと想像しているのだろう。いい答えがもらえるかもしれない。
しかし、結衣さんは首を横に振った。
「いい考えだと思いますが、私は遠慮しておきます」
「そうですか? 古いカメラで撮った写真もアンティークとして立派だと思いますが……あ、もしかして迷惑じゃないかとか思ってます? それだったら心配しなくて大丈夫ですよ! うちの母なら許すどころか頼みに来るくらいかと」
「違うんです」
先ほどよりも強い拒否を受けて少し困惑する。
「結衣さん?」
「――ないんです」
「え?」
結衣さんのだんだん小さくなる声がわたしを不安にさせた。
「……映らないんです。撮りたいものが映らない。ううん、逆。このカメラに映るのは、このカメラが映すのは私の求めるものじゃない。これはカメラのクセに写真なんか撮れない。このカメラで撮れたものをこんな素敵なお店になんか飾れない」
撮りたいものが映らない。カメラのクセに写真なんか撮れない? 結衣さんが言っていることが全く理解できず、わたしは口をぽかんと開けることしかできない。
「ごめんなさい、変なこと言いました。忘れてください」
「どういうことですか」
やっと出てきた一言がそれだった。そしてそれをきっかけに疑問が次々と口をつく。
「カメラのクセに写真が撮れないとか、撮りたいものが撮れないとか、どういうことですか?」
言ってから少しきつい言い方になってしまっただろうかと後悔する。だが謝るタイミングが掴めないまま、わたしの前に結衣さんの持ち歩いていたカメラが差し出された。
「その裏にある小さな窓みたいな所を覗き込んで私を映してみてください」
「あ、はい」
言われるがままにそのカメラを手に取る。手にギリギリ収まるくらいの大きさなのにずっしりと重量感がある。こんなものをずっと首からかけているなんて、首や肩が凝らないのだろうか。そんな余計なことを考えながら言われるままに覗き込んでみた。
「あれ?」
ない。結衣さんの姿がどこにもない。テーブルにあるはずの紅茶やケーキもない。
そのまま店内もぐるりとゆっくり映してみる。天井から吊り下げられた電球の灯りが点いていない。時計が全部動いていない。飾ってある骨董品が全て埃を被っている。カウンター横のショーウィンドウにあるはずの数種のケーキがない。カウンターに置いてあるコーヒーメーカーが動いていない。そしてわたしのお気に入りの時計がまだ飾られている。まるで時が止まっているかのような光景がそこには映し出されていた。カメラから顔を上げて店内を確認してみる。灯りはともり、時計は休まず時を刻んでいるし、ケーキもちゃんとある。コーヒーメーカーも動いている。テーブルには自分が出した紅茶やケーキがある。目の前の椅子には結衣さんがちゃんといる。わたしのお気に入りの時計はなく、異様な空間を作っている。
自分の普段見る光景と、このカメラが映す寂れた店内の差がわたしを謎の焦りで覆いだした。
「どうして? なんで結衣さんの姿が映らないの? テーブルの上にあるはずのお茶もケーキも、どうして?」
「そのカメラは今私たちがいる仮想空間を映していない。カメラが映しているのは現実です」
「あれが現実? あれが向こう側のわたしのお店……?」
仮想空間、現実。当たり前のように生活になじんだ言葉がわたしを覆う謎の焦りをさらに増幅させた。
わたしたちは今、仮想空間という現実によく似たデータの世界で暮らしている。遥か昔、現実――地球環境がまともに住めないほど汚染されてしまった。最初の一世紀ほどは外気に触れないよう建物の中でのみ暮らしていたが、それでは増える人口に対応できない。人々は大昔から言われてきた「惑星移住計画」を早く進めることを余儀なくされた。しかしそれが完成するより前にどんどん環境は悪化していく。そんな時、その計画の裏で地道に練られていた「データ世界移住計画」が完成し、人々はここに住み始めた。さらに人々は永久的にこのデータの世界で生きられるよう、自らの身体を加工し、ヒューマノイド化した。こうすることで人々は喩え現実で肉体が死んでも、データの世界で生きていけるようになった。今では地球環境が全てよくなったわけではないが、外気に触れないようにしていけば現実でもなんとか暮らしていける。そのため、人々は現実と仮想空間を行き来して暮らしているのだ。もちろん現実より、仮想空間内のほうがはるかに安心だし便利なので、現実で暮らしている人はごく少数だ。
結衣さんはそのまま、静かに語り始めた。
「そのカメラは私が見ている風景をそのまま映してくれません。とてもきれいな花や、夕焼け、私が美味しいと思って食べている紅茶やケーキは現実にはない。このカメラに映らないものは全部仮想空間内で作られたデータなんですよ」
「確かにそうだけど、でもおかしくないですか? わたしもカメラツールで写真を撮りますが、それはちゃんとこの世界を映しますよ」
「それは今の時代に対応したカメラだからですよ。この古いカメラは今の時代を想定なんかしてない。ありのままを映すのがカメラ、だから何もない現実だけ映すんです」
「それじゃあ、結衣さんはこの寂しい風景しか映さないカメラをどうして持ち歩いているんですか? もしかして写真を撮るために持っているわけではないとか? それともわざと? 結衣さんはずっと寂れた店内を撮ってたってことですか」
「はい」
素直に頷く結衣さんに対して急に苛立ちが募ってきた。何も動かない、誰もいない埃を被った店内を撮って何が面白いのだろう。急にその行動が冷やかしのように思えてきたのだ。本当はそんな言い方をするつもりはなかったのに、気づいた時にはわたしは結衣さんに酷い口調で言っていた。
「古くて不思議で、特別で素敵だと思ったのに、結衣さんがこれを持ち歩く意味が分かりません。どうしてですか?」
それなのにわたしより幼い結衣さんは冷静に答えてくれる。
「私にとってそのカメラは特別で素敵なものだからです。亜美さんにはきっと意味が分からないことだと思います」
「ええ、もう少し具体的に教えていただきたいです」
結衣さんは深く息を吸った。
「……亜美さんは、一度終わったはずなのに、この仮想空間内でのみ再び生き続けなければいけない辛さが分かりますか?」
「え?」
結衣さんはその内容の重さに反比例して淡々と、その過去を教えてくれた。
私は、だいたい一ヶ月前に一度死にました。交通事故です。でも私はヒューマノイドで、命を落としたのが現実だったため、データの私はまだ生きていました。だから今私はこの仮想空間内でこうして生きています。
家族や周りの人達にはヒューマノイド化していてよかったと言われました。でも、私は全然嬉しくなかった。現実に似せたデータでできた世界で生きていてもつまらなかった。変化が多くて、一瞬を大切に思える現実のほうが好きでした。でも現実には戻れない。
ある時、このカメラに出会いました。普通のカメラはこの仮想空間を映すのに、このカメラは仮想空間なんて知らない時代に作られたから現実しか映さなかった。映し出された現実がとても羨ましかった。――まだ、映し出された世界で生きていたかった。
私がそのカメラを持ち歩くのは、私の好きな現実を見せてくれるからです。時間の流れを録画して停止再生するような便利な世界より、そんなことできない一瞬を大切に思える現実のほうが何倍も価値がある。私は、その一瞬をずっと過ごしてきたカメラや、ここに飾られているアンティークがとても好きです。
「ごめんなさい、変なこと喋りました」
結衣さんが紅茶を一口啜ったことで、そこで話は終わったのだと理解できた。
「ううん。わたしこそきついこと言って、重いことを喋らせてしまってごめんなさい」
「気にしませんよ、そう思うのが普通だもん」
わたしの持ってきたアップルタルトをつつき始める。重いことを喋っていたはずなのにタルトを美味しいと言いながら淡々と食べる姿を見てさらに申し訳なく思った。
タルトを半分以上食べたところで結衣さんはふと顔を上げた。その視線の先はわたしではなく、時計が飾られていた壁だった。
「あの空いたスペースは、あの時計が直るまでそのままでいいと思います。新しいものを飾るよりマシです。どうしても直らなければ止まったままでも素敵だと思います」
そうだった、あの空いた空間に何を飾るかわたしのほうが聞いていたんだっけ。
「そうですか。そうですよね、わたしもせっかくお気に入りの時計なのに飾られないなんて悲しいです」
「そうしてください。……私も、あの時計好きなんで」
その言葉を聞いた瞬間、暗くなっていた心がふわっと暖かくなった。
人工的に作られた夕焼けの色が窓から入る頃合いになってからやっと結衣さんは席を立ちあがった。昨日と一昨日はそれよりも早く帰っていたが、今日は違う。
「そろそろ帰ります。明日も来たいけど――もう家に帰っちゃうし」
てっきりこの近くに住んでいたのかと思っていたが、どういうことだろう。
「お家がこの近くにあるわけではないんですか?」
「はい。一昨日から今日まで、進路関係で家族とこちらに来ていたんです。でもずっと家族といるのはつまらないし、暇になったら一人でここに遊びに来ていました」
話しながら会計を済ます。最新の機能で見えない金銭のやり取りが行われていく。
「そうだったんですかぁ。またこちらに来る機会があったら、ぜひ遊びに来てくださいね」
「はい、また機会があったら」
結衣さんは笑顔で手を振ってくれた。それに対してわたしも笑顔で結衣さんを見送る。
約一ヶ月前の最後の日、一番最後に私の目に映ったのは、周りを枯れた葉で覆われた小さな建物だった。灯りなんかともっていない、誰もいないらしい建物。その建物には枯れた植物に埋もれて名前が記されていた。
〝アンティークカフェ カミガサキ〟
人気がないことからもう営業していないことが分かる。いや、休業だろうか。とにかくこの現実ではもう機能していないのだろう。そのことを理解しつつも私は何故かそのお店に近づいて見てみたいと思った。近くで廃れた感覚を堪能したいと思った。
しかしそれは叶わなかった。一歩踏み出した瞬間に感じた衝撃は、今も忘れない。
このカメラを持ち歩く理由ですか? ただ単にこういう古いものに興味があったからです。……詳しくいうと、私の理想の世界だけを映してくれるからです。アンティークってとても素敵なものだと思いますよ。今ある一瞬をいかに大切にしてきたかがその年季の入った姿で分かるんですから。
お読みいただきありがとうございます。
ご感想をいただけると大変嬉しく思います。
この作品は、別作品と一緒に見ていただけるとさらに楽しめるものになっています。
そちらもあわせてご覧いただけると幸いです。